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おひとり様の歴史。

私は、一人で色んな所に行くことができる。
映画、旅行、ライブ・コンサート・観劇、カラオケ、カフェ・ご飯、ホテルステイ、アートのワークショップ、美術館、スーパー銭湯、競馬…。いつぞやは着物を着て、伊勢神宮を散策したこともある。

ひとりの時間は自由だし、ぼーっとできたり没頭できたりする。一緒にいる人に気を遣わず、思い付きで行動できる。自分と向き合うことで、自らの本音を聞くことができる。リセットできて、何かするための元気が出てくる。

私にとって大切な時間。

そんな私だが、以前はひとりになれない人間だと思っていた。

大学生から20代の後半までは誰かといることが多かったし、一人の時間はどこか持て余していた。授業がない空き時間はずーっとサークルの部室にいて、毎日のようにみんなで遊んでいた。社会人になってからは、平日も休日なく飲み会ばっかりしていた。

それよりも前はどうだったろうか。

高校生のころ。
部活がない日や引退してからはひとりで街の喫茶店に行くことがあった。昔ながらのお店。カウンターやテーブル、椅子は木製で、温かみを感じる空間。棚には雑誌や漫画が置いてある。カウンターにはサイフォンと、天井に届くほど大きな枝が飾ってあった。コーヒーが自慢なのは勿論のこと(その頃の私はブラックコーヒーが飲めなかったけど、コーヒーの香りは好きだった)、サンドイッチやナポリタンなど、軽食もおいしかった。そこにいるひとたちは、おのおの自由に過ごす。居心地がよくて、ずっといたくなる。
元々は父が通っていて、お店のおばちゃんが顔を覚えていてくれてカフェオレや昆布茶をサービスしてくれた。喫茶店にいる女子高生なんて、当時はきっと浮いていたよなぁ、と苦笑する。

中学生のころは、部活の後学校近くの公民館へ向かった。母が仕事終わりに迎えに来るまでの2~3時間。図書室で見つけた面白そうな本を、ロビーでずっと読んでいた。この頃はライトノベルや村上龍などやや過激な内容のものを好んで読んでいたことを記憶している。

小学校のころは、田舎なので近所に友達の家がなくて、ひとりで家に帰り遊んでいた。田んぼのあぜ道を全力で駆け抜けたり、田んぼに放たれた鴨をずっと見ていたり。図書室で借りた本を読みながら帰る日もあった(この頃はホラーやおばけの話が好きだったな)。通常は徒歩で50分程度のところ、そんなふうにだらだら寄り道して1時間半くらいかかることもあった。家に着いたら庭で葉っぱや土を使っておままごと(?)をしたり。お花を摘んだりカエルやザリガニを捕まえたり。

あれ、子どものころもおひとり様を満喫していたな。
でも今とは感覚が違うのはなんでだろうと考えた。

なにより親が厳しかった。学校の先生も怒るし理不尽な決まり事が多かった。そもそも集団行動が苦手だった。全校集会だけでなく教室でもくらくらしてしまうことがあり、よく保健室に行っていた。本当はかなり繊細なのに、親や先生の言う事やみんなに合わせなきゃいけないことが辛くてたまらなかった。友達はいたけれど、心からわかり合うことはなかったと思う。

ずっと、家でも外でも何だか居心地が悪かった。
一人の時間は、やむを得ず逃げ込んだ先という感覚だったかも。

ただ、誰かといるのも辛いけれど、自分のことも嫌いだった。ずっとわたしを監視する私がいて、何かあると自分を厳しく責めていた。本当はしんどいのに、「そんなのダメだ」「甘えるな」と自分の本音を無視し続けた。

目的地に自分なりのペースや方法で行くのは結構得意。でも、目的地を決めることが苦手だった。

親や学校の言うことに従っていれば何とかなった高校までとは異なり、主体性を求められる大学入学以降は自分で選択する必要が出てくる。私は自分で選ぶという経験が殆どなかったから不安だし怖かった。だから、ひとりになれず正解を求めて今度は他者に接近しすぎてしまったのだと思う。

そんなふうに過ごしてきた結果、5年くらい前、28歳の時にキャパオーバーをして仕事を休職した。

自分は何が好きで、何が嫌いなのか。何を良しとして、何を悪とするのか。何をしたいのか。全く分からなくなってしまった。

その時に「このままでは私の人生が立ち行かなくなる」という直感があり、自分を変えようと決意した。

そこから回復していくために、自分なりに色んなことをしてきた。

そのうちの一つが、冒頭にあげたようなひとり行動である。「やってみたい」「気になる」と思ったら挑戦した。

初めてひとり旅をした帰り道、新幹線の窓外を眺めながら「私は自分をどこへでも連れていけるんだ。じぶんを閉じ込めていたのは私だったんだ」と感慨深い気持ちになったことを今でも覚えている。

この文章を書く過程で気づいたことは、人を極端に避けてしまうのも、人に極端に近づきすぎてしまうのも、どちらも根っこは同じなのかもしれないということ。自分を認められないから、自分の軸がないからどちらかに振れてしまう。

仕事に復帰したのは、休んでから8ヶ月後だった。
休み中も復職したあとも、何度も自分と向き合ってきた。

最初は見たくもない自分が出てきて吐きそうなくらい嫌悪感があった。慣れてきて最近いい感じだな、と思うとまたちょっとした出来事がきっかけでイヤな自分と出会う、落ち込む。その繰り返し。色んな本を読んで、実践して。3歩進んで2歩下がれればまだいいほうで、1歩進んで50歩下がる位の気分になることの方が多かったかもしれない。

わたしという存在を丸ごと受け入れ、ゆるすことができたと感じたのは本当に最近のこと(完全はないのだけど、自分的に一区切りついた感じ)。そうしたら、自分ってそんな悪い存在じゃないし、周りの人だって基本的にみんな優しいと気付くことができた。



自分を受け入れてあげること。自分をできるだけ笑顔にしてあげること。そして、自分がどうしたいかを丁寧に拾って、それらを叶えてあげること。

答えは、自分の中にある。今見えなかったとしても、それはきっとネガティブな出来事があって靄がかかってしまっているだけ。

大丈夫、きっと見つかる。

今なら自分で目的地を決めて、自分らしく向かうことができる。
「やりたい」と思った次の瞬間には動き出していることが多い。
それはとても楽しくて、豊かだ。

これまで書いてきたとおり、一人でいることは確かに自由でたのしい。でも「誰かと一緒にいるのもいいな」と思えるようになってきた。

その理由は、一緒にいると心が安らぎ元気になる友人たちと出会えたからだと思う。時々、「どうしてこんなに尽くしてくれるのだろう?」と疑問に思うくらい、彼らはとんでもなく優しい。

ふとした時に、「あのひとは元気かな?」と連絡をする。LINEや直接会って他愛のない話をする。あの頃みたいに相手とずっと一緒にいられなくても問題はない。思いを馳せる相手、楽しい時間を一緒に過ごせる相手がいることはとても幸せだ。

今は、ひとりも誰かと一緒もどちらも選択できる余裕が出てきた。
前は自分が嫌いだったし自信もなかったから、極端な選択を取ることしかできなくてそれがしんどかった。

無理して両者のバランスを取る必要もなく、その時々に自由に選択すればいい。その感覚が掴めるようになって、だいぶラクに生きられるようになってきた。



パートナーシップについて考えることもある。
実は9年間、恋人がいない(これ書いて自分でもビックリした)。好きな人は割と途切れずにいたけれど、恋愛は嫌な気持ちになることが多くうまくいかなかった。

でも、もうそんな関係は嫌だ(魂の叫び)!!

そんな私の理想は(そう、理想です。でも、想像できたなら、きっと叶えられると信じている)。お互いのいい部分も至らない部分も分け合って、互いの人生をよりよい方向へ進めていくことができる。危機が来ても、一緒に乗り越えられる。一緒に何か新しいものを生み出せる。

そんな関係を築けたらもっと幸せを感じられるだろうなぁ。
たぶん、エポック。

とりあえず、次は初ひとりアフタヌーンティーと、初ひとり海外旅行を計画しつつ、新たな歴史が刻まれる時を待っている。


Photo by Aiony Haust

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