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向日葵の咲くあの場所へ

「山崎満千江さんのご自宅ですか」

 電話口の声にハッとする。義母はまた、家を抜け出していた。目を離した隙に、と口にしても、きっと言い訳にしか取られないだろう。

「すぐに迎えに行きます」

 私は、慌ててコンロの火を消して、外に出た。いつの間にいなくなったのか。私は、苛立ちよりも虚しさで心が折れてしまいそうだった。
 義母がいなくなったのは、これが初めてではない。最初の頃は、自宅近くをうろついていただけで、心配して探しにきた私に、ただの散歩ですよ、と笑っていた。おかしい、そう気がついた時には、もう義母は私のことを、義姉や孫の茉莉柰と間違えるまでになっていた。家族では、もう見れない。義母は、明日、ようやく空きが出た施設に入所することが決まっていた。

「あなた、またお義母さんが...」 

 単身赴任中の夫には、迷惑をかけられない。そういう思いもあったが、私の気持ちが限界だった。すまない、という言葉を期待したわけではないが、一言だけでも私を労ってはくれないだろうかという想いがあった。夫は、慌てた様子で、またかけると言った。仕事が忙しいことくらい、言われなくても分かっている。忙しいと言わなかったのは、夫のせめてものお詫びなのだろう。

 電話を切ると、娘の茉莉奈のことを思い出した。また、伝えられなかったか。家を飛び出した茉莉柰からの返事は、まだ返ってこない。茉莉柰は、やけに最近イライラしていて、私との関係は最悪だった。就職活動は苦戦し、ようやく決まった小売店の仕事も辞めたいと口にするようになった。せっかくもらった内定なのだからと説得する私に、お母さんみたいにはなりたくない、と反発した。勝手にしなさい、と言った次の日、買ったばかりの軽自動車と共に、茉莉柰は、家からいなくなっていた。息子の陽大も、ここ2日は顔を見ていない。フラフラと大学にも行かず、きっとのんきに遊び呆けているのだろう。

「あー!!」

 私は、走りながら思わず大声を出した。私の描いてた未来は、こんなはずではなかった。母のようにはなりたくない。茉莉奈の言葉が、胸に突き刺さる。私だって、こんな風になりたくはなかった。

 交番に駆け込むと、義母は私の顔を見て微笑んでいた。どんな思いで私がここにきたのか、怒りの感情はきっと届かない。

「あら、和子さんじゃない?久しぶりね。元気にしていた?」

 斜め前に住んでいた和子さんは、3年前に亡くなった。義母にとても良くしてくれた人だ。私のことを和子さんだと勘違いした義母は、最近の様子を独り言のように話しはじめた。また始まったかとため息をつくと、警察官が状況を察し、優しく、家族が迎えにこられましたから自宅に戻りましょう、と言った。

 同居を始めたのは、義父が亡くなって1年経った頃だ。元々しっかり者の義母は、一人で暮らしていくと家を離れることを拒んだ。結局、夫が一人では置いておけないと説得した。

「佳苗さん、それじゃあ子どもたちのためにならないわ」

 義母はよく、私の子育てにも口を出した。煩わしいと思うこともあったが、なぜか茉莉奈とは馬が合い、義母の言うことだけは素直に聞き入れていた。夫から同居の相談をされた時も、茉莉柰と陽大も反抗期のまっただ中で、私は、仕事と家庭の両立に疲れきっていた。さほど介護の必要がない母との同居は、子どもたちとの関係を修復出来るきっかけになるかもしれないと、私は、むしろ喜んでいた。
 最初の頃は、少し遠慮がちだった義母も、時間が経つにつれて、すっかり私たち家族に馴染んでいった。おかげで、子どもたちの反抗期をどうにか乗り切ることができたと思っている。

 次の日、朝早くに目が覚めた私は、玄関のドアが開いていることに気がついた。部屋を見渡しても義母はいない。私は、上着を羽織って慌てて外に出た。
 バス停には、パジャマ姿のまま、立ち尽くす義母の姿があった。私は、ホッと胸を撫で下ろす。

「バス、来ないわねぇ」

 このバス停を通る路線は利用者の減少で先月廃止され、大通りのバス停と統合された。義母は、なぜかバス停にばかりにこだわっていた。

「お義母さん、バスはもう来ないんですよ。路線が廃止されたって、この間話したじゃないですか」

「困ったわね、皆が待っているのよ」

「え?」

「約束したのよ、向日葵をね、見に行くって」

 義母は、そういうと歩きだしてしまった。

「ちょっと、お義母さん」

 義母は、私の声など聞こえないようで、どんどんと前へ進んでいく。

「早くいかないと。せっかく孝博も休みがとれて、佳苗さんも喜んでるはずよ」

 義母の足は止まらない。私は、義母の手を掴もうとして、このまま一緒に歩くことにした。今日で最後だ。気の済むまま行かせてやろう。そう思う気持ちと、もうどうにでもなれと、投げやりな気持ちもあった。

「和子さんのお孫さんは元気?うちはね、茉莉柰が今度、高校の吹奏楽部に入ったの」

 義母はまた、私のことを和子さんと間違えているようだった。話を聞きながら、記憶を呼び起こす。辺りを見渡すと以前、夫の運転する車でこの道を通ったことを思い出した。後部座席にはふてくされている茉莉柰と、ゲームに夢中な陽大を乗せ、私たちは久しぶりに家族で出かけた。あの日、琴の大会に出た義母は、遅れてバスで来ることになっていた。義母は今、6年前のあの時にいる。
 小道を進んでいく義母の背中は、随分と痩せたように見えた。最近、私は義母のことをちゃんと見れていたのだろうか。

「今日は、佳苗さんの日だから。ほら、見て」

 どれくらい歩いただろうか。義母はようやく足を止めた。脇腹を押さえながら顔を上げると、目の前には、一面の向日葵畑が広がっていた。私は、その景色に見とれて言葉を失った。

「茉莉柰ちゃんも陽大ちゃんも、今日は佳苗さんに、ありがとうを言う日よ」

 そういうと義母は、向日葵に囲まれた道を進んでいく。私も、後を追った。

「綺麗ねぇ」

 義母は、にっこりと笑う。あの日、バラバラになりかけていた家族を、義母が救った。険悪な家族の状態を気にかけた義母は、家族で過ごすことを提案した。単身赴任が決まった夫に、反抗期の子ども達。気持ちが切れかかっていた私は、久しぶりにここで家族と笑い合うことができた。

「あらっ、茉莉柰ちゃんじゃない?」

 振り返ると、買ったばかりの黄色の軽自動車が見えた。車から降りてきたのは、茉莉柰だ。横には、あくびをする陽大がいる。

「よかった。こっちよ、こっち。遅いんだから」

 義母が手招きする。陽大が手を振り返して、こちらに向かって歩いてくる。後ろでは、茉莉奈が気まずそうな表情をして、少し遅れて歩き出した。

「何でここに?」

「父さんが、ばあちゃんの最後の日だからって。姉ちゃんの予想通りだな。やっぱりここにいたか」

 夫が、子ども達に電話をしていたなんて思っても見なかった。

「もしもし?父さん?」

 陽大が、スマホを取り出してスピーカーに切り替える。

「孝博、何してるの。寝坊したの?早く起きなさい」

 義母の言葉に、思わず茉莉柰と顔を見合わせ、笑いが込み上げてきた。

「佳苗、後はよろしく頼む」

 短い言葉は、夫らしい。電話を切ると、義母の顔が少しだけ寂しそうに見えた。

「ほら、今日は、佳苗さんの日よ」

 義母は突然、陽大の背中を押す。陽大は、腹をくくったのか、凛々しい顔をして話し始めた。

「まぁ、あれだね。ちゃんとするよ、もうすぐ大学4年だし。留年したら家から叩き出されそうだしね」

 陽大の顔を、こんなにしっかりと見つめたのはいつぶりだろう。少年から青年の顔になった陽大は、思ったより良い男に成長しているのかもしれない。どこか夫の若い頃に似てきた。

「ほら、姉ちゃんも」

 陽大に肩を叩かれ、茉莉奈は俯いていた顔をスッと上げた。

「…ごめん。少し言いすぎた」

 茉莉奈の言葉に、私は首を横に振った。母親として、茉莉奈にかけてあげる言葉は、慰めだったのかもしれない。あなたの好きにしていい、そう伝えればよかった。

「ほら、時間でしょ。乗って」

 茉莉奈の声に頷き、私は、義母の手を引いた。

「いつもありがとう。佳苗さん」

 私は振り返る。義母は、あの頃のように笑っている。私の涙は、止まらなくなっていた。

「お義母さん、ごめんね」

 義母は、向日葵が綺麗よ、と微笑んでいる。私はまた、義母に助けられた。

「また、来年ここに来ましょう。孝博さんも一緒に」

 義母は、向日葵のような人だ。太陽に照らされた向日葵は、私たち家族をずっと見守り、包み込んでくれるようだった。

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