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気持ちが冷める前に / ポポネ

 この小説は、総合表現サークル“P.Name”会誌「P.ink」七夕号に掲載されたものである。本誌は2023年7月7日に発行され、学内で配布された。


 憎悪と嫌悪というものは、存外全く違うものに思う。それを知るには昔の自分はあまりにも青く、感情に疎すぎた。自分がそれに気付けたのは、あくまでも重ねた年月故のものだろう。そうでなければ、己が心の内にある感情を説明できないのだ。

 重ねた年月は手の皺に現れ、過ごした日々は思想に蓄積される。あの日の青さを尊ぶ同窓会は、今年初めて開催された。蝉が朧げに鳴き始めて、室外の夏を悟る。肌にクーラーの人工的な冷たさが辛く、不思議と外の炎天下すら恋しくなる七月の始まり。打ち込む手が徐々にかじかんで、気が遠くなる。右手首に堂々と居座る黒子が、じっとこっちを見ていた。
 『緊急速報です。明日、隕石が落石するとの情報が入りました』
 『いやぁ、今度は隕石ですか。連日騒がしいですね』
 『夏ですからねぇ。世界が嫌になる人も多いのでしょう』
 『しかし、迷惑な話ですね。これで割りを食う人もいらっしゃるというのに』
 『ええ、全く』
 『それでは、次のニュースです。昨日──』
 背景に流したニュースを聞いて、またうつらうつら。くだらないコメンテーターの談笑は、日常をかさ増しした程度だ。実につまらなくて、また睡魔が襲ってくる。
 ふと、目の覚める振動と共に、携帯に通知が送られてくる。もはや誰か分からない名前だ。内容は、同窓会のお知らせ。学生時代に使われていた名残のグループは、惰性で入り続けていただけだった。
 日にちは、数日後。本来呼ばれるべきでは無かった、連絡の取れない誰かに対した連絡だろうか。突然の知らせは、ここでの告知が想定外だと暗示している。生憎、スケジュールは空いている。
 きまぐれだ。手厚い招待に、少し、行ってやろうかという気持ちになった。

 七月某日。炎天下の日本は猛暑を更新し続けている。滲み出る汗は、服に染み出して不快だ。けれど、それもここまで。目の前には、立派な重厚感ある建物が聳えている。
 会場は一般的なホテル会場の一室だった。概ねの同窓は既に社会人で、それ相応の会費を払ったこの集まりは、一定の豪華さを保っていた。空調は万全。夏の茹だるような暑さが、嘘のようだ。
 一足、踏み込む。会話。活気。見慣れた人と人。それだけで、幹事の苦労が偲ばれる。だというのに、とうの本人は暢気に笑顔なのだから、底知れない。自分は幹事などとは程遠く、教室の隅でその活気を眺めていたことを思い出す。瑞々しく笑う集団に感じた鬱屈は、余りにも過去で愛おしいばかりだ。今の自分には、感情を抱く事すら出来やしない。唯一零れたのは称賛だけだった。
「凄いね」
「ん、ありがと!」
 乾いた笑いと、不自然に歪んだ口角。軽率に話しかけるべきではなかった。続かない会話が、そっと背に残った汗を冷やしていく。何を言うべきか。話題を懸命に探して指を擦る。そもそも、自分はこの子の事をよく知らないのだ。話題など見つかるはずもない。
 それを見かねてか、主催は妙に引き攣った乾いた笑いを携えて、こちらに話かけてくる。どうにも、沈黙が苦手なのは、こちらばかりではないらしい。
「来たんだ」
「うん……」
「楽しんでってね」
 軽く振られた手が、他を見つけると直ぐに消え去っていく。形式的に交わした会話は、誰にでも使われる空虚な言葉だ。きっとあの子はこちらを覚えていやしない。事実、名前を一度も呼ばれていない。
 考えれば、交流のある友人は居ない己は、本来このような場に来るべきでないのだ。喧騒に巻かれた己の静寂が、絶たれた関係値を思い知らす。自ら選んだ決断すれば後悔しないなんて大嘘だ。一時の気の迷いだってあるのだから。
 ふらふらと壁沿いを歩いて回る。時たま、こちらを見る白けた視線。いっそのこと、幽霊として扱ってくれればいいのにと思う。くるりと一周見渡せど、やはり話しかける機会すら見つからない。
 一周、二周。会場を金魚のように歩き回って、ようやっと欠片を発見した。けれど、そこにあるのは喜びなんかじゃない。遠目に見えた人影に、心臓が早鐘を打つ。予測すべきだった。明日の天気より簡単にわかり得る事象だったろうに。
 『それ』が、この場にいることぐらい。
 己は良く憶えていた。『それ』が誰であるのか。どんな人物であるのか。そして、『それ』にむけていた感情も。『それ』は化け物だった。自らを脅かす驚異の正体そのものである。
「貴方も、来ていたんですね」
 含みを持った笑い方。複雑に絡み合った瞳の虹彩が、自分の脳を見透かす。止まらない手足の震えが、脳を裏返して恐怖を思い出させる。体に、脳に、刻み込まれた恐怖が、大輪の花を咲かせた。『それ』の泣き黒子が、こちらを睨んでいる。
「私、変な事いいました?」
「ひ、さしぶり、です」
「はい。お久しぶりです。学生時代以来ですね」
 何をいけしゃあしゃあと言うのだろうか。一瞬の困惑が恐怖を上回った。化け物が。すべてを壊した破壊者が。一体全体、こちらに何用か。学生時代、友人も何もない自分に唯一ある負の関係性。こちらを認識しているのは、悲しいかな『それ』しかいないのだ。
 ぎり、と歯ぎしりをする。歳月の重ねに関わらず、自分が反抗できないのは、自分の弱さだ。どれだけ拳を握りしめても、それを振るえないのであれば意味がないのだ。それがただ悔しい。腹の底から湧き上がる憎悪は、臆病で保身的な己の喉で突っかかった。
 
 ──殺してやりたい。過去の負債の清算を、終わらせてしまいたい。一生に一度の願いを全て使ったって構わない。幸か不幸か、自分たちには、それが許されている。
 
 この世界には狂った法則が一つある。この地球に生まれた人間は皆、平等に好きな願いを一度だけ叶えることができるのだ。これぞ、まさに一生のお願い。幼児が洒落て口走る言葉が、事実して叶ってしまう現状。そんな狂気じみた世界が、ここにはあった。
 ある子は、間違えてどうしようもない願いを叶えた。一時の気の迷いだったろうに。一生取り返せない、必要な『もの』を消したのだ。後から聞いた話でありながら、その無力感に耐えられず、自分はつい目をそらした。
 そんな惨い結果が、全世界で横行されている。誰も、叶える願いを最終的に、正しく選別できない。それが本望だったのだと主張する輩もいるだろう。けれど、どうにも自分にはそうは思えない。
 右手首の黒子を見る。小さいながら主張するそれは、己が願いを叶えていないという証左だ。自らの体に刻まれた、権利行使の許し。そして、臆病者の証。
「何か願いは叶えましたか」
 突然の話題は、困惑をもたらした。タイミングが良すぎる。それは日常会話ではあるけれど、実のところ結構センシティブなものに他ならない。願いは、コンプレックスの裏返しだ。誰もが口にしたくない話題を、『それ』は意にも介さず口に出す。そんな愚行が許されるのは、『それ』の外面がいいからだろうか。それとも、本当にこちらの脳でも読んだだろうか。
「まだ」
「その年なのにですか?」
「うるさいよ」
 すっと右手首をなぞる。僅かに感じる起伏に、安心と焦燥が押し寄せた。そうだ。未だに叶える願いなどないのは、正直言えば怠惰だろう。
「一組の彼女を覚えていますか」
「幹事の?」
「はい」
 『それ』は、肯定の返事と共に頷いた。素直な肯定は、ひねくれ者の自分には疑惑の要素でしかない。どこに火が飛んでいくか分かりはしないのだ。露骨に固まった自分の関節に、『それ』は呆れて溜息を吐く。
「……そんなに警戒しないでください。世間話ですよ」
「それで、彼女が何?」
「彼女は、自身の夫にプロポーズを決行するとき、使ったそうです。絶対、成功するようにと」
 なんと美談。『それ』が寄越したスマホの画面を確認する。『今では幸せに過ごしています』という一文が添えられた投稿は、コンプレックスの欠片も見当たらない。正直に言って、願いの無駄遣いでしかない。
「もう付き合っているのに?」
「恋愛関係になるのと、夫婦になるのとでは違うのでしょう」
 そんなものか、と納得する。普通の生活などは、遥か昔に諦めてしまっていた。今更、世間一般の感性を求められても困る。寧ろ、『それ』が真っ当な事を言っている方に違和感がある。
 『それ』は極上の秘密を囁くよう、そっと身を寄せて耳元で呟く。甘く蕩ける声が、『それ』の形容しがたい花の香りと共に押し寄せた。一時的に思考を全て奪う、蠱惑的な甘さだ。
「貴方は、心を変えることは可能だと思いますか」
「『一生のお願い』で?」
「はい。どうですか」
「できるんじゃないの。だって、そういうものって」
「確かに、そうでしょう。でも、その願いでは一生の効力がありません」
「つまり?」
「心変わりします。
 例えば、『彼が私を好きになりますように』と無垢な少女が願ったとしましょう。当然、告白に成功します。しかし、その後を保証されません。
 童話と同じ。結末後の人生は描いてもらえません。その後の彼の動向は、誰にも保証できないのです。浮気をしても、別れても、保証対象外です」
「インチキ……」
 なんて酷い話だろうか。詐欺と全く同じ手口だ。口当たりの良い言葉だけを信じ込ませ、その裏にある見窄らしい現実を見せないなんて。平等に与えられた権利を謳いながら、全くの逆ではないか。道理とは言えど、どうにも腑に落ちない。
「そうでしょうね。私なら、そんな契約は結びません」
「そっちは打算的すぎる」
「誉め言葉ですね。
 けれど、代償がない行為です。ひと時の夢を見られるのだと考えれば、素晴らしいことでしょう」
 恋愛とはエンターテイメントである。そんな享楽的思想を持ち合わせてなければ、『それ』の発言に嫌悪感を覚えるだろう。勿論、自分もその一人。あからさまに顔を顰めると、『それ』は見下すように、こちらに乾いた視線を向ける。
「他人に願って、人を自らのものにするという行為こそが愚かなのです」
「でも、きっと、それが愛ってやつなんじゃないの」
 ぽつりと言葉に出した主張は、わずかな反抗声明だった。まあるく目を見開いた『それ』の驚きの対象は、こちらの反抗か、それとも言葉の意味の方か。
 人は、情の為に間違いを犯す。案外、愚かさの隙間に人間性が詰まっているものではないだろうか。完全の擬人化たる『それ』を見ていると、それが真実のように思えるのだ。隙のない人間は、どこか造り物じみている。
「そうかもしれませんね」
 頬を緩めた『それ』の目じりには、薄っすらと皺が刻まれている。見慣れないそれは、自分たちが学生ではないという明確な証だ。過去は消えないが、未来は幾らでも変えられる。そう思うと、何故だか、仄暗い希望が降り注いでくる。
 最悪の殺し方をしてやろう。油断して、信じ切って、安心しきったところを狙って。

 あの後、自分は手を引いて『それ』を日常へと呼び込んだ。こちらは意地でも『それ』といなければならず、『それ』は丁度いい小間使いを探していた。つまりは、一挙両得。不道徳と非人道を掛け合わせた日常は、案外狂わずに進んでいく。
 『それ』の定位置は、こちらの家。陽の良く差す大きな窓のリビングの一角だ。ミニマリストな己の部屋に似つかわしくない家具の数々と、積み込まれた読めもしない本。全てが『それ』の私物だ。
 地べたに転がったソファを背もたれに、陽を浴びる『それ』を見ると、学生時代を思い出す。相も変わらず、夏の暑さをも物ともしない姿には恐れ入る。肌に滑る汗の一粒すら涼しげで、触れる冷風の寒さが霞む。つい、無意識に『それ』の黒子を見る癖も、学生自体の名残だ。
 学生時代、『それ』が居る一角は、特別だった。例えるなら、そこは藤畑だ。長く伸ばされた前髪が鬱々とした影を落とすとき、そのはためきは藤の揺らめきだった。夏の眩い陽光が『それ』に差し込むと、なんとも涼しげに『それ』を飾り立てるのだ。ちょうどこの時期だろうか。傾きかけた太陽と『それ』を視界に収めると、絵画を閲覧したような恍惚感を得られたものだ。
 あり得もしない、郷愁の念。胸に通り抜ける初夏の風は、空白の学生時代をかすめていったらしい。『それ』を眺めていると、時たまにそんな心象を抱く。
「それ、取ってください」
「やだ」
 ぺらりと、ページがまた一枚捲られる。読書を続行したい『それ』と自分の無言の攻防は、こちらの負けだ。最近、否、ずっと前から負け越している。勝てる算段は未だにない。『それ』の態度から滲む不機嫌に、重い腰を上げて目的をとってやる。それを苦痛に感じなくなったのは、果たしていつだったろうか。もう思い出せない程、長く共に居た気がしてしまう。
 殺意は続かない事を知った。『それ』と過ごす内に、自分は心地よさを知ってしまったのだ。なんという失態だろうか! 憎悪を言う感情は、この世で最も愛に近い。己は知ってしまった。己が抱く感情が嫌悪ではなく、あくまでも憎悪でしかないことを。その憎悪が、いつの間にか変化してきていることを。そも、自分は『それ』の命を奪いたい訳ではないのだ。
 ──ああ、気持ちが冷める前に、それでも殺さねばならないのだ。さもなければ、この忌々しい黒子を取り去る機会すら失ってしまう。

 終わりかけた夏が、昨日を懐かしんでいる。時間経過とは惨いものだ。しぼんでいく殺意と裏腹に、膨れ上がった大輪の花束に似た感情は、愛のようで何か違う。しかし、『それ』を眺めて得る苦しみは、恋にしては苦すぎる。日常に紛れ込んだ雑念は、いつしか慣れへと変わってしまった。もう、自身が抱いている感情すらわからない。
「麦茶」
「はい」
 氷が添えられた、キンキンに冷えた麦茶を差し出す。お礼はない。分厚い本を片手に、生返事が返ってくる。空いた手でグラスを寄せる仕草すら一枚の絵画のようで、それがより一層憎らしい。恰好付けている暇があるなら、先に感謝をすべきだ。
「お礼は?」
「……ありがとうございます」
 若干の不服があるその姿すら──。そう思ってしまうと、もう抑えが利かない。感情の一滴が垂れると、感情のダムは容易に決壊する。もう無理だ。愛憎交々こもったこの感情を、己で制御しきれない。焦燥と、自己嫌悪と、罪悪感。臆病者は堪えきれずに、逃げ出すしかない。
「ごめん。やっぱり、一緒にいられない」
 そう言って、項垂れる。嚙み締めた唇が、無意味に震え続ける。
 何故、今日が特別な日では無かったのだろうか。日常の一部として、こんな事を言いたい訳でもなかったのに。初めて、じっと『それ』の瞳と目を合わせる。いつも通り、複雑な虹彩がこっちを見ていた。
「そうですか」
 『それ』の嫌に長い睫毛が伏せられて、肌に影を落とす。夏に透けた肌が、青白く落ち込んでいく。血の気と人間味が失われていく光景は、悍ましい程美しい。本当に『それ』が人間でなくなったみたいだ、と見惚れる。
「本当に、ごめん。でも──」
 命を狙っていた人間とは、過ごしたくはないだろう。続く言葉は遮られ、もう良いと首を振られる。ご尤も。言い訳したところで、決断が変わりはしないのだ。後に無駄に並べられた美辞麗句は、命乞いに他ならない。
「では、最後に」
 そっと、緩く抱きしめられる。夏だというのに、『それ』は外見に異ならず、冷たいままだ。自分は初めて、『それ』の温度を知った。
 燦々と我々を窓際から照らす太陽が、大声でなきわめく蝉が、祝福の拍手を送っていた。そんな気がしただけだが。この経験を最後に、自分は先に進んでいける。馬鹿な事をすると、我ながら思う。けれど、傷だっていいのだ。この体に残るのは。
「──本当に、愛していましたよ」
 とくん、とくん。緊張と反対に緩やかになっていく脈と、力の入らない体。温かくなる『それ』の体温が、己の体を支えて、包んでいた。
 からんと、麦茶の氷が解ける。白んでいく視界で、『それ』の泣き黒子が消えるのを見た。

気持ちが冷める前に / ポポネ

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