『十二夜』ウィリアム・シェイクスピア 感想
こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。
『十二夜』(Twelfth Night, or What You Will 十二夜、もしくはお望みのもの)は1600-1601年ごろに執筆されたと見られており、『ハムレット』の前、つまり「悲劇時代」の直前であり、「喜劇時代」の締め括りの作品となっています。また、『空騒ぎ』『お気に召すまま』と並んで三大喜劇と言われることもあります。
題名に付けられた「十二夜」とはカトリックにおける公現祭(エピファニー)を示します。12月25日の降誕祭(クリスマス)から12日目にあたる1月6日、または1月2日から8日の間の日曜日に行われ、すべてのキリスト教会で共通して祝われる重要な祝日とされています。聖書の「マルコによる福音書」に記されるように、東方の三博士(三賢者、三王など)が、誕生したばかりのイエス・キリストを祝福し、礼拝したことを記念する日とされています。三博士が持参した黄金は現世の王、乳香は神、没薬は救世主を表しており、彼等が代表して「世界の全てをイエスに捧げたこと」を象徴的に示しています。フランスでは公現祭の習慣として、「フェーヴ」という陶器の小さな人形が隠された焼菓子「ガレット・デ・ロワ」(galette des rois)が用意されます。切り分けたときに「フェーヴ」が入っていた人は、その日は主役になって厚遇され、さらに一年間幸運が続くと言われています。この焼菓子と人形が、三博士(王たち)がキリストのために持参したものの象徴となっています。
他のキリスト教の祝祭日と同様に、公現祭でも賑やかな催しが行われます。従者たちが主人の格好を真似たり、男性が女性の格好をするなど、社会階層が逆転した様相を見せて参加者は楽しみました。このような祝祭での風習に基づいて、本作における「変装」や「性別の混乱」、「階層の逆転思想」が描かれています。
イリリアの公爵オーシーノーは伯爵令嬢オリヴィアへ婚姻の契りを結びたいと心を寄せていますが、オリヴィアは慕っていた兄を亡くした悲しみから、その思いを受け付けようとはしませんでした。そこへ船の難破事故で若く美しい女性ヴァイオラがこのイリリアの地へ漂着します。双子の兄セバスチャンと事故によって弾き離され悲しみに暮れますが、同乗していた船長の計らいにより、男装して「シザーリオ」と名乗ってオーシーノーの小姓として仕えます。美しい小姓を大層気に入ったオーシーノーはシザーリオ(ヴァイオラ)を傍に置き、オリヴィアへの使者として重用します。しかし、ヴァイオラは傍に仕えていることでオーシーノーへと愛情を抱き始め、恋の使者として苦悩を抱いたままオリヴィアへ愛の代弁を行うこととなりました。それを受けるオリヴィアはシザーリオ(ヴァイオラ)を男装とも見抜けず兄への悼みの心も薄れさせ、この恋の使者へと思いを寄せ始めます。
そのオリヴィアの叔父トービー、オリヴィアに思いを寄せるアンドルー、お抱え道化のフェステは、毎夜の如く呑み騒ぎます。これを良しと思わないオリヴィアの屋敷に仕える慇懃な執事マルヴォーリオは、口喧しく常日頃から彼等を諌めていました。また、マルヴォーリオと共に働く侍女マライアは彼を疎んじており、トービー、アンドルー、フェステと手を組んで痛い目に合わせようと画策します。オリヴィアの筆跡を真似てマライアが書いた恋文をマルヴォーリオに読ませ、オリヴィアが毛嫌いする行動をさせようという企みです。受けたマルヴォーリオは内に秘めた野心が溢れ出し、オリヴィアへ近付いていきます。
そのころ、ヴァイオラの兄セバスチャンがイリリアの地へ漂着します。命懸けで彼を救った船長アントーニオは、オーシーノーと敵対関係にあったために街を徘徊することができず、セバスチャンは一人で散策をすることになりました。シザーリオ(ヴァイオラ)に瓜二つの風貌は、他の登場人物たちとの接触で大きな混乱を呼び起こします。
劇の主筋はオーシーノー、オリヴィア、ヴァイオラによる入り組んだ三角関係で紡がれます。それぞれが抱く強い愛情は、擦れ違いを重ねて、観客(読者)をもどかしさと喜劇的な交錯で包みます。しかし、オーシーノーからオリヴィアへの愛情は終末でヴァイオラに移り、オリヴィアからヴァイオラへの愛情はセバスチャンへと移ります。この急激な感情の変化、もしくは愛の矛先の変化は、それまでの強く募っていた愛情を否定するほどの印象を与えます。ここから導かれることは、彼らは愛すること自体を愛しており、オーシーノーの片想いによる憂鬱、オリヴィアの劇的な出会いによる感動は、自身の愛情を彩る装飾に過ぎない感傷であったと言えます。両者はその叶わぬ愛に浸って満足している節もあり、自己陶酔の境地にあるとも見受けられます。さらにオリヴィアにおいては兄の死を悼むことで、自身の愛を見つめられないという欺瞞さえも抱いていることから、愛する行為に多重の欺瞞を抱いています。ではヴァイオラはというと、シザーリオとしての男装、主君への恋心の隠匿、主君の愛を伝える気の無い小姓といった、多重な役柄を演じ続ける欺瞞を最も重ねた存在となっています。しかしそこには、オーシーノーへの愛、兄への愛は揺るがなく存在して一貫した主義を貫いていることに、自己の愛情に対する真剣さが窺えます。また、そこには男装していることによって、女性が女性の意見を堂々と話すことができ、当時の女性の立場や発言の不自由を変装によって解消させていることにも彼女の魅力を際立たせています。
副筋の中心人物のマルヴォーリオに見られる狂気性は、先ほど述べた変装による欺瞞とは正反対に位置するものとして描かれます。怒りによって冷静さを失ったマルヴォーリオを見て、令嬢オリヴィアが財産の半分を捨ててでも彼に正気を戻したいと願うことから、彼が本来は真っ当で実直な執事であり、オリヴィアが真に信頼を寄せていたことを明らかにしています。その狂気が徐々に宿る、手紙を読みながらの独白による欲望の露出は、執事にはあってはならない傲慢さを見せて、悲劇性さえ感じさせる迫力を見せます。しかし、これだけで良しとしないマライアは、策略によって彼を幽閉させてオリヴィアへの無礼を理由に徹底的に罰を与えます。喜劇性を感じさせるマルヴォーリオの滑稽さは、彼が威厳を保とうと道徳的な行動を見せるところに起因する訳ではありません。これは彼自身の生まれ持った個性であり、内に秘めた欲望と共存していただけであると考えられます。つまり、彼は虚飾無く有りの儘であろうとした結果、自己欺瞞に包まれたものたちの物笑いになるという点は皮肉的であると言えます。包み隠さないからこそ野生とも言える狂気性を見せる性格は、自他共に対して実直であったからこその顛末と受け取ることができます。
ヴァイオラの兄セバスチャンを救ったもう一人の船長アントーニオ。『ヴェニスの商人』に登場する同名アントーニオを思い起こさせるほど、セバスチャンへの突き付けるような思い遣りと、心からの心酔を見せます。こういった彼の狂信性にも、マルヴォーリオ同様に行動の裏側に潜む実直性が垣間見られます。変装したヴァイオラとの会話のすれ違いにも、彼は自分が追い詰められる際まで辛抱し、実直さ故の弁明には痛ましささえ感じられます。それでもなおセバスチャンを信じ抜こうとする姿勢には、狂気的とも言えるほどの力強さがあり、また強固な意思が貫かれています。マルヴォーリオとアントーニオには、自分を包み隠さないという点で共通の属性を持っていると言えます。
オリヴィアが抱えるフェステはシェイクスピアが生み出した道化のなかで最も哲学的で、最も品位を持っており、その台詞には知性が溢れています。これには前提的に本作が公現祭にて演じられること、つまり老若男女を観客として演じられることが鑑みられており、他作品の道化に見られる卑屈さ、卑猥さ、卑怯さを削がれていることが理由として挙げられます。「feste」が「祭」から取られていると思い起こさせることからも、本作の象徴的道化である必要があると思われます。しかしながら、本作におけるフェステは自己欺瞞に溢れた登場人物たち、或いは反対の自己正直な人物たちと両極共に同距離を保った唯一的な存在です。特に幽閉されたマルヴォーリオに対して、扉越しにトーパス牧師に成りすますための変装を披露した無意味さは、ヴァイオラを筆頭とする自己欺瞞による変装を否定して、終幕に見られるような真意の重要性を表現しています。
終幕の真意とは、喜劇において自己欺瞞に耽る人物は終幕に望みのものを与えられ、本来の自己を見せることになります。しかし、全てのものへ望みのものを与えられるわけではありません。与えられないものは「欺瞞が真であって欲しい」と願い、自己の行動を劇化させ、破滅へと自分を導きます。そして破滅の果てに斃れることで、より一層の劇化を見せます。このように喜劇でありながら悲劇性を持った人物たち、つまりは狂気的なマルヴォーリオと狂信的なアントーニオは、自己の実直さや野心を露わにしながらも、目に見えていた欺瞞が正であることを望んでいました。欺瞞が解かれた終幕では彼等の寄る辺は無く、ただ悲劇的破滅が待つのみとなっています。これらのことから、本作は自己欺瞞の喜劇であると言えます。そして、自己欺瞞を抱くものが喜劇として昇華される作品となっています。報われるための重要な要素は愛です。愛を望むものは報われ、愛を信じぬものは捨て置かれる。そのような結末から副題に付けられた「お望みのもの」が欺瞞者たちが満たされたと受け取ることができ、そして劇全体を皮肉で覆っていながらも喜劇として楽しむことができるというシェイクスピアの手腕が光っています。アイルランドの文芸評論家エドワード・ダウデンは、本作をこのように批評しています。
三角関係の浪漫喜劇性、マルヴォーリオの風俗喜劇性、アントーニオの悲劇性、全てが整合性を持って公現祭に相応しい喜劇に仕上がっています。そして、フェステの歌で締め括られて残る余韻の苦さは、シェイクスピアの喜劇時代の終わりと悲劇時代の到来を予期させるものとなっています。読みやすいながら考えさせられる要素を多く含む本作『十二夜』。未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。