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別の選択肢はあったのか 

無限の可能性が存在していて、意識したものが現実とする時(というか、既に世の中の常識)、
当然ながら、「別の選択肢が無数にあった」 と考えることができる。

この概念を元にすれば、3次元に生きている私たちの思考ではとうてい理解できないけれども、多数の現実が、確かにどこかにはあるだろう。

意識している部分として、目の前の事実だけがあるわけで、
別の選択肢の現実はここにはない ということになる。

自動で起きているという事実

意識していることが現実になる という概念と、自動で起きている という概念は真逆の解釈のようでいて、結果的には同じといえる。

もう何を頑張って止めようとしても、考えは勝手に浮かんできてしまう。

勝手に浮かんできた思考に、また新たな思考を付け加えていく、
それは「勝手に」「全自動」で行われている。

意識をする という動作?は、自動で起きている としか言いようがない。

意識をして選択をした  という認識は、

意識をしている という意識があった時にしか生まれない。

朝起きてから寝るまでに、いちいち意識してこれやったあれやったと意識している人は皆無だろう。
そこには「意識した」とする意識など存在しないのである。


拒絶反応が起きている方は、確認して頂きたい。
明らかに、今この無意識の拒絶反応こそ「自動で起きている」のであって、私が拒絶反応を与えようと何かしているわけではない。

このように、何もかもが次々と「ただ起こってしまう」のである。
これは無限の追いかけっこで、起こったものを取り消すことも止めることも不可能だ。

宇宙の真実を私たちは思考上で理解することはできない。
なので、せいぜい「なにもかも自動で起きている」という言葉にするのが精一杯だ。
通常、理解に及ばないものを正しく言葉にすることも不可能だ。
至極、正しくそれを言葉に表せない精一杯の言葉として指し示しているわけだ。


自由意思はあるのか

その時々に発しているエネルギーによって、次の起こりが決まる。
それは確かだろう。
それを自由意思と位置付けることも起こるかもしれないが、それはあくまでも思考によってではなく、その人そのものがそうであることが前提となる。

量子力学的な表現をすれば、「量子がそのようにふるまう」ことが前提で、次に認識をするならば、「ふるまったようになる」ということだ。

なので、思考がどうであるかではなく、存在そのものがAかBかのようなものだ。なので意思という思考に基づくものとはちょっと違うのではないだろうか。

自由意思があるというのは、後付けの認識でしかない。

自由意思はないが、後になって「ある」ということは起きるだろう。

無限の可能性がある中で、次に何を意識するかはわからないから、そもそもが自由なのだが。

自由さしかない中、私たちは自動で形を創ってきている。今までもこれからも。

自由意思はないけど、そもそもがすべて自由である。


すべてが同時に存在する

世の中のものは小さい出来事も大きな出来事も、同じ構成でできているので、今あなたの目の前にある現実からも、大元の原理が働いている。

私たちはそれぞれの自宅に住んでいるけれど、それぞれの都道府県に住み、日本に住み、世界に住み、地球に住んでいる。果ては宇宙の一部でもある。
もっと先の何かもあるかもしれないけれど、私たちの認識上では今のところこれが限界。

意識したものが目の前に現れ続ける。各個体の意識のとおりに、今いる場所が現れている。

そして、よく見てほしいのが、私がそこに現れたのではなく、常に私の前に意識した世界が現れていることを。
むずかしいかな?

世界の中を移動しているわけではなく、私たちは自分の目を通し世界が現れてくる。という意味だ。


現れてくる世界には、時空を共有している、他の意識もある。
同一世界に多くの人がいるわけではない。
それぞれの世界の中で、共有する部分があるだけだ。

そして、意識にのぼらないところにもありとあらゆる世界(人)が存在していて、それぞれの世界(意識上のストーリー)がある。

まったく意識はしていないけれど、私たちは5次元世界を無意識に生きている。その次元にぴったりな見方、感じ方で生きている。
だから次元上昇などはない。すでにそこにあるのだから。

それぞれの意識のもと、今いる場所で目の前にあるものだけが事実。
しかし、個体の数だけ目の前の事実がある。

5次元は立体が多方面に無数の広がりがある世界。
3次元を生きる私たちから見ることはできない。
しかし、すでに私たちはその一員であるから、ほんの少しそれを意識できる範囲でも経験できている。


記憶と予測から起こる反応も自動的

AからBへ意識を向ける という「行為」は、現実として目に見えるものでいえば、場面Aから場面Bに変わるように見えている。

物質的なものでいえば、外出したからって自宅がなくなるわけではない。
これは人間が当たり前に持つ、決まりきった感覚だ。

だが、事実をそのまま書けば、自宅を出た瞬間、目に見えているものは自宅外の場面であり、自宅は見えていない。人間の脳の記憶機能で、自宅はある記憶上のものになる。

要するにシュミレーション仮説。のことを言いたいわけだが、
目の前にある「事実」だけを見たら、確かにその通りで、自分の意識があるところ以外は存在の確認はどうしてもできない。
電話やLINE等、データ、回線、波長を用いて存在を確認することはできたとしても。

まさに私たちの現実は、ビッグデータで創られたゲームの中に生きていることを認識できないのではないか という仮説があるわけだけど、私たちがするゲームのキャラクターもそれと全く同じだ。
キャラクターが自分の意識や意思決定を持っているかといえば持っていないだろうけれど、そのキャラクターに性格を持たせることは、私たちの意識がそう決めれば簡単にそうなる。
そして、そのキャラクターの意思決定はキャラクターがしているわけではなく、ゲームをしている側に委ねられている。

このようにどこまでいっても、どの角度から見ても、自由意思があることを見つけられない。

科学は潜在意識の部分を証明することは、未だできていない。
意識をもって理解できない世界が97%くらいあるのだろうから、もはや私たちの意識が及ぶことは、ごくごくごくわずかなことなのだ。

それなのに私たちは、自由意思を持っていると言えるのだろうか。




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