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紀政諮「嫉妬なんかと一緒にするな」中編

 十二月三〇日。ぬく。部屋を出たくない。
「は〜またなんかDM来てるよ……もう縮小垢に篭ろうかな」
 と、彼女は昼一時に出て行った。部屋には、残り香と温もりの布団。溶けてしまいたくて仕方がない。仕方がないので、不可抗力で二度寝……などできるはずもなく、年末年始、食うに困らないための作り置きを、一人になった台所で始めた。
 ネットストーカーなんて大仰なことを言っても(たいていの人は、枕詞にネットとつくだけで実際以上に大仰なことを想像するものだが)、ほとんどの場合、それはリアルでのかけひきの延長線上にある。すでにリアルで知り合っていて、そちらで色々あって、匿名の捨てアカウントからノーリスクで横暴をはたらく者は意外と多い。実際にはノーリスクなんてことはないのだが。
 粉末出汁を溶かしたお湯に、鶏卵を割って、おとす。
 今回のケースは正にそれだった。彼女の大学での知り合いの誰かと思われる捨てアカウントから、最近しつこくDMがとどく。そういうのは即座にスクショされて、友人や、この男のような恋人に即座に共有されるというのに、そんな心配お構いなし。そんなのがやってくる非日常が、もう日常になってきた感がある。男は自らの鈍化を噛み締めていた。
 唯一慣れないのは、そういうものに悩まされている間、彼女の思考がそちらに支配されているということだ。許せない。せめて自分のいるうちは、自分のことだけを考えていてほしい。男が彼女の直面する問題をよく聞き、対処に全力を注ぐ動機のほとんどは独占欲だった。嫉妬心であった。
 ざくり。食材に摩擦して包丁がなま板に落ちる。自分の偏屈さを自覚する。ざくり、ざくり、ざくり。こうしている間も、彼女はあのDM野郎のことを考えながら買い出しをしている。切る速度が、少し、速くなる。
 それに、いくら手を打っても、唯一どうにもならない領域がある。
「ただいま〜! みてみて、プロピンコラボの年越しそば売ってた!」
 くそ。——かわいい。だからこそ嫌だ。
 韓流アイドルに彼女の熱が上がるたび、自分の体温が下がる気がした。僕だって韓国人なんだぞ、と、ふと思ってしまう。そのたび、自分の思い上がりに気づいて、男は溜飲を覚える。違うんだ。それは、最悪な結論に至ってしまう逃げ道なんだ。
「……? 料理人さん、進捗どう?」
 ふわり、と、男の肩にちいさな頭が乗ってきた。ぼちぼちかなあ、と返そうとしたくらいで、すっ、と彼女の手が変な方向に伸びる。瞬間、ぐにゅ、という感覚。
「いいケツしてんなっ」
 極端にふざけた声でそんなちょっかいを出してくる。
 じゃれあっている時だけは、自分のことだけを考えてくれているはずだ。彼女の世界を独占できているはずだ。男はそう思うことにしていた。

 ——いつもの花びら いつものやめたい
  いつもの雨雲 いつもの夜風
  同じ次元でキスをして
  違う次元で生きている——

 夜。男だけ眠れない。枕はピンク色のタオルでくるんであって、ぼんやり、はだけているのが目に入る。鼻から息を吸う。唾を、飲み込む。
「ただの嫉妬と一緒にするな……嫉妬なんかと一緒にするな……」
 ほんのり喉の奥で誦んじる。
 最悪な結論へ至ってしまう逃げ道。そこへ到達しないように、日中は、思考をある程度制限できている。しかし夜は違う。際限なく続く連想ゲームは、まるで迷路を総当たりで突破しようとする初心者のような挙動をする。
 あっ、また、同じところ。
 地雷原につい踏み入ってしまうたびに、緊急避難で目を覚ましてしまう。気を逸らしたい。男は、彼女の寝顔に焦点をあてた。
 なぜ、タオルと同じ色に見えるんだろう。
「好きだよ。僕のこと、好き? それとも……」
 好きなのは、「韓国人ハングッサラン」……?

 十二月三一日。大晦日。夜。シャワー室。
 ここまで紅白の——アイドルの歌声が響いてくる。
 シャワーを浴びている段階から精神攻撃を受けている。シャワー上がりほど気分が急転直下するタイミングもないというのに。
 シャンプーをながす左手に力が入らない。きちんとゆすげないので髪はずっとぬめぬめしたまま。次第にヘッドをもつ右手もつらくなる。限界を迎えそうになって、直前、両手をうなだれさせた。
 ——嫉妬なんかと——
 口ずさみかけ、あわてて黙った。そういえばここは自宅じゃない。自分がリアルに聴いてる曲なんて気持ち悪がられるだけだ。やらかした、という思いで、聴覚が研ぎ澄まされる。男の脳内はシャワーの水音で支配された。——かと思いきや、すぐさまリビングからKPOPが流れこんでくる。
 さっさと流しきってしまう方が賢明だ。たおやめぶりに、手は水圧ノブをひねる。
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