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インカムの向こう側

インカムの向こう側で、社員の罵声が飛ぶ。浅岡草太は、眠たい目をこすりながら、大きく欠伸をした。遠くから監視されているのはいつものことだ。草太にとって、怒鳴られることなどどうでもよかった。社員の罵声をかき消すかのように、パチンコを打つ音が新しい音楽を奏でているようだった。

「おい、兄ちゃん」
客が手を上げる。当たりのサインだ。草太はそっと頭を下げ、トレーを手渡した。平日の昼間だというのに、店内は満員だ。インカムでは、慌ただしい言葉が行き交っている。インカムのこっち側とあっち側は、同じ世界だと言うのに、草太はどこか他人事で、なんだか違う世界のように感じていた。

「あぁ、もう、うるせぇな」
ポケットに入れた携帯電話のバイブが何度も震える。きっと麻子に違いない。草太はスマホを取り出し、電源を切った。 

「大学を辞める?」
麻子が草太を睨みつけた。朝の忙しい時間なら、あっさりことが進むだろうと思っていた考えは、あっけなく崩れ去った。
「何、言ってるの?」
「いや、だから、大学辞めて働いて、結婚したいと思ってる」
そう軽々しく呟いたのが間違いだったのかもしれない。まさか麻子が、あんなに怒るとは予想もしていなかった。大学も、もう何日も行っていない。戻ったところで、どうしようもなかった。
「まさか、大学行ってないってことないよね」
真っすぐ見つめてきた麻子の目は、苛立ちを隠せない。
「何を考えているの」
「だから……」
言い訳を並べようとしたとき、麻子の後ろには、ランドセルをからった陸が怯えた顔で立っていた。
「この話は、終わり」
「ちょっと、草太!」
草太は、陸の手を引くと、麻子の言葉に振り返らず、玄関へと向かった。
「いいの?」
陸が、心配そうな目で草太を覗き込む。
「あぁ、大丈夫。よし、行くよ」
車のエンジンをかけると、麻子は諦めたのか追いかけてはこなかった。草太は溜息をついた。陸の学校は、車で10分ほどの距離しかない。毎朝、草太の車で校門まで送ることが日課だ。陸は嬉しそうに、窓の外を見つめている。草太はそんな陸が可愛かった。

子どもがいる。大学のOBだった麻子と出会ってしばらく経った頃、そう告げられた。麻子は、あっさりとした性格で、それで別れるならそれでもいいと言った。迷いがなかったと言ったら嘘になるが、麻子と陸との生活には満足している。草太にとって、この生活がいつの間にか当たり前になっていった。

「子ども、できたかもしれない」
1週間前、麻子が言った。一人でも育てる覚悟がある、そんな表情をする麻子に、草太は不甲斐なさを感じていた。何もかもうまくいかない今の自分に、父親になる資格なんてあるのだろうか。
「あ、赤!」
交差点に差し掛かった時、陸の声で急ブレーキを踏んだ。
「どうしたの?」
陸がまた、心配そうに草太を覗き込んだ。
「あ、ごめん」
学校は、もうすぐそこだ。交差点から、遠くに校門が見えている。
「ここで、いいよ」
陸はそう言うと、ドアを開けた。
「いってきます」
「悪いな。いってらっしゃい」
陸は、少し微笑むと、静かにドアを閉めた。

「休憩行っていいぞ」 
そう言われたのは13時を回った頃だった。
タバコを手に、車へ向かうと、スマホの電源を切っていたことを思い出す。
「何だよ、これ」
画面には何十件の不在着信が残っていた。さすがの草太も、嫌な予感がした。
「もしもし?」
麻子の声は、明らかに動揺していた。
「え?陸がいなくなった?」
草太の目には、あの時の陸の笑顔が鮮明に映し出されていた。

バイト先に断りを入れ、家に着いたのはそれからすぐだ。麻子の顔を見るまで、自分が制服のままだということを忘れていた。
「陸が、いないの……」
麻子の顔は、青ざめていた。
「ね、ちゃんと学校まで送ったんでしょ?」
草太は、言葉を詰まらせた。
「ね、草太、そうでしょ?」
何度思い返しても草太の頭の中には、あの時の陸の笑顔しか覚えていなかった。目を向ければ、学校はすぐそこだったのに、草太が見つめていたのは、陸ではなかった。
「とにかく、警察に」
スマホを取り出すと、一瞬、何番にかければいいのか分からなくなった。そのくらい動揺していた。警察の対応は、形式的なもので、陸がいなくなった時間、服装を答えると、署まで来てほしいと言われた。事務的な対応に、草太は少し冷静さを取り戻していた。
「行こう」
草太は、麻子を玄関へと連れ出した。最寄りの警察署までは、15分もかからない。いつもなら、すぐ近くにあると感じていたのに、何だか今日はとても遠く感じていた。途中、今朝通った交差点に差し掛かる。黄色の信号に変わり、草太はまた、急ブレーキを踏んだ。陸はあの時、まっすぐ学校へ向かったのだろうか。あの時、なぜ校門まで送り届けなかったのだろうか。草太の頭の中は、ぐちゃぐちゃだった。

「見つかった?」
警察に到着すると、そこには申し訳なさそうな表情をする陸がいた。
「どうして…」
「陸くん、お父さんの仕事を見たいって車を追いかけたんですって。そしたら、途中で道がわからなくなったって」
思わず、草太を抱きしめた。父親になる資格がないなんて、草太にとっては自分が父親だと言うのに。身勝手な自分に嫌気がさした。
「ごめん、俺、いつも自分のことばかりで」
陸は、小さな声で、ごめんなさい、と呟いた。

頭を下げると、警察署を後にした。陸の小さな手は温かい。
「麻子、俺…」
「いいの、知ってる。でも、約束して。大学は、ちゃんと卒業して。私たちのために犠牲になるとか、そんな考え、私が一番嫌うの知ってるでしょ」
麻子はどこまでも大人だ。
「わかった」
陸は、二人の会話の意味を不思議そうに聞いていた。陸の手を、もう一度ぎゅっと握りしめる。もう迷わない。草太は、大きく深呼吸した。

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