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深い海の先に

海の近くを歩いていると、「こっちこっち」と声が聞こえた。そこには白い髭を生やした老人がいて、ちょうど防波堤の向こうから顔を出す形になっている。その老人が立っている場所は海のはずだが、向こうはどうなっているのか。

「僕ですか?」

「君以外に誰がいるんだ」

その老人は怪訝な表情で言った。

「え?本当に?」

「そうだ。早く乗ってくれ」

戸惑っていると防波堤の上に登るよう促した。言われるがまま登ると、その老人は海の上に浮かぶ潜水艦らしき何かに乗っていた。彼が足元の取っ手を引くとカポっと入り口が現れ、

「さぁ、入って入って」

と言われそのまま私は中に入ってしまった。

 船内は、入り口の狭さから考えると思ったほど狭くはなく、側面には機械のスイッチ等が張り巡らされていた。その老人は先頭の操縦席に座り、私はその真後ろの席に座った。反対側にももう1つ席があり、そこには既に身長は180cmくらいの、色黒で健康的な男性が座っていた。彼は窓から海の中を眺めていて、こちらに顔を合わせなかった。

「さ、しっかりつかまれ」

シートベルトをし、そのまま潜水艦はどんどん深度を下げていく。地上からの明かりがみるみるうちになくなっていくのが分かる。ある程度の時間進み、

「よし、もう外して良いだろう」

老人が言って、シートベルトを外してこちらを向いた。

「えっと、すいません、本当にここどこですか」

そう言うと、隣に座っていた男性が私の近くに顔を寄せ、顔をまじまじと見た。

「あれ、博士。本当にこの子違うぜ。どうやら別人を連れてきてしまったらしい」

「えぇ!?」

博士と呼ばれた老人が、素っ頓狂な声を上げた。

「いかん、すぐ降ろさねば」

「かと言ってもよ、もう海の中だぜ」

「…」

老人がうなだれる。

「諦めて、連れていくしかねえよ」

老人が、今度は自分の方を見た。

「まぁ…別に死ぬわけじゃないしなぁ。ルーキ、申し訳ないが、帰ったら連絡しといてくれないか」

「了解」

そう言ってタブレットのようなものを取り出し、何かを操作し始めた。

「あの、これはどこにいくんですか?」

「あぁ…。深海だよ。」

「深海?」

「いやね、深海って言ってもそんな大それた研究じゃなくて、個人的にやっているものだ。あぁ、いやいや、何も心配する必要はない。この潜水艦が故障したことはないし、仮にこの潜水艦が故障したとしても非常脱出装置を用意しているから、それを使えば安全に水面まですぐ浮くことができる」

「しかし、よく似ているもんだな」

そう言ってまじまじと僕の顔を見た。

「そんなに似ているものですか」

「似てる似てる。そいつはマースって言うんだけどな。なんか君と性格も似てそうでちょっと面白い。でも君からしたらラッキーだよ。深海なんて普段行かないだろうから」

彼がニカっと笑い、白い歯が見えた。

「この潜水艦は、何が目的で潜っているんですか」

「ロマンさ、ロマン」

操縦席の方で博士が口を開いた。

「ロマン?」

「深海は、実はまだ解明されていないことが多いんだよ。深海に色々な生物はいるが、全ての生物が見つかった訳ではない。私は知った気になっているのが一番怖いんだ。君は自分の目で深海の魚を見たことがあるかい。『常識』は時に人の視野を狭める。こういう研究がなされて、こういう結果が出ましたって、それは当たり前なんだけれども、そこで考えることをやめてしまうっていうのはなんとも惜しい。君は、まだ若いね。常識は大事だ。常識があるから人間生活がこうして成り立っているわけであるし、常識が社会がこうして存在している。とはいえ、それ以外の分野、例えば科学技術や生物、文学の分野だってそうだな、そういう深くに行こうとすればどこまでも行けるって分野に関しては、これまでの『常識』、つまりは先人たちが積み上げてきたものを学んだ上で常識を壊していく必要があるんだ。今まで常識だと思って学んでいたものを、そこから『今まで常識だったもの』として接していかなけばならない。それがとてつもなく難しいのだ」

「つまり、今お2人は深海にまだ見つかっていない何かを探しに行っていると?」

「うん、まぁそうかな。当たっているといえば当たっているが、それが100%かと言われるとそうではない」

「どういうことですか?」

「それはな…」

彼が何か言いかけたところで、彼の背中越しの窓から光っているクラゲが見えた。

「あ、クラゲ」

自分の声に反応し、彼も窓の外を見た。

「こういう光るクラゲもいるんだよな。こういうのを見ると、あぁ深海に来たなと思うよ」

ルーキが言った。

「まぁ、行けばわかるよ」

そのまま深い海へ沈んでいく。それはまるで終わりのないエレベーターに乗っているようだった。下へ進んでいく感覚があるだけで、他には何もなかった。外も真っ暗で何も見えず、ライトの光も先の見えない深淵を照らしているだけで、先に何があるのかも全く分からなかった。何を目印にしているか分からなかったが、たまに博士が「こっちか」と言いながら操縦していた。


***


どのくらい経ったろうか、窓の外で、流れ星のように光り輝くものが通り過ぎた気がした。気のせいかとも思ったが、それはすぐに気のせいでないことを悟った。光がだんだんと強くなり、目の前に現れたのはまるで別世界だった。砂浜に大きな珊瑚がいくつも並んでいて、その珊瑚がキラキラ光っている。正確には胞子のようなものが光を発していて、ここら一帯が全て真昼のように明るい。そのまま潜水艦を進めていると、まるで人魚のような女性が目の前を横切った。上半身は人間で、下半身は魚だ。しかしよく見ると脇腹には鰓があり、手にも水掻きがついていて、上半身も人間とは差があった。1人の人魚がこちらに手を振った。

「彼らは?」

「俺らは人魚って呼んでいるんだけどね。ここで住んでいる種族。俺たちと似ているだけあって知性はほとんど変わらないと思う」

尋ねると、ルーキはそう答えた。博士は、彼らと意思疎通しようとしているのか、ボディーランゲージを用いながら、画用紙を見せつつ何か伝えようとしていた。

「博士は何をしようとしているんですか?」

「彼らとのコミュニケーションを図ろうとしてる。ただ、ここの水深がかなり深いのと、特殊な方法を用いて来ないといけないから、ここにいられる時間も限られるんだ。だから短い期間でどうにか彼らの言葉を解読しようとしている。これが、俺たちがここに来る大きな目的だ」

博士は、必死に何かを伝えようとしていた。

「こんなに外が綺麗なのに、外に出られないのが残念だよな」

「出られないんですか」

「そりゃあそうだよ。ここは水深がとんでもなく深いからな」

それもそうだ。しかし、外に人間らしき生き物が歩いているのも見えた。

「でも人間も歩いてるみたいですよ」

「あぁ、あれね」

とルーキは言った。

「ごく稀にだけどね、この人魚たちに助けられてこの世界に暮らす人もいるんだよ。船が難破したりして死を待つのみの人たちのところへ行って、深海に連れていくんだ。深海に行くまでに、彼女たちが深海に耐えうる体にさせてくれるらしいよ。その代わり、地上には戻ることはできないらしいんだけど。深海って、心臓の鼓動スピードが遅くなる影響か知らないけど寿命がめちゃくちゃ伸びるらしいぜ。もっとも、今は捜索隊が優秀ですぐに救助に出るし、人魚たちも浅瀬に行くことが少なくなって来たからそんな事例はもうほとんどないらしいんだけどさ。どこかに、タイタニック号沈没の時に助けられた人がここで生活しているとかなんとか、博士から聞いたことがあるな」

「それはすごいですね」

「だろ?運が良ければ会えるらしいんだが、まだ会ったことはないんだよな」

「ルーキさんは、深海には何度か来られたことがあるんですか?」

「そうだな、でも俺はまだ5、6回だ。あの博士に比べれば大したことねえよ。あの人はもう少なくとも20回は行ってるんだ」

「なんでそこまで」

「そう思うだろ?でも深海って本当に興味深いんだよ。未知の生物、見たこともない景色が広がってると想像したら、ワクワクするんだよな」

そう言う彼の目もキラキラ輝いていた。あの博士だけではなく、彼も深海に魅了された人物なのだろうと思った。

「ほら、あの窓から見えるかな。大きな珊瑚と、あの大きなタコみたいなやつ見える?あれ、商売してるらしいよ」

「商売?」

「あのタコの目の前にキラキラしたものとか、魚が置かれてるだろ。あれに見合うものと物々交換しようって言ってるらしい」

面白い。それで成り立っているということは買う生物もいるということで。あのタコは人魚に寄せていったのだろうか、それとも元々そういう生態なのだろうか。話し終わった博士が、ほくほく顔でこちらを向いた。

「いやぁ、今回はうまく意思疎通できた。とても有意義なコミュニケーションだった。もうそろそろ上がらないといけないね、ぐるっとここを回ってからあがろうか」

潜水艦はまたゆっくりと動き出した。上には、大木のように大きな珊瑚が生えている。しばらく道を進むと、石で敷き詰められた道になり、広場に出た。そこでは人魚たちがまるで地上の人間たちのように談笑をしたり買い物をしているようだった。

「すごい景色ですね」

「だろう?こんな世界もこの深海に広がっていると考えればすごいよな。私も最初見た時の興奮はすごかった。ここでは人魚たちが社会を形成しているんだ。これを見ていると、可能性って、自分で決めているものなんだと思うね」

ルーキがそう言った。

「買い物とかできないんですか?」

「深海専用の硬貨を使っているからなぁ。でも売ってるものが深海で取れる貝殻とか石とか食べ物くらいだから、ここで買ったとて使い道はないな」

「それもそうですね」

自分達は、そのまま博士と人魚との意思疎通をしばらく見ていた。

「じゃあ、ぼちぼち上へ戻ろうか」

満足したような顔で博士がそう言い、操縦席のレバーを上げた。潜水艦はそのまま上へと上がっていった。だんだん広場から離れていく。光が遠ざかっていき、また暗闇の世界が訪れた。私は操縦席に座っている博士に思い切って尋ねてみた。

「これ、何が目的でやっているものなんですか」

「目的…。端的に言ってしまえば自己満足かな。別に何を発表しようという訳でもないからね。色々なものを見つけて、人魚たちと仲良くなれたら、私は他に何も望まないんだ。私はね、死ぬ前に、ここで最期を終えるのが理想なんだ」

一瞬の間。

「その時には、あの子に迎えにきてもらうんだ」

そう口にした博士の目は、真っ直ぐを見て動かなかった。彼のその目は、深海を見ているようで、さらに遠くを見ているようにも見えた。

帰りも同じ時間をかけて帰り、海面に上がった時にはもう辺りは真っ暗だった。

「今日は貴重な経験ができたな」

ルーキが言った。

「ありがとうございました」

「私たちは、またマースと待ち合わせて反省会を開く」

「反省会って言っても、ただ飲むだけなんだけどな」

ルーキの言葉に博士が笑った。楽しそうだなと思ったのは、ここだけの秘密だ。

「マースさんによろしくお伝えください」

「おう、言っとくよ」

私は、なんだか体がうずうずして、そのまま家へ向かって走り出した。

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