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ダンボールシェルター 前編 / 志宇野美海

 この小説は、総合表現サークル“P.Name”会誌「P.ink」七夕号に掲載されたものである。本誌は2023年7月7日に発行され、学内で配布された。


 七畳の部屋にいくつもの段ボールが散乱していた。引っ越しの荷ほどきがようやく終わった。荷物は案外多かった。人間一人がそこそこの生活をしようと思ったらこんなにもモノが必要なんだと実感する。段ボールを片す気にはなれなかった。その余力がなく、出来ればお茶でも飲んで一服したいと思った。電気ポットは確かそこに置いたはず……そうだティーパックなんて気の利いたものを持ってきているはずがない。本でも読もうか? 電気会社が遅れていてまだ電気が点かない。ネットもつながっていない。私は観念して段ボールを重ねていった。これ以外することもないしダラダラすることもできなかった。
 段ボールの質感は好きだ。ざらざらしているけれどしすぎてない。ちょっと暖かい。角の部分でひっかくと痛い。昔段ボールで遊ぶのが好きだった。段ボールを敷いて、囲いをつくって、屋根のように載せて。そのように作った小さな家は私の小さな領域だった。子どもが与えられたのは中学年のときでそれまでは自分の部屋はなかった。そんな自分にとって侵害されない場所はどんなに狭かろうと幸せの象徴なのだ。背徳感と特別さ。狭くて暗いその場所は甘美な想像を掻きたてる。
 段ボールの世界はいつだって私の味方だ。波状と平らな紙が織りなす多重構造は想像以上に頑丈で、私を様々なものから守った。段ボールの掘立小屋にわざわざゲーム機を運び込んではそこでゲームをしていた。母に見つかれば、
「明るい場所でゲームをしなさい、目が悪くなるでしょう」
 と言われるだろうということは予測できたが、母の外出した隙を狙ってはそういう遊びに興じた。
 そういえば、いつからか段ボールのなかで遊ぶということをしなくなった。あれはいつからだったのだろうか。覚えていないものだなあ、と思う。こういうときは大抵嫌な思い出が絡みついているものだ。思い出したくないから、その周辺の全ての象徴的な思い出すらも巻き込んで、なかったことにしようとする。段ボールもきっとそういうものだ。私は何らかのネガティブな思い出を、段ボールと共に記憶からデリートしている。
 まあ、なんとなくあの頃だよなあ、ということは思い出している、ただ漠然としていて、なんとなくしか思い出せない。前後関係もない白黒の記憶。日本語化されている部分もあるが、ほとんどは数字と記号、そしてアルファベット。思い出すとき、記憶はファイル変換されて圧縮されている。それを解凍するようなコードを挿入すれば、喪われた記憶は鮮明に浮かび上がる。問題はどのコードか分からないということだ。
 ああ、また考え込みすぎてしまった。さっきから仕事の手が止まっている。さっさと段ボールを片付けてしまおう。
 べりべり(段ボールからガムテープを剥がす音)
 ばすん(段ボールを畳む音)
 ぼすん(段ボールを重ねる音)
 ダン!(段ボールにあたって固いものが落ちた)

 あ。ダンボール。そうだ、ダンボールだ、段ボールじゃなくて。私は小学生の高学年のときまで段ボールのことを勘違いして、ダンボールというもので段という漢字を使うのは誤用だと考えていたのだ。
 そのコードをきっかけに私は忘却していたあの思い出の一群を徐々に思い出し始めた。ああ、やっぱりそうだ、あんまり思い出したくなかったはずのことまであふれてくる。

 私は優等生だった。思い出したくないほどに優等生だった。期待と羨望と疎外それだけだった。

 小学生のとき、いやそれ以降の学校生活の全てであまり良い思い出はない。しかしやっぱり小学校のときは特別面白くなかった。それは、今、大学生になった私が、当時のことを思い出してそう思っているだけにすぎないのかもしれない。当時の私は当時の私なりに楽しんでいような気もするし、今の私が思う以上につまらないことでうだうだと悩んだりしていたような気もする。つまらないことというのはある女子とその女子を取り巻く諸々のことだった。その子は少々大人しすぎる気はあるものの、人を安心させるような、または懐柔させるような不思議な魅力にあふれていた。しかし私とよく遊んでくれた。私といつも一緒にいた。二年生のときにクラスが同じになってから、私たちはニコイチといえる程、長い時間を共に過ごしていた。
 彼女は大人しく、多くの人と関わることを好まなかった。しかしそれは彼女の人間的欠如故ではなく、むしろミステリアスな月明となって彼女自身をより引き立たせていた。
 しかし魅力あるものを独り占めにはできない。私は彼女のかわいらしく、優しく、尊いものを蓋い隠そうとしていたけれど、それは私の一存で隠し通せるようなものではない。彼女のあれは本当に厄介だった。月で喩えるのにふさわしい。夏の夜の害虫のようにうざったい人々をも巻き込んで私たちの友情を侵害しようとしてきた。害虫は暴力的で野蛮な方法でそれを行った。つまり、いじめだ。
 幸運にも私はそれに対処する術があった。私はすこぶる態度が優良な学生であり、というのも児童会の役員を務め、成績も少々ばかりよく、授業では積極的に発言し、一人でいるときは本を読んで過ごすという典型的な有様だった。実際には私は少々ばかりも頭がよくなく、そのために大して本も読めず、なおさら他のことは以ての外という、無能極まりない存在であったということを後々の人生で実感するのだが、とにかくそのときは、私は勤勉で品行方正な態度により全てはごまかされていた。しかしその唯一の長所とも思えるミーアキャットのように勤勉な態度は決して、私の生来の性質というものではなかった。
 しかし、少なくともいじめっ子に対しては有用だったようだ。

「————それでは帰りの会を終わります。月明ちゃん、害虫ちゃん、それから私ちゃんは残るように」
 担任に残された理由は明らかだった。害虫ちゃんと揉めていることだ。揉めているというか、一方的にいじめられていた。月明ちゃんと喋っていると睨まれるし、いつも月明ちゃんと一緒に帰っていたのに、害虫ちゃんがその取り巻きと月明ちゃんで帰るせいで、そして私を拒絶するので、私は最近登下校も休み時間も一人で過ごしている。月明ちゃんと私が仲がいいのが気に食わないらしい。だけど私は悪くないと思う。月明ちゃんと仲がいいのは、別に私のわがままでそうしているわけではないから。あなたが月明ちゃんといられないのは、あなたがあの子と帰り道が違うし、二年生からお互いの家に行ったり、遊びに行ったりしていないからやん、と私は思う。
 教室に残された三人には気まずい空気が流れた。
「—————もう、話はわかってくれてるとは思うんだけど。先生にこのことを話してくれたのは私ちゃんでね。私ちゃんは、どうして無視されるのかを気にしているのよ。害虫ちゃん。まずはそこを教えてくれるかしら」
 なんでかなんてわかってる。でもこういうように言っておく。そうすることで私は一方的にいじめられる側にまわれる。私はそこに細心の注意を払った。
「えー、それはあ、いつも月明ちゃんといるからで~……」
 害虫ちゃんはぼそぼそと下を向きながら言った。
「そう。先生もね、小学生のときこういう人間関係でいろいろ揉めていたんだけど、あのときは先生もこういう問題に無関心で、だから(随分長い回想)まあこれが先生の解決策だったわけ。三人で遊んだらいいんじゃないかと思うんだけど」
 ああくそ、こういう話にしやがった。別に私は害虫ちゃんが好きじゃない。害虫ちゃんも私を好きじゃない。こいつ結構長い過去編の回想に入った癖にこんな提案かよ、と思う。こんな風に言われれば私と途中の回想の話で自分が責められてるような気持ちになったらしい泣き出した害虫ちゃんは
「仲直りします」
 という他なかった。
「そう! それがいいわ! じゃあ早速、今日三人で帰るといいわ、じゃあね、みんなさようなら」
 とりあえず三人で帰った。気まずさはない。その日以来睨まれることはなかった。まるで何もなかったみたいだ。これではむしろ私が悪いように思われる。私が一方的に害虫ちゃんを嫌っているみたいだ。
 月明ちゃんとも話が合わなくなっているような気がした。害虫ちゃんに染められているような、そんな気がした。私とだけといてくれたときは私の知らないアイドルの話や、ファッションの話はしなかった。なんとなく会いづらくなってしまった。結局私は、児童会の仕事を言い訳に月明ちゃんとも害虫ちゃんとも距離を置くようになった。

 このようなことがあったために私は本格的に孤立した。一人の時間は決して嫌いな方ではない。害虫に気を使って毎日のように精神的に消耗することを考えたらこのように一人で過ごす方が楽しいに決まっている。私は大量に余した自分の時間を本を読むことに使うようになった。星や昆虫、その他雑学の本は私を孤独感から解放した。人間社会と極端に単位の違う世界に興味を持った。どこまでも小さい昆虫の世界も、どこまでも大きい宇宙の世界も人間的な常識がなに一つ通用しない。多分そういうものが好きだったんだと思う。しかしそういう世界の面白さは共感されるようなものではない。害虫のせいでうまれた月明との軋轢はそういう私の趣向によるものなんだと思い込んだ。そうして逃避した。向き合うべき月明からも私は逃げていた。
 その頃からだ。私は外面の自分と内面の自分をはっきり分けて考えるようになった。外面の私は児童会の仕事をこなし、先生にほどほどに気に入られ、月明ちゃん以外の友達とも仲良くできるし、人間的な欠損をないように振る舞う。その一方で、内面では月明ちゃんへの独占欲に満ちて、しかしそれを伝える勇気もなく行動もしない小心者で、そのくせ自分はどこか特別であるという過大な自己評価にまみれていた。
 
「私ちゃんってさ、ほんといつも本読んでるよなー、何読んでるん」
 月明でも害虫でもないクラスの女子。図書室で催し事があるときなんかは教室で本を読むのだが、そういうときはこのように話しかけられたりもするのだ。今日は雨が降っていて彼女にとっては暇だったのだろう。クラスの女子の周りには、普段ドッチボールで遊んでいる男女混合のグループの人たちもいた。
「宇宙のひみつってやつ。漫画やで」
「ええーでも絶対難しそうなやつやん、すご」
「そんなことないって。読んでみーや」
 私は彼女に漫画本を渡す。彼女は本を手に取り、パラパラとページをめくる。
「無理、わからん笑私ちゃんすごいわ」
「お前はアホやから分からんやろ」
「じゃああんた読んでみーな」
「えー東の空に浮かぶのは餃子―、その左にあるのはヤクザでー」
「しょうもな!」
 笑い声。私も一緒に笑う。笑いながら何が面白かったか考える。ああ、ダジャレか! と気づく。気づいたときには、ひとしきり笑いの渦も収まりかけていた。複数人の話にはときどき、いやよくついて行けない。皆賢いなー、とよく思う。皆の話についていけないから本ばかり読んでしまう。この人たちから話し方を学べないかとぼんやり観察してみる。
「きゃあああああああ!!」
 突然教室に女子の悲鳴が響き渡った。なにごとかと全員がそちらの方をみる。
「どうしたん!?」
 クラスの男子が悲鳴を上げた女子の方へ近づく。確かあの男子はあの女子のことが好きって噂、あったっけ。周りの男子たちの顔をみてみるとなんだかにやにやしている。そういうことか、と察する。
「ナメクジが! 壁に! 気持ち悪い!」
 なんだそんなことかよ、という男子たちの表情。女子たちの悲鳴は共鳴して大きくなる。
「え! ナメクジ!?」
「やだー。気持ち悪い!」
「見たくないーーー!」
 女子が我が我がと騒いで男子が黙ってるクラスの有様は蛙の逆だなとかなんとか私は考えていた。
「うるせーなあ、ただのナメクジやろ、別に毒もねーしええやん」
「無理! 気持ち悪いもん!そんなんいうんやったらこれ外にやってよ!」
「ええ、めんどくせ~……」
「だって~……え!? 私ちゃん!?」
「え、なに」
「お前、手づかみってマジかよ」
「いや、だって毒ないやん、放り投げてきたらええんやろ?」
 コクコクと頷く女子。私は廊下に出て窓を開けてそこから放るフリをして壁につける。そのまま手を洗って、教室に戻った。ナメクジは捨てたよ、という意味で私は両手をひらひらさせながら女子をみる。
「わー、ありがとー、え、すごいねー、私ああいうのほんとだめだもん……」
「全然大丈夫だけど……」
「さすが! ナメクジ女だな!」
そういったのはクラスのリーダー的存在の男子だった。
「え」
 別にナメクジとかなんかすごく嫌なニックネームだなそれ。だってお前前言ってただろ? とリーダー男子は続ける。
「家にナメクジいっぱいいるってさ、だから処理にも慣れてるんだろ、しかもほら愛があふれて前そういう本読んでたやん、ナメクジ本」
 確かにうちの庭は日陰が多く、そのためにナメクジが集まりやすく、梅雨の時期には楠十匹のナメクジと朝から挨拶することになる。でもナメクジの本なんて読んでない。なんだそれ。
「読んでないわ、何、ナメクジ本って」
「ええー、あれなんだっけ海のナメクジ」
「ウミウシか!!!」
「それそれ! ほら読んでるやん!」
「いや、あれナメクジじゃないよ、科が全然違うもん」
「カ……? ま、でも似たようなもんだろ」
「全然違うんだけど……」
「そうそう! てかひどすぎー、女の子に向かってナメクジとか!」
「そうだよー、謝りなよー」
「気にしなくていいから! 小学五年生の男の子なんてまだガキでなんもわかってないんやから!」
 別にナメクジ女呼ばわりされたことなんてもはやどうでもよくて、むしろナメクジとウミウシを同等に語られていることの方が私にとっては問題なんだけど、と思いながら、その場に合わせて困ったような、やりすごすような苦笑いをした。
 そのときなんとなく視線を感じた気がした。T君と目が合う。そういえばさっきから話に入ってこない。なんだろう、話に入りたいけど入れないとか? 話しかけた方がいいのだろうか。

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