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『風立ちぬ』堀辰雄 感想

こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

風のように去ってゆく時の流れの裡に、人間の実体を捉えた『風立ちぬ」は、生きることよりは死ぬことの意味を問い、同時に死を越えて生きることの意味をも問うている。バッハの遁走曲に思いついたという『美しい村』は、軽井沢でひとり暮しをしながら物語を構想中の若い小説家の見聞と、彼が出会った少女の面影を、音楽的に構成した傑作。ともに、堀辰雄の中期を代表する作品である。


昭和初期、日本の文芸思潮の主流であった自然主義は私小説へと移行し、反自然主義の流れが大きく変化していきます。夏目漱石をはじめとする「余裕派」、森鴎外らの「高踏派」が台頭すると、永井荷風らの「耽美派」や、志賀直哉らの「白樺派」が前に出て作風が多岐に渡り、文壇を賑やかにさせていきます。その頃にマルクス主義の思想を帯びた「プロレタリア文学」が社会に対して訴えるように作品を次々と生み出していきます。このように私小説や思想啓蒙のような作品が溢れるなかで、『誰だ?花園を荒らすものは!』を発表した中村武羅夫を筆頭に、当時の文学思潮に真っ向から対立する文学の芸術性を主張する「芸術派」が生まれます。技術の躍進によって変化する社会を描いた「新感覚派」(川端康成、横光利一ら)、プロレタリア文学に思想ごと反発した「新興芸術派」(井伏鱒二、梶井基次郎ら)、西洋の文学作品に影響を受けて人間の内面を現実へと昇華させた「新心理主義」(伊藤整ら)が多くの作品で対抗しました。本作『風立ちぬ』の作者である堀辰雄(1904-1953)も、この「新心理主義」に含まれます。後述のように主にフランス文学に傾倒していたことで、風景の捉え方、心理の描写、緩やかに落ち着いた文体などで、強い影響を受けていたことを表しています。また、そこに描かれる作品には、小説という創作美が込められ、現実を美しく捉えた描写が散りばめられています。


堀辰雄は東京の麹町で生まれます。父親が元々広島の士族であり、維新後に上京して裁判所にて勤めていました。病弱な妻こうを広島に残してきた父親は、東京の町家の娘である志気との間に子(堀)ができ、これを嫡男として受け入れます。志気も同様に堀家邸内にて暮らしましたが、正妻こうが上京することになったため、堀を連れて家を出ます。彼が四歳になる頃、養父となる男の元へ志気は嫁ぎ、睦まじい家庭で堀は大切に育てられます。その頃、父親が脳を患って亡くなると、後を追うように正妻こうも病状が悪化して亡くなります。こうして父親の恩給は堀へと与えられ、学費に苦しむことなく進学することができました。


学生時代に同期であった神西清や小林秀雄らによって文学の世界に引き込まれていくと、堀自らでも執筆を始めていきます。二十歳のとき、萩原朔太郎の詩集『青猫』に感銘を受けると、詩の世界に惹かれて、彼が持つ詩性を磨くように読み耽りました。また、学校長に伴われて田端の室生犀星を訪ねるなど、彼の文士としての才能を刺激する機会にも恵まれます。堀の高まった詩才は、詩『仏蘭西人形』として発表され、一つの姿を形成しました。その頃、室生犀星に連れられ、初めて運命的な土地となる軽井沢へ訪れます。


1923年9月、関東大震災が起こり、母志気が亡くなります。また、堀も身体の調子を悪くして転地を予定していましたが、大震災による母の死、そして被災地で過ごす肉体的な疲労によって肋膜炎を患い、学校を休学することになりました。この療養中、室生犀星が東京から金沢へ引き上げる時分、芥川龍之介を紹介され、堀の文士人生を大きく動かしていきます。この頃、スタンダール、プロスペル・メリメ、アレクサンドル・プーシキン、アナトール・フランス、アンリ・ド・レニエ、アンドレ・ジイドなどの作品を読み耽り、後の小説作品における美文を生み出す糧となります。

卒業して萩原朔太郎を訪れると、犀星の元で作家たちとの交流が深まっていきました。そこで通じた中野重治、窪川鶴次郎らとともに文芸同人誌『驢馬』を創刊し、プロレタリア文学を意識した活動に参加します。各文士たちと切磋琢磨しながら執筆に取り組んでいましたが、その翌年、芥川龍之介が自殺しました。堀は親しく、尊敬の念を抱いていた人物の死というものから強い精神的な衝撃を受けると、自身の体調も悪化して、肋膜炎が再発しました。そのようななかでも、敬愛する芥川龍之介の全集編纂を引き受けます。度々訪れた軽井沢で悪化した身体を療養しながら、自己のなかで芥川龍之介の死を受け止めようと、悩み苦しみます。そしてそれは一つの作品『聖家族』として生み出されました。彼の精神に納得と苦悩と安堵が一度に訪れ、その反動で書き上げた直後に激しく喀血して、闘病生活へと身を委ねていきます。


三十一歳のとき、療養先の軽井沢で知り合った矢野綾子という村の女性と婚約をします。二人の様子は、『美しい村』で自伝的に描かれ、堀にとっての幾つもの死や別れの傷が癒されていく心理が見えてきます。彼の精神が立ち戻りかけた翌年、綾子は肺病により体調が悪化します。共にサナトリウムに入る闘病生活が始まりましたが、快方に向かう堀に反して、綾子の病状は激しく悪化し、その生活から半年後に彼女は死亡してしまいました。この悲しい経験を、やはり精神的に昇華するために机に向かった堀は、翌年から二年をかけて『風立ちぬ』を発表します。


天災が招いた関東大震災による母の死、心理不安による自殺が招いた芥川龍之介の死、急激に蝕む病が招いた婚約者の死、堀の精神を何度も襲う「死」という事実が、その度に彼の病を悪化させ、「自らの死」を強制的に意識させます。逃れられない絶対的な死、引き摺り込まれる死、這い寄られて追い込まれる死、見つめ続ける「死の観念」とやがて対話をするように生きる彼は、「闘争」という形で死に向かい、生きるという活力を奮い立たせます。死を恐れ、不死を望むのではなく、限りある生を隅々まで見つめ、その可能性を存分に生かすことで、生きようとする意志を育みました。死を見つめ、乗り越え、理解して、生きることを選んだ彼の生み出した作品は、生きることに対する逡巡から生まれたとも言え、そこには前向きな美しさを兼ね備えています。

また、彼自身にとっても死を直視する姿勢は、迫り来る死に対して立ち向かう活力となって我が身を支えます。療養中に沸き起こる不安や葛藤から自分の魂を鎮める力となり、冷静な清浄さをもって現実の生を見つめます。そして彼は「死ぬまでは生きねばならない」という、「生きる積極性」を理解して、死と向かい合う無垢な生を追求していきました。


本作『風立ちぬ』は、前述のように綾子の闘病と死の経験を礎にしています。序曲には綾子の死を物語に起こす決意を見せる、詩の引用が掲げられています。

Le vent se lève !… Il faut tenter de vivre !
風立ちぬ、いざ生きめやも

ポール・ヴァレリー『海辺の墓地』

床に臥して病に向かう二人の描写は、何気ない日々の会話や仕草で綴られています。そしてそこには、労りや優しさが溢れ、美しさを醸し出しています。しかし、死に至る病との闘争は生優しいものではなく、まして現実は堀自身も病の症状が激しかったことを考えると、苦しみに溢れた生活であったことは想像できます。そのような経験を優しさと美しさで包んで描いたことは、彼の目線が非常に「清澄」であったからであると言えます。文士としての初期に神西清の雑誌『蒼穹』に発表した『清く寂しく』の頃から変わらぬ心をもって、彼女を労り、現実を包み込んでいました。彼女の死は大きな悲しみを与えました。自分でも事実をうまく昇華できずにいました。そして、それを救ったのはライナー・マリア・リルケの『鎮魂歌』でした。本作を最後まで書き上げられなかった堀は、この詩に出会って、最終章「死のかげの谷」を描き切りました。

私達の日常生活のどんな些細なものまで、その一つ一つがいままでとは全然異った魅力を持ち出すのだ。私の身辺にあるこの微温い、好い匂いのする存在、その少し早い呼吸、私の手をとっているそのしなやかな手、その微笑、それからまたときどき取り交わす平凡な会話、──そう云ったものを若し取り除いてしまうとしたら、あとには何も残らないような単一な日々だけれども、──我々の人生なんぞというものは要素的には実はこれだけなのだ、そして、こんなささやかなものだけで私達がこれほどまで満足していられるのは、ただ私がそれをこの女と共にしているからなのだ、と云うことを私は確信していられた。


堀は、数多くの死に直面し、誰よりも死に迫られ、それでも生きる逡巡の末に前を向いて生き抜きました。どれほどの悲しみを受けても、「清澄な心」が精神を守り続け、現実に失望せず、美しさを見出します。このような死の淵の達観とも言える生き方は、その精神こそを美しく感じさせます。

ポール・ヴァレリーが『海辺の墓地』で引用したピンダロスの詩は、まさに堀が至った「生きる積極性」に通じます。

Μή, φίλα ψυχά, βίον ἀθάνατον
σπεῦδε, τὰν δ᾽ ἔμπρακτον ἄντλει μαχανάν.
魂よ、不滅の命を熱望するのではなく、見える可能性をすべて果たせ

ピンダロス『ピューティア第三祝勝歌』


幾多の死を目の当たりにして、それでもなお力強く生きた堀辰雄には、「清澄な心」が生きる手助けをしてくれました。本作『風立ちぬ』では、その心を強く感じることができます。未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。


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