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猫の飲み屋

飲み屋から、賑やかな笑い声が聞こえる。
それと対比するように、1人とぼとぼ歩いて帰る自分。
会社の飲み会を断って帰る道。職場の飲み会はどうしても行きたくない。つまらない。
旧態依然とした縦社会。お酌の文化。上司からの「ありがたい」説教。
うんざりする。
仕事だって、そこまで情熱を持って取り組めているわけでもない。
このまま家に帰ろうとも思ったが、今日はなんとなく一人で酔いたい気分だ。
どこかに寄ってみようとそう思い立ち、誰も知らないような、知り合いにも会わなそうな居酒屋を探していると細い路地を見つけた。
せっかくの機会だ、入ってみようと進んでいくと、突き当たりに古びた小さな緑のドア、その上に小さなネオンの看板があった。それには「nekogatari」とローマ字で書かれている。
恐る恐るドアを開けると、店内は話し声が聞こえていて、それでもそこまで大きい声はない。落ち着いた上品な雰囲気が感じ取れた。店内はやや暗く、若干赤みがかった照明を使っているようで室内は少し赤かった。右手にはバーカウンターがあり、席は5つ程度だったが一番右端にすでに女性が座っている。
思っていたよりも広く奥行きがあり、入ってすぐに数組のテーブルと椅子が並べられており、そこで2組が座っていた。驚いたのは、その2組のうちの1組は、スーツを着た頭だけワニのスーツを着た男性(?)と、同じく頭だけワニのワンピースを着た女性(?)で、2人和やかに話をしていたことだ(服装と背格好からそう思っただけで、本当は違うかもしれない)。被り物だろうか、と思い、自分の目を信じられず目を凝らして見ていると、
「いらっしゃいませ」
と不意に声をかけられ、私はビクッとした。
声の主の方をみると、私は更に驚いた。店員らしき彼の顔も黒猫なのである。しかしワニの客と同じく、顔と首以外は普通の人間のようだ。首の境目はちょうどワイシャツで見えなかったが、少なくとも自分が目視できるところまでは猫だった。
「お一人ですか。どうぞどうぞ」
そう言って私をバーの方へ促し、その店員(猫?)はバーの中に入り、ちょうど私たちは向かい合う形になった。
「それ、被り物ですか」
一瞬、その猫の店員は首を傾げたが、
「あぁ、この顔のことですね。はは、さぁ、どうでしょう」
と笑った。私はその猫の顔を見ていたが、目も口もちゃんと動いており、もしこれが被り物ならかなり精巧に作られている。
「何かお飲みになりますか」
「えーと…。おすすめとかあればそれをいただきたいんですけど」
「では、オリジナルカクテルをお作りしましょう」
そういうと彼は何かのお酒が入った瓶を背後の棚から取り、私の目の前でカクテルを作り始めた。
「今日は、どうしてこちらへ?」
「今日はなんとなく、一人で酔いたい気分で」
「そうですか。なんとなくそんな気はしていました」
予想外の返答に私は少し戸惑い、それを見て彼は微笑んだ。
「何故分かったのかって顔をしていますね。なに簡単なことですよ。こんな狭くて暗い路地を通ってわざわざ来る人なぞなかなかいないからです。うちはネットやチラシで宣伝なんかもしていませんし。だから一人でゆっくり飲みたいのだろうなと。実はここに来る他のお客さんは、同じように何か言いようのない思いや、日々に何か生きづらさをを感じていたり、何かを隠して生きている方が多いんですよ」
改めて周囲を見渡すと、ワニの男性とワニの女性は2人和やかに話をしていた。もう1組は普通の人間の男女だったが、ここまでくるとその2人も何か隠しているのではないかと勘繰ってしまう。
バーカウンターにいる女性も普通の人間のようで、向かいの猫の店員と話をしていた。その猫はグレーの毛色をしていた。
「こちらどうぞ」
彼がスッとカクテルをテーブルに差し出し、それはレモンティーのような色をしていた。
「これは、ちょっとしたおつまみです」
綺麗な小さめのガラス皿にクラッカーが数枚。
「何か、溜まっている愚痴なんかあれば何でもお聞きしますよ」
普段は話さないが、ここの閉鎖的な雰囲気と、全て聞いてくれそうな猫の店員に、話をしようと思った。社会人になって働くのが辛い、飲み会も楽しくない、馴染むことができない。彼は一通り私の話を聞いてから、
「それはなかなか大変な悩みですね。辞めようとは思わないのですか?」
と言った。
「確かに考えることはありますけど。でも、辞めたところでここより良い場所に行けるとも限りませんし」
「あなた自身がそれで納得しているのなら良いのですけど。それでもあなたの心は死んでいるんじゃないですか?そこまでしてその場所に留まって働く意味が私には分かりませんが…」
「僕の場合は、『恐怖』だと思うんです。今の苦しい現状から逃げ出して、もしかするともっと酷い環境に身を置くことになるかもしれない。それが怖くて」
「…それで心と体を崩してしまっては、元も子もないような気もしますが」
「納得はしていませんけどね。ところで、あなたはどうしてここで働かれているんですか?」
「私ですか?私は、そうですね。一言で言えば『憧れ』でしょうか」
猫は、少し遠くを見た。
「私は、昔からカフェや喫茶をやりたいと思っていました。その雰囲気が好きだったんです。私も以前サラリーマンとして働いていた時期がありましたが、どうしても自分の夢を諦めきれなかったのです。当時は大変でしたが、今はこのように楽しくやらせてもらっているので、決断して良かったと今は思っています」
私はカクテルを飲んだ。すっきりとした甘さが口の中を巡った。
「なんとかなるもんですよ、人生」
にこやかに彼はそう言った。
「マスター」
声がした方を振り向くと、ワニがこちらを向いて誰かを読んでいるようだった。はい、と黒猫の彼が返事をしたため、彼がオーナーだったことに気づいた。若く見えてたが、いや、猫だから何歳くらいだとかは分からないのだが、それでも彼の毛並みは艶やかではあるし、歳が多く見積もっても40歳もいってないのではないだろうか。
「こっちに、カンパリオレンジとモスコミュールお願い」
「はい、今からお作りします」
そういうと“マスター”はそれらを作り始めた。コップに注ぎ、混ぜるだけなのに、それでも所作に無駄がない。洗練されている。私が見惚れているうちに、注文の品はすぐにできてしまった。
「少々お待ちくださいね」
そう言って彼はグラスをおしゃれなトレーに載せ運びに行った。私は周囲を見渡し始めた。天井は割と高く、そこから照明が吊り下げられており、開放感がある。バーの方に目を向けると、棚には数多くの酒(リキュール?)らしきボトルが並べられていた。眺めていると不意に、端に座っていた女性と目が合った。自分と同い年くらいだろうか。お互いに軽く会釈をし、また私は目線をそらした。
「お待たせしました」
彼が帰ってきた。
「ここは、やっぱり常連さんが多いんですか」
「そうですね。先程も申したようにここは隠れ家のような場所にありますから。ここは、誰でも来ることはできる一方で、誰も来ることもできなくて、だから存続しているんです。要は心の持ち方です、何回も来られる方もいますし」
彼の言っている意味が分からなかったが、そのまま聞いていた。
「皆さんが思っているより、私たちの住んでいる世界は広くて、いや、正確には狭いのだけれど、その中にある細い路地ですとか、私たちが普段見ていない、普通見られない世界はたくさんあるんです。そしてそこでの出会いが実は大事だったりするんです。この出会いもまた『必然的な運命』と言えるものなんですよ。私は話を聞くこともある意味仕事であり、個人的な趣味でもありますから、もしあなたに何か抱えているものがあるのなら、何でも話して良いんです。話すだけで楽になることもあるんです」
私は、まるで喉に支えていた魚の小骨がするりと抜けるように、自分でも思いがけないほどすんなりと言葉が出てきた。
「僕、去年長年付き合っていた恋人と別れたんです」
彼は何もせず、そうなんですか、と言った。
「彼女の魅力が分からなくなったのはあると思います。長年一緒にいすぎて、彼女の何が好きになったのか分からなくなっていたんです。そう思う自分に嫌気がさして、むしろ彼女も僕に対してそう思っているのじゃないかと。そう思うといてもたってもいられなくなって。仕事を始めて働いていてもうまくいかなくて、自分がいる価値があるのかと思ってしまって。それなら、彼女はこんな自分よりも別の人と幸せになる権利があるはずだと」
「そうですか」
彼はそう言い、あなたを責めるつもりはありませんが、と付け加えて淡々と話を続けた。
「自尊心は大事なものですよね。持ちすぎるのも、それはそれで良いことではありませんが、ある程度持っておかないときっと身を滅ぼすことになります。あなたはまずそこをどうにかすべきなのでしょう」
「そう言われても、具体的にどうしていいか分からなくて悩んでいるんです」
「…光の見えないトンネルにいるような気持ちでしょうか」
「そうかもしれません。もう自分ではどうしたら良いのか分からなくて」
猫は、私の悩みに困ったような顔はせず、落ち着いた口調で言った。
「私は明確な答えを出すことはできませんが、一つだけ言えるのは、うんと悩むことです。そして時間はかかっても良いから、確固たる答えを出すことです。悩むこと自体は、決して悪いことではないんですよ。悩みとは、全ての人が抱えているものですから。その悩みの比率が、人によって大きいか小さいかだけなのです」
私は残り少なくなったカクテルを流し込んだ。ふわ、と紅茶の香りが広がる。
「もう1杯、いかがですか」
「では、お言葉に甘えて」
グラスを下げ、彼はまた手慣れた手つきでカクテルを作り始めた。出されたのは白いカクテルだった。
「これは?」
「『雪の結晶』です」
と彼は言った。
「私も、人並みに苦労してきましたから、『そうじゃない者』の辛さや苦しさは分かっているつもりです。私も存分に悩んでここに立っています。私だけじゃなく、ここにいる人は皆そうです。私は彼らの安息地としてこんな場所を作りたかった」
彼の目をよく見ると、少しだけ潤んでいる気がした。ただ、それは猫だから元から目が潤んでいたのか、感情の機微によるものなのか、それは分からなかったが。
「こちらもどうぞ」
出されたのは一口大に切られたチーズだった。食べてみると、濃いチーズの味が口に広がった。お酒を一口含む。爽やかな甘味が口を潤す。
「これもすごくお酒と合いますね」
「ありがとうございます」
猫の目が細くなる。
「先程言われていた、ここには誰でも来れるし、誰も来れないって言っていたのはどういう意味ですか」
「文字通りの意味ですよ。ここに来る必要のない人は来ない、ただそれだけのことです。この店は、自らが求めた時に来たら良いのです。ここは止まり木なのです。怪我をした渡り鳥が、その怪我が直った途端に飛び立っていくように、皆それぞれにいく場所がある。帰る場所がある。きっと、この場は小さな止まり木に過ぎないのです」
猫が鳥の例え話を持ち出すのは、なんとなく変な気持ちがしたが何も言わなかった。
「先程も少し言いましたが、ここにいる人は皆、少しばかり心に闇を持っている人たちです。その闇がどれほどかは人それぞれですが。あなたも、ここに来たことをただの偶然と思っているかもしれませんが、実は導かれるようにここにきたのかもしれませんね」
「お兄さん、ここ空いているかい」
右から話かけられ振り向くと先ほど後ろで飲んでいたワニの男が私を見下ろしていた。
いきなりで驚いたが、目は優しそうに笑っていた。
「はい、どうぞ」
ありがとう、と言ってワニは隣の椅子に座り、持っていたカンパリオレンジを机に置いた。
猫の店主は「私は少しあちらにおりますね」と言い、さっきまでワニと話していた、もう一方のワニの女性の元へ向かっていった。
「この店は初めてかい、見たことない顔だもんな」
「そうなんです。今日はたまたま。あの猫の店主さんは、ここに来るのは必然だとも言っていましたが」
「はは、それが彼の口癖さ」
「ここによく来られるんですか」
「そりゃあね、ここは居心地が良いから。俺みたいなはみ出し者も普通に扱ってくれる」
「はみ出し者って、その格好のことですか?」
「顔のことを言っているのかい。そりゃあ、自分も君と同じような格好になれはするし、普段は何食わぬ顔でみんなと同じように過ごしているよ。でもやっぱりしんどいんだよな」
ワニは、頭をぽりぽりと掻いた。
「世の中にも、見た目は人間と全く同じなのに、何故かみんなと違うと言って苦しんでいる人は多いじゃないか。小さい頃は、何で自分は周りと違うんだとか、みんなと同じようになりたいとか、そんなことを思っていたが、ある意味、明らかに違う見た目に生まれて幸せだったのかもしれないと思い始めた。この社会の考える普通って、レベルが高すぎるんだよな。俺はこの店に来て長いがね、出会いもたまたま入った道の突き当たりにこの店があって、そこでたまたま入っただけだったんだよ。勿論俺はちゃんと人間の顔をして行ったんだけれども、そこに入って驚いたよ。店主は猫だし、そこにはうさぎもいたし鶏もいた。虎だっていたんだ。彼らは談笑していたんだ。彼は俺に『ここに来たのは偶然だと思うかもしれませんが、必然的にやってきたのです』と言ったのさ」
うさぎや鶏など、まるで夢を見た時のお話を聞いているようだったが、目の前にワニの男がいるのだから、頭ごなしに否定することはできなかった。
「…その、顔がうさぎだったり鶏だったりする人は、この世の中にいるんですか」
「あぁ、勿論いるとも。そして恐らく君が想像している数よりも遥かに多い。正体を隠している人なんて、この世にごまんといる。およそ99%以上の人が、何かを隠して『普通』を見繕って生活しているのさ。君もここに来たということは、きっと誰にも言えない悩みを抱えているのか、もしくは人に言えない不満なんかがあるんだろうね。心配せずとも、ここはなんでも受け入れてくれる場所さ。気の向くままゆっくりするといい」
「その通りですよ。ここだけの世界ですから、何を言っても良いんです」
後ろから声がした。猫が帰ってきたようだった。
「また何か飲まれますか」
「俺は『熱帯の運河』もらおうかな。お兄さんも、何か飲まないかい。この出会いに何か奢ろう」
「良いんですか。ありがとうございます」
猫がまたカクテルを作りはじめ、ワニがこう言った。
「何か悩みを相談すると、『悩んでいるのは君だけじゃない、だから悩むのをやめろ』っていう奴がいるが、あれは残酷な言葉だ。自分だけが悩んでいる孤独さは消えるかもしれないけど、だからといって悩むことをやめろというのは無理な話なんだ。人間悩むために生まれてきたのだから」
なんとなく分かったような、分からないような、そんなワニの言葉が私の体を通り抜けていった。
猫がカクテルの入ったグラスを置いた。


それからもう少し話をした後、
「もうこんな時間か」
と、ワニはバーの壁に立てかけられてある時計を見てそう言った。時刻はもう22時を回っている。
「マスター。あっちにデザートのプリンを2つ」
そして彼はまた私に顔を向けた。
「会えてよかったよ。君にも色々あるだろうが、しっかり悩むことだね。そして、君なりの答えを出しな。君は一人しかいないんだからさ」
そう言って私の背中を軽く叩き、前いた席に戻っていった。
「どうでした、彼と話してみて」
ワニが自分の席に戻っていったのを確認し、猫が尋ねた。
「あのワニの彼が言っていたんですけど、あの彼のように、何かを隠して生きている人って、この世界にたくさんいるんですか」
「いますよ。むしろ、隠す内容が違うだけで、何も隠さず生きている人間なんて、この世にいるんでしょうか」
猫は笑って答えた。右端に座っている女性を見ると、まだ灰色の猫と話をしている。楽しそうに話をしている彼女の姿が、私は美しいと思った。
「彼女にも、何か秘密があるんでしょうか」
「きっと誰しもそうなんですよ」
彼は、話をしている灰色の猫と彼女をしばらく見ていた。
「秘密は、人を美しくする」
彼は、独り言とも、会話とも取れるような微妙な声量でそう言った。
「マスター。お会計を」
見ると、ワニがもう帰る支度をしていた。
「ありがとうございました、気が少し楽になりました。僕もそろそろお会計を」
「こちらこそ、今日は来ていただいてありがとうございました。2000円になります」
私は2000円をバーの机に置いた。
「ありがとうございました。お気をつけてお帰りください」
「ごちそうさまでした」
私は細い路地を抜け、家へと帰っていく。私の問題は何も解決はしていないはずなのに、不思議と心が軽くなったような気がした。

                ***

それから私は、考え方を改めた。
自分は自分として、会社の職場の自分だけでなく、また別に自分を持つこと。自分の夢中になれることを見つけることにした。仕事で辛いことがあっても、それがあれば乗り越えられる気がするし、それを極め、それを生業にするのも良いかもしれないと思うようにしたのだ。状況は変わらないまでも、気持ちは幾分か晴れやかになった。
それから1週間経った金曜日の夜、私はまたあのバーに行ってみることにした。
この前と同じ道を辿ると、確かに扉はあるが、何か違う。扉の前に灯りが灯ってはいるが、ネオンで描かれた看板がない。その代わりに、扉の横に、小さな看板が出されていた。名前は日本語で「猫語り」と書かれている。
妙だなと思いながら入ると、内装は確かにそのままなのだが、使われている照明は白く、この前の店内とはまた違った、少しばかり寂しい印象を見せていた。バーカウンターには1人の老人のほか誰もおらず、彼はグラスを丁寧に拭いていた。
「いらっしゃい」
私は、困惑していた。
「あの…猫の店員さんたちは?」
そのマスターらしき人は、何を言っているのか分からぬというように首を捻った。
「猫?…の店員?ちょっと私には理解が及びませんが。…とりあえずお座りください」
そう言って席へ促してから不意に、彼は何か思い出したように考え込んだ。
「そういえば、もう数年前にもなりますが、同じようなことを言ってここに入って来られた方がいました。その方は女性だったのですが」
「その人はそれからどうしたんですか」
「そのあとは特に何も。私と世間話をして帰られましたね」
「世間話を?」
「えぇ、なんてことはないただの世間話です。彼女が行ったとされるバーの話を聞いて、少し彼女の悩み事を聞いていました。しかし彼女はすっきりとした顔をしていました。あまりにも素敵な表情していましたので、まだ頭に残っていたんですね。当時私が聞いた時には、彼女の悩みはもう解決されていたのかもしません」
「猫の店員さんに会おうとは思わなかったんですか」
「興味はありますが、会わずとも良いんですよ。あなたは今日、その猫の店員さんに会いたくて来たのでしょう?それがなければここに来なかったかもしれない。私は、どんな形であれお客さんが満足して帰ってもらえたら、それが一番の幸せだと思いますから」
彼は拭いていたグラスを置いた。
「もし良ければ、その猫の店員さんのお話を聞かせていただけますか」
彼は笑顔でそう言った。
私はその日、彼と夜遅くまで話をした。

                ***

1週間後の金曜の昼、スクランブル交差点で私はどこか見覚えのある女性を見かけた。
その女性はパリッとスーツを着こなしており、一言で言ってしまえば「できるビジネスパーソン」のような、そんな印象だった。
ちょうどすれ違った瞬間、彼女も私の視線に気付きお互いに目が合ったもののそのまま視線をそらしてしまった。
私は交差点を渡り切ってから分かった。彼女は、あの時バーで、毛色がグレーの猫とずっと話をしていた女性だ。
ここで何をしていたのだろう。
彼女の雰囲気は、以前あのバーで見た時とは全く別のものだった。一瞬、話しかけようとして足を止めたが、やめておいた。もしかしたらまた会えるかもしれない。いや、会えないかもしれないが、それはそれで良いと思う。あの時の出会いは偶然で必然だったのだ。
私は、歩みを止めずに力強く道を歩いていった。


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