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学校で学び、街で学ぶ ー「壁のない大学」で学ぶほんとうの意味

学校で学び、街で学ぶ、それが僕のスタイルである。片方だけではだめ、僕にはどちらも必要だ。小学校3年生のときに地元の公立小学校を不登校になり、学校だけでは学べないのだと気づいた。逆に、転校先の小学校で一生たいせつな友達とたくさん出会ったとき、街だけでは学べないのだと彼女らが教えてくれた。中学高校に上がってからは、学校でそこそこの成績を取りながらも、学校の外によく飛び出していろんなことを学んだ。

「料理する時間なんて、あるの?」と、先日新しいルームメイトが、僕の机の前の棚に並べられた食器と料理道具を見て言った。彼は同じ大学の工学部の学生だが、どうやら工学部の学生は普段の授業・課題・試験がとっても大変らしい。あるときは、月曜日から日曜日まで休みなくずっと学校の課題に取り組んでいたこともあったという。

海外の大学に留学して、大学の課題をこなしながら料理する時間があるかどうかはわからない。でも、料理をする時間―すなわち大学の授業・課題・試験以外の時間―は僕にとって、大学と同じくらい重要だ。このあいだ、スーパーで生クリームを買おうと思ったら、間違えて牛乳50%・生クリーム50%が混ざっているものを買ってしまい、それでクリームパスタを作って大変なことになった。寮の1階にある共用のキッチンスタジオで、上手くつくれなかったパスタを落ち込みながら口に運んでたら、隣で美味しそうな日本食を作っている男の子を見かけた。声をかけたらそのときはそっけなく返されたけど、彼が料理を終えるまで(まずいパスタを食べながら)待っていたら、彼が僕の隣に腰掛けて一緒に話をしてくれた。父親が中国人・母親が日本人のハーフで、バルセロナとシンガポールで育ったらしい。僕とあまりに違うバックグラウンドを持っているのに、彼がつくっている鶏肉の照り煮と白米とごましおは、たしかに僕もたくさん食べてきた味だというのが面白い。

彼のように世界中を転々としながら暮らす生活をしてきた人は、僕にとって多少憧れの対象でもある。それでも別の韓国人の友人で、ロシアとアメリカと韓国を行き来して育った友人いわく、僕のように一つの国で育ち、地元を持ち、その場所で付き合いの長い親友を持つのも、彼らにとっては憧れらしい。これは、パスタづくりに失敗した翌々日に、彼に誘ってもらって一緒にとんかつを食べに行ったときに、彼が教えてくれた話である。

大学での学業的な成功と、その後のキャリアの成功、あるいは人生の成功はどれくらい関係するのだろうか。例えば、工学部の学生であれば、大学できちんと基礎から応用までを体系的に技術習得することが、卒業後のエンジニアとしてのキャリアの成功に直接的に関わるかもしれない。逆に考えると、キャリアや人生の成功に必要なもののうちの、どれくらいの割合のものを、私たちは大学で学ぶことができるのだろう?教育社会学を(いちおう)専門に学んでいる僕の場合、教育者として・学者として・あるいはそれ以外の道で自分が納得した生き方をするために、大学で学ぶことは必ず必要だと思うが、どれくらい重要かと言われると、あまり定かではない。

僕の通うニューヨーク大学には、「壁のない大学」というコンセプトがある。いわゆる「キャンパス」を持たず、街のなかに大学のビルがあって、そのなかに教室がある。だから、大学のビルの前を一般の人も普通に通るし、大学のビルの隣が市民に愛されるカフェというのも普通である。学生の目線でいうと、大学で授業を受けるのと、街で過ごすのとが一体ということにいなる。

しかし、このコンセプトをもうちょっと深く考えてみると、「壁のない大学」というのは、大学に壁は(いら)ないということ、すなわち大学で学ぶことと、街で学ぶことはなにかしら隣り合わせであり、それを必ずしも区切る必要はないという価値観なのかもしれない。もっというとそれは、「大学がすべてではなく、私たち大学は、学生が卒業後にそれぞれ納得する人生を歩むために必要なすべてのものを教授するわけではありませんよ」という、大学からのメッセージなのかもしれない。

9月1日から新しい学期がはじまる。教育社会学専攻に最近切り替えたので、次の学期は1年生と一緒に教育社会学入門の授業を取る。とんかつを食べにいった韓国人の友人は、韓国で幼少期を過ごさなかった背景に、父親が韓国の過酷な競争教育システムを嫌ったことがあったらしい。まずいパスタを食べる僕にはなしかけてくれた彼も、もしかしたらアジア型の教育システムへの抵抗感があって、他の国で育ったのかもしれない。それにしても、彼がアジア人の両親を持ちながらバルセロナとシンガポールで暮らし、今はアメリカで大学生をするその過程のなかで、どのような教育体験を受けてきたのかはとても興味深い。街で学んだ内容が、学校での学びと交わっていく。その交差点から見える景色は、教科書の行間からわかる景色とはまた違うのかもしれない。

小学6年生のとき、学校近くの最寄り駅から学校まで歩く15分間から、僕はたくさんのことを学んだ。季節が変わると、周りに咲いている花や木々も変わる。住宅街だから、たまに学校近くで暮らしている地域住民の生活ぶりも伺える。最寄り駅の近くの惣菜屋さんの値段が下がっているのをみて、なんだか最近景気が悪いのかなとか、いろんなことを妄想した。そしてその道を親友と一緒にくだらない話をしながら歩いたのも、今となっては僕にたくさんのことを気づかせてくれた。あのときから8年、学校で学び、街で学ぶスタイルは今も変わらない。9月から、寮のあるブルックリンから大学のあるマンハッタンまでの15分間で、僕はなにを学べるか、いまからとても楽しみである。もちろんキッチンでも、そして大学の教室でも。


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