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童話ー風向きー

まんまるの大きな月が空に浮かぶ頃、僕は屋根の上で真っ直ぐに立っていた。
まるで一直線の黒鉄の棒のように、そして家を守る兵隊のように、真っ直ぐに立って空を見上げていた。
昨日は大きな台風が近づいていて、荒れた空だったのが一転し、今日は穏やかな夜だった。

「こんばんは!今日は風が穏やかですね」
隣の石造りの屋根の上から、その人は僕に向かって挨拶をした。
僕は、顔だけを向けて返事をした。正確には、体を向けるには不自由だった。体のあちらこちらはギシギシ音が鳴るし、足を動かすには少し錆びついていたからだ。
「こんばんは、今日は穏やかな夜ですね。昨日の台風が嘘のようだ」
そう言って僕はまた空を仰いだ。静かに瞬く星々を眺め、僕はゆっくりと深呼吸した。
隣人は、背中に羽根のようなものが生えており、ふわりと音もなく僕の隣へやってきた。
「そんなに真っ直ぐに立っていたら疲れてしまうよ。気を楽におしよ。台風も、もう聞こえないくらい遠い所まで行ったんじゃないの?」
隣人は耳を指差してそう言った。僕の耳は他の人より大きいから、遠くの音だって聞こえるんだ。隣人とは、この家が建った時からの長い付き合いだから、僕のことをよく知っていた。
「それに、ほら、少し足の先が錆びついているだろう。休まず風を見続けた証拠じゃないか。何をそんなに気にすることがあるんだい。」
隣人は、僕の隣に胡座をかいて座って言った。
僕は夜風を感じながら、ここ最近、僕がこうしてずっと風の様子を観ている訳を話した。
「君は知らないかもしれないけど、この家のご主人は、海の向こうにある国へ用事があって、昨日大きな船に乗って行ってしまったんだよ。それが丁度、台風が近づいていたものだから、ご主人の奥さんは気が気ではなかったんだ。何せ船だから、例え大きくても決して難破しないとは限らないからね。」
「へぇ、そうかい。」
軽い返事。
隣人は、恐らく知っていたのだろうと思う。それ程気にも留めず、頬杖をつきながら僕を見上げて続けて言った。
「昨日の台風は少し大きかったから、船も揺れただろうね。それで、ご主人は無事に着いたのかい?」
「ご主人は、向こうへ着いたら手紙を書くって言っていたよ。奥さんはご主人の船旅が無事に目的地へ着いて、その手紙が届くのを今か今かと心待ちにしているんだ。今日の晩御飯の時だって、子供たちやお手伝いさんとその話していたんだ。僕も無事に着いてほしいと思っている。僕はただ風を観ることと、この屋根から無事を祈ることしができないけれどね。」
僕は、自分が立っている屋根を示すように両手を広げてそう言った。
隣人は、少し考えているように黙って遠くを見つめた。背中の羽のようなものが、ふわふわと風に揺れている。僕は、その白いような黄色いような羽を見つめるのが好きだった。こんなに長く付き合っているお隣さんなのに、その背中に生えているものが、天使のような翼なのか、それとも石像が纏っている布のようなものなのかは知らなかった。絹のように滑らかで、水のように透き通っていた。
暫くして隣人が口を開いた。
「ご主人が乗った船に、昨日の台風が悪さしていないといいのだけれど…。でも船に何かあれば、君の耳でいち早く察知することができるだろうから、きっと無事だろうね。」
「僕もそう思うよ。でも万が一ということもあるから…。」
僕はまた、少しご主人が心配になった。
ご主人が向かった国が、ここからどれくらい離れているのかは知らなかった。ただ、この高い屋根の上から海を見渡しても、陸地が見えないくらい遠いことだけは知っていた。
今日も何隻かの船が遠くで行き交うのは見えたので、今日は穏やかな波だったのだろうと思っていた。昨日がそうであったなら良かったのに、とも感じていた。
隣人は、遠くを見つめ続ける僕に、少し心配そうな顔をして、僕の足に手を置いた。
錆びれてざらざらしている僕の足を、隣人は優しく撫でた。
「君はまるで、休息という言葉を知らないようだ。」
僕は少しその言葉に悲しくなった。
哀れに思われたような気がして、僕はどう言っていいか分からなかった。だって、僕は自分の意思でここに立っているのだから。それに、他に行く場所も無かった。
「…僕はいいのさ。どうせここに立っていられるのも、そんなに長くもなさそうだ。この気象の荒い地域で僕のようなものは、すぐに錆びついて壊れてしまうだろうし。」
僕は諦め半分で、肩を落としてそう言った。
「何せここは海も近いから、潮風が吹くとどうしても体のあちらこちらが怪我をしたかのようにヒリヒリと痛む。この足はもう動かないみたい。」
固まった足を見下ろして言う。心配そうにしている隣人に、僕は大丈夫と言うように微笑みかけた。
「君は、自由になりたいとは思わないの?この家から離れて、好きなところへ行ってみたら?自分に祈れば、その足も良くなるかもしれないよ。」
隣人の言葉に僕は驚いた。
「自分のために祈るなんて、考えもしなかった。」
「それは君を作った人が、この家を守るように言ったからだよ。」
隣人は何ともない、普通のことのように答えた。僕はまた驚いた。
「君は、僕を作った人を知っているのかい?あの髪と髭の境目が分からないおじいさんを…。」
僕は隣人の顔を覗き込むように、しゃがんで話を聞こうとした。
隣人は僕の顔を見て吹き出し、笑い出した。
「確かに、髪と髭の境目が分からないような人だったね!」
余程笑いのツボだったのか、ケラケラと笑った。僕も釣られて笑ってしまった。僕を作ってくれた人なのに、笑ってしまうなんて申し訳ないと思い、直ぐ口を押さえた。
「いや、ごめんごめん。君を作った人はよく知っているよ。この街では有名だし、君以外にも作られた子は、そこら中にいるんじゃないかな。でも、君が一番のお気に入りだったみたいだね。こうやって話しが出来ることって、そんなないもん。どの子よりも丁寧に作られたみたい。」
私の隣に建てられた家だからかな、と隣人は呟いたが、僕は生まれて初めて知った事実に驚いていた。僕があまり隣人のことを知らないのは、質問しても教えてくれないからだ。自分が喋りたいと思う時にしか、教えてくれない、常に自由であった。
だから、今回も聞き逃さないように、静かに聞いていた。しかし、もうそれ以上は話さなかった。
僕は諦めて、また海を見つめた。月明かりがきらきらと映る水面が綺麗だった。
街頭の少ないこの街では、月明かりは一層明るく街を照らしている。

幾日か過ぎた日の夜、遠い所で雨が降ってる音がした。海風が強く、どこの家も窓をピッタリと締めきっていた。僕は潮風を感じながら、また遊びに来た隣人とお喋りをしていた。
「風の強い日は、奥さんの想いが、足を伝って聞こえてくるようだよ。何だか忙しないんだ。ご主人はもう向こうの国へ着いたかな?手紙がいつ届くのかって、子供達が話し合っていたよ。」
どこからか摘んできた赤いゼラニウムの花を片手に隣人は尋ねた。
「今日は、そこまで風が強いの?」
「いつもよりはね。遠くの海も匂いが伝わってくるくらいに、風は強いよ。…その花、どこから取ってきたの?」
今度は僕が尋ねた。
隣人は、これ?と言って僕にその花を向けた。
「あそこの赤い屋根瓦の家で咲いていたんだ。屋根と同じくらい赤い綺麗な花だったから取ってきちゃった。台風が来ても散らないなんて強い花だね。君みたいじゃない?」
ほら!と言い、顔に近づけて見せてきた。僕がたじろぐと隣人は笑った。
「確か、明日は貨物船が到着する日だったと思うよ。だから、早ければ明日にでも手紙が届くかもしれないね。」
「本当?やった!それなら早く明日にならないかな。僕、楽しみだ。」
「君は、朝日が出ると寝てしまうもんね。私は一日中起きているから、君が寝ている間は話し相手がいなくて暇で仕方がないよ。まぁ、起きれているから貨物船の話とか、いろんな話し声が聞けるけれど。」
「昼間は起きていられないんだ。耳が良い分、休みたがっているみたいでさ。」
「前はそんなこと無かったでしょ?やっぱり、体にガタが来ているのかもしれないね。君は真面目だからさ、もう少し肩の力を抜いたら良いのに。」
「僕、何回も考えてみたけれど、やっぱりここの家が今日も明日も無事に過ごせますようにって、お祈りしたいって心からそう思うんだ。」
隣人は、納得いかなさそうに苦笑いした。

明くる朝には、思った通り、郵便屋が手紙を配達に来たようだ。隣のご主人は無事に目的地へ着いたようで、良い知らせだというのはすぐに分かった。奥さんの上機嫌な声が、家の外にまで響いたくらいだ。
「君が毎日お祈りしているお陰だね。」
静かに眠っている僕に、隣人は独り言のようにそう言った。
穏やかな海には、太陽の光が煌めいていた。眩しいくらいに晴れ渡る空だった。鴎や海猫が目を覚まし、漁船に集まって飛んでいる。その内、数羽が屋根にとまってこちらを不思議そうに見つめてきた。
鳥とは違う羽のようなものが隣人の背中にあることが、鳥にとっては不思議に思っているのかもしれない。しかし直ぐに空に向かって羽ばたいて行ってしまった、鳥だから。
人間にとっては慌しく、隣人にとっては暇を持て余す一日の始まりだった。

夕日が海に沈む頃、僕は眠い目を擦って背伸びをした。ぎしぎしと軋む体の音。足は相変わらず棒のようだ。
「君に良いお知らせがあるよ。」
「手紙が届いたの?」
僕はハッとして隣の屋根の上に座っている隣人に聞いた。隣人のにっこりとした笑顔と、奥さんたちの楽しそうな話し声がその答えだった。
嬉しくて、安心すると同時に、全身から力が抜けていくようだった。
「良かった。これで一安心だ。」
「本当に良かったね。風は良い方向へ向いたようだよ。」
僕は久しぶりに、一息つけた気がした。沈む夕日が、いつもより何だか温かく感じる。家の中が明るく幸せな空間になっているのが、足を伝わって感じた。
隣人は、ふわりとまた音もなく僕の横に飛んできた。今日は僕も、他愛無いお喋りをしてその日を過ごすことができた。

「明日、ご主人が帰ってくるそうだよ。」
幾日かした後、隣人は突然そう言った。
「そうなの?どこでそれを?」
僕は驚いて隣人に尋ねた。奥さんたちはまだ知らないようで、家の中は平然としていた。
「遠くでそんな話し声が聞こえたんだ。突然、予定が変更したみたいだね。」
僕はとても嬉しく思ったが、同時に不安になった。今晩は、あまり天気が良くなかった。波も荒れていて、舟ががぼんっと波に打たれて揺れていた。
僕は咄嗟に空に向かって話しかけた。
「お願いします!どうかご主人が無事に帰って来れますように…。」


僕が願い疲れて眠りに着きそうな頃、隣の教会の鐘が、朝を伝えに鳴りだした。
隣人は、鐘がなっている石造りの屋根の上で、珍しく僕のように真っ直ぐに立って海を見つめていた。
今にも雷が鳴りそうな、雲行きの怪しい空だ。
いつの間にか、隣人はその手に持っていた一本の矢のような光るものを、海の上に広がる黒い雲に向かって勢いよく投げつけた。
まるで空を切り裂くように、黒い雲が二つに分かれ、隙間から太陽が顔を覗かせた。さっきまでの荒れそうな空が嘘のように一瞬で晴れ渡った。
僕は隣人の微笑んだ顔と、ずっと遠くから聞こえる汽笛の音に安堵して眠りについた。


この調子なら船もきっと大丈夫。
僕は緩やかな風を肌で感じてそう思った。


僕は、この家の風見どり。
風を見て空に語りかけ、僕はここの家族を見守るのが仕事です。
今日も明日も、その先も、この家のために祈り続けることでしょうーーーーこの体が錆び切ってしまうまで。

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