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雨空を見上げて

 僕の手を振り払ったのは、もう、戻らない、そう決めていたからなのだろう。駅に向かう君を呼び止めようとして、僕は転がり落ちた傘を拾い上げた。

「もうすぐ今年も終わるなんて早いですよね」
 事務員の笹下さんは、忙しいと口にしながらも、年末の慌ただしさをどこか楽しんでいるようにも見えた。
「社長は、年末、どう過ごされるのですか?」
 笹下さんは、無邪気に話しだす。
「また海外ですか。本当、羨ましい」
 学生気分の抜けない笹下さんの笑顔は、僕の心を少しだけ軽くした。
 社員5人の小さな設計事務所が、今の僕の全てだ。僕は、今年で45歳になる。40歳を過ぎて独立した事務所も、そこそこ順調に業績を上げていた。海外旅行だとか、趣味のバイクだとか、そんなものにもお金をかけることができるくらい余裕がある生活を送っている。
「お昼、いってきます。パン屋さん、今日は新作の発売日なんです」
 笹下さんは、子どものようにはしゃいで出掛けていった。向かいのパン屋は、今日も繁盛しているようだ。でも、僕は、まだそこには通えないでいた。

 未紗希に出会ったのは、ちょうど1年くらい前だ。パン屋はその時から、お昼になると沢山の人で混雑した。ようやく昼食に選んだサンドイッチを購入し、外に出た僕は、降りだした雨に気が付くと、ふと空を見上げていた。すると、そんな僕に傘を差し出してくれた女性がいる。それが未紗希だった。驚いて振り返る僕を見て、未紗希はえくぼをへこませて微笑んでいた。
「私、下の階でアロマ店をしているんです。ご存知ですか」
 そう言って、未紗希は事務所のある建物を指差した。建物に入っているテナントなど、全く興味がない。恥ずかしいことに、僕はそんな人間だった。好きな仕事に夢中になる以外、取り柄のない人間だ。はじめて知ったような顔をする僕を、未紗希は、面白い人だと笑った。
 その日から、僕は、少しずつ他人に興味を示すようになった。他人というより、未紗希に興味を持ったのだ。何が好きで、どんなことで笑うのか。未紗希といると、少年の時のような真っ直ぐな気持ちになった。

「私、結婚しているの」
 そう告げられた時、僕の中の何かが壊れる音がした。
「もう、会わない方がいい」
 そう言った未紗希は、出会った時と違って、どこかよそよそしい顔をした。
 立地もそこそこで、客足もまばらな店だ。未紗希一人でやれているはずがない。そんなことは、どこかで気がついていた。
「ごめんなさい」
 謝る彼女に、僕は声をかけることができなかった。未紗希は、そんな不甲斐ない僕を見て、何かを振り切るように店を飛び出していった。
 こんな時に、僕は何と言えばいいのだろうか。窓の外は、出会ったあの日のように小雨が降りだしていた。失いたくない。ただそれだけの想いだけで、僕は、傘を片手に後を追った。
 未紗希は、雨に涙を流してもらうかのように、雨空を見上げていた。僕は、そっと近づき、後ろから傘を差し出した。
「それでも構わないよ」
 そう言おうとした時、未紗希は傘を差し出した僕の手を振り払った。彼女の顔は、これが二人のためなのだと言っているようだった。

 
「あ、社長、知ってます?下の階のアロマ店、閉店しちゃったみたいですよ。ずっと開かないままだったからどうしたのかなって思ってたんですけど」
 あの日から、未紗希は店を開けなくなった。
「まぁ客も殆どいなかったですし。奥様の道楽って感じだったんで仕方ないんですけど。次は、マッサージ店が入るって噂です」
 笹下さんは、僕の気持ちなど気が付かずに、休憩時間の楽しみが増えたと喜んでいた。そんな笹下さんを見て、僕は心のどこかでホッとしている自分に気が付いていた。
「あ、また雨が降ってきましたね。窓、閉めなきゃ」
 立ち上がろうとする笹下さんに、僕が閉めるよ、と席を立つ。

 窓の外は、今日も小雨が降っている。雨空を見上げると、パン屋から賑やかな声が聞こえた。
 もう、あの時の君も僕も、そこにはいない。僕は、ゆっくりと窓を閉めることにした。

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