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帰らぬ人

  もうすぐあの季節が来る。波が僕の足を濡らしていく。

 ーほらほら、迎えに来たよ。

 僕は波に吸い込まれるように一歩を踏み出そうとして、立ち止まる。その声は幻聴だと我に返ると、頬を濡らす涙は潮風と同じ味がした。

 ー帰らぬ人よ、僕をどうして一人にするの
  帰らぬ人よ、僕はどこへ進めばいいの


「綺麗な絵ですね」
 振り返ると、ゼミで一緒の江利川風香がいた。
「まさか、こんな賞をもらえるなんて思っていなかったよ」
 毎年、学園祭と一緒に開かれる絵画展で僕は賞をとった。大学に在籍していないものからも応募を募ることもあり、美術大学主催の絵画コンクールでの受賞は、それなりにステータスになるものだった。
「波際の色づかい、どこか寂し気」
 風香の言葉は、僕の心の奥底の感情に触れていく。
「まるであなたの心の叫びのよう」
 わかったことを言うな、という怒りよりも、見透かされた感情を隠す方が僕のプライドを保てるような気がしていた。風香は、作家紹介のプレートをなでるようにして、口ずさむ。

「帰らぬ人よ、僕をどうして一人にするの」

 僕は、絵から離れるように後ずさりをした。

「帰らぬ人よ、僕はどこへ進めばいいの」

 風香は、知っている。あの日、僕が”彼女”を殺したことを。
「絵は嘘をつかない」
 殺すつもりなんてなかった。ただ、僕の前から消えようとした彼女を、誰のものにもされたくない。歪んだ愛情だと、人は笑うだろう。約束したじゃないか、いつまでも一緒にいると。僕は君しかいないのに、君は僕を捨てようとした。
「私、必ず戻ってくる。あなたの好きにはさせない」
 風香はそう言って、消えた。

「田川裕太さんですね?」
 振り向くと、数人の刑事が僕を睨みつけていた。
「先週、浜辺で見つかった白骨化した遺体の件で署までご同行を」
 腕を抱きかかえられるようにして、僕は歩き出す。自動ドア越しに映る風香の後姿は、また僕の絵を見つめていた。

 ー帰らぬ人よ、僕をどうして一人にするの
  帰らぬ人よ、僕はどこへ進めばいいの

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