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夜叉の森【#シロクマ文芸部】

 食べる夜叉に、稲光が浮かび上がらせたその姿に、時姫は見惚れた。
 雷鳴が轟くとすぐに、矢のように鋭い雨が、深い森の奥にまで降り注いだ。

 銀色の髪、翡翠色に輝く瞳。
 滑らかな白い肌の口元は、紅の血に濡れている。

 夜叉に喰らわれている、何かの獣かと思ったものは、人間のわらべであった。

 ふと、夜叉が口元の血を拭い、時姫を見上げた。
 人間であれば齢十六ほどの、美しい青年であった。
 美しい夜叉は、泣いていた。

「そなたは誰じゃ」

 時姫に問う夜叉の涙は、人間の童を喰らっているとは思えないほどに、清らかであった。

 時姫は、平安の都、貴族の屋敷から、真夜中の森へと逃げ出してきた。
 幼い頃より、明かりが無くても夜目がきいた。
 女官たちが寝静まった気配を察し、御簾を持ち上げた。今夜は、裳着の儀が終わった夜であった。

 ——これからは大人の女として、やんごとなきお方の子を孕まねばならぬ。

 頭ではわかっていても、自分の心までは騙せなかった。
 御簾をくぐり抜けると、時姫は駆けた。

 はやく、疾く、疾く。

 裳を脱ぎ捨て、かさねを脱ぎ捨て、髪飾りを投げ捨てた。
 密かに持ち出した小刀で、鬱陶しい長い髪を切り捨てた。
 駆ける度、髪がさらさらと鳴る。

 時姫は笑った。笑いながら泣いた。
 自由こそが、自分の欲していたものだと気づいたのだった。

 身を隠そうと、分け入った森で、夜叉に出会った。

「我が名は、時姫」

 美しい夜叉を、時姫は見つめた。
 夜叉は、不思議そうに時姫の双眼を覗き込むと、はっと息をのんだ。

 時姫の瞳は、闇夜の中で金色に光る。

「そなた、その目は」
「幼き頃より、夜には目が光るのじゃ」

 夜叉は、呆然とし、食べかけていた童の体から牙を離した。
 あまりに残酷な光景に、時姫は我に返る。

「なぜ人を喰らう」
「人を喰わねば、気が狂う」
「このような幼き童を喰らうなど、お前に心は無いのか」
「俺が喰らうのは、間引かれる童と、捨てられたおきなおうなのみじゃ」

 時姫の頭に、かっと血が上った。

「喰らわれてよい人など、この世にはおらぬ!」

 夜叉は暫し沈黙すると、涙を拭って時姫を見た。

「そなたを喰らえば、千年は人を喰わずに済む。そなたのその光る眼を喰らえば」

 今度は時姫が沈黙する番だ。

「そなたを喰らわねば、俺はまた人を喰う」

 時姫が口を開く。

「お前、なぜ泣く」
「本当は、人間など喰らいとうない」
「では、食べなければよいではないか」
「そなたには俺が分からぬ。この狂おしい胸の内が。悲しゅうて、苦しゅうて、それでも食べなければ生きられぬ」

 時姫は、ひとつ深く呼吸すると、真っすぐに夜叉を見た。

「では、私を喰らえばよい」
「よいのか」
「もう、終わりにするのじゃ。お前が罪なき人を殺めるのも、今夜までじゃ」

 時姫は、静かに着物を脱いだ。

「千年もすれば、来世の私がまた、お前の空腹を満たすであろう」

 夜叉の美しい顔を、とめどなく涙が伝う。

「最後に聞く。夜叉、お前の名は?」
「俺に名は無い。誰も俺を呼ばない」
「では、私がお前に名を授けよう」

 時姫は、散る桜のように微笑んだ。

「今からお前は白雨はくうと名乗るのじゃ。来世の私が、再びお前を見つけられるように」

 瞳を閉じた時姫を、白雨は喰らった。
 雨の森に、慟哭が響いた。




 大学院生の河瀬トキは、研究活動で植物を採集しに入った深い森の中で道を見失った。
 しばらく歩いているが、同じ風景が何度も繰り返す。携帯電話の電波も届かない。

 祖母が語っていた昔話を思い出す。ここは、おそらく「異界」なのだ。

 歩いているうちに、夜になった。
 トキは夜目がきく。
 ふと、突然視界が開けた。
 気づくと、太古の昔からそこにあるような、杉の大木の前に立っていた。
 木の根元に、誰か倒れている。

 擦り切れた着物姿の、銀色の髪に白い肌をした、美しい青年だった。
 トキの気配に気が付いたのか、青年がトキを見上げる。
 翡翠色の瞳が、トキの双眼を見つめた。
 美しい。しかし人ではない。祖母の昔話に出てきた、夜叉だと直感した。

「そなた」

 夜叉が、トキに手を伸ばす。

「来てくれたのか」

 トキの胸の内に、正体が分からない懐かしさがこみあげてくる。
 
 ——この身を捧げなければ。

「時姫。もう、終わりにするのだ」

 夜叉は、息も絶え絶えに囁いた。

「もう、俺はそなたを喰わぬ。俺は死ぬ。それでいい」

 トキは気が付いた。
 随分前から、自分がこの夜叉を知っていたことに。
 トキの心に、名が浮かぶ。

「白雨」

 白雨は、最後に翡翠の双眼を輝かせると、その場で息絶えた。

「白雨! 白雨!」

 手を伸ばした瞬間、時空がひずんだ。
 白雨のいた世界から、引き離されていく。



 気が付くと、トキは森の入口に立っていた。
 雷鳴が轟き、すぐに激しい雨となった。
 雨に打たれながら、トキは泣いた。

 トキは、時姫は、狂おしいほどに、白雨に恋焦がれていた。

<終>


お読みいただき、ありがとうございました。
小牧幸助様の企画に参加させていただきます。

本業多忙のため、今週は諦めかけておりましたが、どうにか書けました。
(単純作業中に、ストーリーを頭の中で巡らせておりました……)

やはり小説を書くことが好きです。書けることが一番の喜びです。

夏になるとなぜか、異界や、異形の者たちへの想いが溢れてきます。
食べる「夜」⇒「夜叉」のお話で行こう!とほぼ即決しました。

今回は、腕試し。時代劇に挑戦してみました。
平安時代の貴族の娘「時姫」の、裳着の儀(女性が成人するときに行われる儀式)の夜、時姫は夜叉に喰われることを選びます。そして千年後、時姫の生まれ変わりのトキが夜叉と再会を果たします。

喰う喰われるの関係にありながら、どうしても恋焦がれてしまうという……。

お楽しみいただけましたなら、幸いに存じます。

小牧幸助様、発表の機会を下さり、本当にありがとうございます。

#シロクマ文芸部










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