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「もうすぐ50歳」ビビります。#3

50歳って何ですか?\今の私ができるまで/


3月のある日、私は夫の待つローマへ旅立った。

夫は、その一年前から出張ベースで行き来しながら仕事をしており、ローマ滞在中は郊外の近代的なマンションで暮らしていた。

滞在期間は1、2年かも知れないし、ビジネスが順調に進めば殆ど永住かも知れないと聞かされており、数箱の荷物を送った他、私一人で夫のと私のと2つ、ゴルフバッグをローマに持ち込んだ。

余談だけれど、私はイギリスにも自分のゴルフバッグを持って行っていた。
なぜならば、そこにゴルフ場があるから!
パブリックのゴルフ場は、学生料金が設定されており、留学生の私も格安でプレーができた。確か当時は数ポンドでプレーができたと思う。

私たちの当時の趣味はゴルフで、週末はラウンドか練習。
他にもっとやることがあるのでは?と言いたくなるほどゴルフ漬けだった。
ローマ郊外をドライブしてもゴルフ場らしきものは見たことがなかったけれど、夫の情報を信じてゴルフ道具を持ち込んだはいいが、結局帰国までクラブを握ることは一度もなかった。

一先ず入籍して渡伊した私たちは、ローマで挙式することになっていた。
当時は「ジミ婚」という言葉が生まれ、バブル疲れした人々が、レストランなどで家族や友人だけの少人数で小ぢんまりした挙式をするのが流行った時代。

私も、立派な会場で行われる派手な演出に興醒めしている感があり、家族だけでローマで挙式することに決めた。
一人っ子である夫の両親と、私の方は両親と叔父叔母たち、計8名の親族がローマに集合した。

叔父叔母はよく海外旅行をしていたものの、いつもツアーだったから、怖くて夜の街を出歩いたことはないそうだ。
私たちは、私の両親と叔父叔母たちを連れ出した。夕食には住んでいたマンションの下の階にあるお気に入りの小さなピッツェリアでピザを食べた。
デザートにジェラートをキャッキャ言いながら選び、食べながら、フォロロマーノを散歩し、夜のコロッセオを見に行った。

叔父叔母たちは、可愛い少年少女のようにはしゃぎ、ジェラート片手に、夜の街を歩いた。こんな風に自由に歩くのは初めただ!と喜んだ。
家族が海外の地で一堂に会し、こんな時間を共有するなんて、後にも先にも、あの時しかなかったと思う。
とても素敵な時間、大切な思い出。


私たちは郊外のマンションから、歴史地区にある500年前に建てられた小さな石造りのマンションに引っ越した。

中世の時代に建てられた5階建てのマンションは、エレベーターが無く、階段のステップは真ん中辺りが窪んでいた。
玄関のドアは重たい木と黒塗りの鉄でできており、昔ながらの可愛い形の鍵穴と鍵。飾り気のない古びた風貌の石造りの建物の内装は、大家さんの好みで、アンティークとモダンが融合したお洒落なものにリノベートされていた。

テラコッタ色のタイルと白い壁、天井にはダークな木の棧が昔のままの姿で剥き出しになっている。
リビングの真ん中には、アンティークのトランクの上に大きなアンティークの金縁の鏡が置かれ、大家さん拘りのアンティークのランプに照らされていた。

日本では決して味わえない空間を、私は一目で気に入った。
ただ、電気や水道、トイレ、電話線といった文明の力にはご多聞に漏れず弱くて、日本じゃあり得ないほど不便極まりなく、工事を頼んでもいつになるのやらわからない、しかしながら、そんな不便さもご愛嬌と思えるくらいお気に入りの空間だった。

夫が仕事をしている間、私はイタリア語教室に通うフルタイムの学生になった。

学校が終わると、大好きな遺跡や公園を散歩するのが楽しみだった。
ボルゲーゼ公園やフォロロマーノを歩き、ベンチに座って本を読み、ぼーっとする時間が何とも贅沢この上ない。

地球の歩き方に載っている遺跡を、小さなものまで一つずつ訪ねて歩いた。
中でも休日に行くアッピア街道は特別で、窪んだ石畳やマイルストーン、昔の面影が残るものを見付けるとワクワクした。ここをトーガを着た人たちや馬車が行き来していたのかと想像しながら、遥か昔に思いを馳せた。
遺跡が点在するエリアに住んでいることを、幸運に思い、ローマでの生活の全てを楽しんだ。


お洒落してオペラに出掛け、オペラ鑑賞をしたり、セリエAで活躍していたナカムラやナカタを観に行ったり、当時世界中のあちこちで行われていた反戦のデモに参加して、虹色の反戦旗をマンションの部屋の外に掲げたりした。

歩けば直ぐそこの教会にカラバッジョの絵があり、広場にはベルニーニの美しい噴水があった。
歴史、文化、芸術が調和したこの賑やかな街が大好きだった。


夫はよくイタリア国内でも出張をしたので、週末になると会いに行き、出張先を拠点に街を散策した。

トリノやボローニャ、ミラノなど、北のエリアが多かったが、アドリア海を臨むぺスカーラにもよく行った。

ペスカーラは特別で、アグリツーリズモを行っている農家から、毎回夫は美味しい無添加のワインやオリーブをお土産に持って帰って来るので、私は楽しみで仕方なかった。
5本持ち帰ると、夫がペスカーラで仕事をしている間に私があっと言う間に全部飲み干すから、夫は毎回何本ものワインをお土産に持ち帰った。

夫の居ないローマでの一人暮らしは気ままだけれど少し寂しくて、まだ明るい夕方からワインを開けた。そして少なくとも1本は空けた。いや2本かな。


永住も視野に入れてローマ暮らしを楽しんでいた私たちに、それは突然やって来た。
まさかの夢のような生活の終了宣告。
夫の会社の事業に暗雲が垂れ込め、このまま継続することが難しくなったという。厳密には、夫の会社ではなく取引先のお世話になっていた会社側の雲行きが怪しくなり、強制終了となったのだった。

ローマ暮らしを始めて2年目のことだった。

ローマから足を伸ばし、海外旅行も楽しんだが、イタリア生活の終わりが決まり、私たちが最後に選んだ旅行先はエジプトだった。

夫が仕事をしている間、私は足繁く旅行会社に通いパンフレットを集めた。イタリア語は読めば大体理解できると言ったレベルだが、英語は全く問題がないので、現地の旅行会社を使うことに何の抵抗もなかった。

自宅に帰ってパンフレットを吟味し、7日間のナイル川クルーズツアーに決めた。
イタリアの旅行会社を使ってエジプトへ行く日本人は余程珍しいらしく、ほぼイタリア人で占める飛行機の中で異物である私たちは目立ち、周囲をざわつかせた。そして、あちこちから声を掛けられた。

ナイル川は反対岸が見えないほど大きく、まるで海のようだった。
アスワンからアレクサンドリアにかけてクルーズしながら、アブシンベル、王家の谷、ルクソールの神殿、ピラミッド、スフィンクス、エジプト考古学博物館などを訪ねた。

むかし世界史で習った世界の古代文明の一つ、エジプト文明をこの目で見ることができた。全てが大きく圧巻で、昔の人々の知恵と技術に感動した。


イタリア国内最後の旅は、南へ。

アルベルベッロを始めとしたプーリア地方を回った。
アルベルベッロでは、あの特徴的な白い石造りの建物トゥルッリに泊まることのできるホテルがあり、楽しみで2泊も予約をしてしまった。
しかし、泊まってみると石造りの家は想像以上に寒すぎた。暖房が効かず、余りの寒さに耐えられず、一泊で断念した覚えがある。

翌日は、青の洞窟を訪れた。
誰もが知る観光スポットほど、いつでも行かれると後回しなりがちだが、こちらも最後の最後にやっと訪れることができた。
天候にも穏やかな波にも恵まれ、心許ないボートに乗り込み、美しい青の洞窟の姿を見ることができた。

プーリアは、ブロッコリーとサルシッチャのオレキエッテが有名で絶品!
私の大好物。これを食べに行ったと言っても過言ではない。
帰りにはオリーブオイルやワインを沢山買って帰ったのだけれど、あっと言う間に消費したのは想像に難くないだろう。


夫と、またローマに住む友人たちと、好きなレストランやカフェ、バールなどを連日巡って食べ納めし、私たちのローマ暮らしは終わってしまった。

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