焦りのピンキー
「何をそんなに焦っているのか」
僕は、事務所を飛び出した透子を呼び止めた。
「そんなことないよ」
透子の言葉を鵜吞みにし、僕は、そのまま彼女を見送った。
「透子が死んだ?」
次の日、僕は透子のマネージャーの電話で目を覚ました。
「嘘だろ?」
マネージャーは、言葉を選ぶように沈黙し、ゆっくりと続けた。
「社長と別れた後、そのまま、飛び降りたみたいです」
あの時、僕は、なんと声をかければよかったのか。いや、内心めんどうだと、僕はそう思っていたのではないか。
才能なんて、本当はない。多分、それは透子も僕もわかっていた。ただ、想いが強ければ、必ず夢は叶う。そう自分に言い聞かせ、大学からずっと一緒にやってきた。クリエイターの透子は、いつの間にか僕の事務所で一番の古株になった。
「彼女のために作ったような事務所だからな」
僕は偉そうに、いつもそう言っていた。調子がよかったのは、ほんの一瞬で、彼女が落ちぶれると同時に、業績はどんどん悪化した。小さな仕事を取れば、透子の価値は下がっていく。わかってはいるが、負のスパイラルに陥った僕は、仕事に追われ、いつの間にか透子の手を放し、置き去りにした。
「すぐに向かうよ」
透子の元か、いや、違う。僕は会社のことでいっぱいだった。残ったクリエイターのこと、社員のこと、守るものはいっぱいある。
乗り込んだタクシーは、僕を会社へと連れていく。まずは情報を整理して、関係機関に説明に行こう。大人になったというだけだ。そう言い聞かせても、僕の頭には、透子の最後の顔が浮かんでいた。
「僕のせいだ」
呟いた言葉は、空しく消えていく。タクシーは、通っていた大学を通りすぎていく。歩く学生たちの笑顔は、まるであの時の僕らのようだ。
「すみません。行先、変えていいでしょうか」
飛び降りた場所は、大学からすぐ近くの橋の上だ。透子がそこを選んだのには、きっと意味がある。僕にはわかっていた。あの場所が、僕らの始まりだからだ。あの場所で、僕は透子と戦うことを決めた。透子は、橋の上に、僕が初めて送ったピンキーリングを置いて飛び立ったという。
焦らせたのは何か。30歳手前になって、過ぎ去った時間は取り返せないことも、もうあの時には戻れないことも、僕が一番わかっているつもりだった。
「早すぎるよ」
透子は、何に絶望したのだろう。
それはきっと、僕なのかもしれない。
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