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花びらが舞い落ちた日に

  約束だって、言っていたのに、母はそれを守らずに死んだ。あっという間に過ぎさってしまった時間は、私を一人だけ、過去に置き去りにした。

 私は、家族を作らない。母の葬儀で、私はそう決めていた。疎遠になっていた親戚は、泣き面の仮面をかぶっては、頭を下げて私の前を通りすぎていく。母が、生前、どんな苦しみを背負って生きてきたのか、きっと彼らは知らない。でも、遺影の母は、少しだけ嬉しそうに見えた。

「大変だったね」

 そんな一言で片付けられるくらい、母の人生はあっけなく幕を閉じた。死因の解明を希望するか。母の死を知らされた私は、目の前が真っ暗になった。私は、決めきれず、結局、駆けつけた叔母が体に傷をつけたくないと、解剖を拒否した。

 叔母と会うのは、多分、10年ぶりくらいだった。あの時期の母はまだ、家族をどこかで欲していた。

 母は、海で見つかった。飛び込んだところを見た人はいない。前兆がなかったわけではない。母は、最近、塞ぎ込むことが多くなり、入退院を繰り返していた。目を離さないように言われていたのに、私は母が外に出るのを止めなかった。

 母はその日、私を置いて、知らない男と死んだ。 

 しばらくして、向島と名乗る男が訪ねてきた。年は私より少し年下だろうか、不健康そうな体つきに、大きめなメガネをした彼の表情は、怒りを押さえ込もうと必死に見えた。私は、母と一緒に死んだあの男の息子だと、すぐに見当がついた。

「父が死を選んだ理由を知りたいのです」

 向島は、言った。理由を知りたいのは、私も一緒だ。二人の関係は、多分、もう10年以上は続いていたはずだ。物心ついた頃には、母に男がいることを私は、薄々気がつき、そんな母を軽蔑していた時期もある。

「僕たち家族は、上手くいっていたんです」

 絞り出すような声で、彼は、泣いていた。

「私の母が、あなたの家庭を壊したと言いたいのですか」

 母を庇うつもりで言ったのではない。感情を隠すことに私は、少し疲れていた。玄関に飾ってある百合の花が、私をまた、過去に置き去りにしていくようだった。

「そうです。あなたの母親のせいで、私の母がどれだけ辛い思いをしたか!」

 彼は、溢れる感情を押さえようとはしなかった。彼も私と同じだ。きっと感情を隠すことに疲れている。怒りをぶつけられているのに、私は、どこかで彼と同じ想いを共有していた。

「あなたは、理由を見つけてどうしたいのですか」

 まるで自分に問いかけているようだった。母の死の真実を知って、何が変わるというのか。今は、死を受け入れるだけで、手一杯だった。
 
「どうって…。母は、その事実を病室で聞いたんです。僕は、母になんて声をかければよかったっていうんですか」

 向島のぶつけようのない怒りを、私はただ、黙って受け止めるしかなかった。

 母は、私を一人で産んだ。相手は、誰かは知らない。ただ、家族と疎遠だったことから、周りに反対された関係だったのだろう。たまに様子を見にきていた叔母も、その事については口を閉ざしていた。

 昼は、海産物の工場で、夜は町外れのスナックで働き、母はずっと私を一人で育てた。弱音も吐かない強い母。私にとって母の存在は、甘いものではない。今も凛とした姿ばかりが思い浮かんでいた。
 向島の父親と付き合いだし時期は、叔母が涙ながらに母の頬を叩いた日あたりだろう。妻子ある男との2度目の恋に、唯一、家族を続けた叔母も、愛想を尽かして疎遠になった。

 母は、それからずっと孤独だった。

「私は、母と約束していたんです」

 母の好きな桜。最近は、窓の外を見るときくらいしか笑わなくなっていた。

「もうすぐ満開になるから、そうしたら一緒に見に行こうって。母は、頷いてくれたんです。きっと、綺麗だろうねって」

 母が家を飛び出した日、私は、すぐに母の手を掴んだ。この手を離せば、きっと母は帰ってこない。私は、子どものように母にすがろうとした。でも、母は少女の顔をして、私に、行かせて、と言った。母は、女性としての幸せを追い求めていた。手を離せば、母はきっと、解放される。私は、母の気持ちに負けてしまった。

「あなたは、父親が幸せだったと思いますか」

「そんなこと、思うわけないでしょう」

 母は、最後に幸せな瞬間を味わうことができたのだろうか。そうであって欲しい。

「ごめんなさい…」

 母が死んで、初めて涙が流れた。向島の涙も止まらない。母と見るはずだった桜の花びらは、もう、ひらひらと舞い落ちている。

 あなたは、幸せでしたか。孤独だったのですか。

 私は、まだ、母の死を受け止められずにいた。

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