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ざーさんってどんな人?

ハイ、写真の通り海好きな趣味を生きがいにして残りの人生設計をしている52歳です。

はじめまして。

正直SNSは好きではありませんし自分の事を誰かに伝えるのはあまり得意ではありません。

このnoteも知り合いのZOOM会議で使用する為だけに作っているのでたくさんの人に読んで欲しいとも思っていません。

50歳を迎えるにあたり自分の人生棚卸しをしたかったのとこれからの半生をどういう風に生きていくのか備忘録として残しておくためだけのものです。

正直仕事も中途半端です。趣味のためにやっていると言っても過言ではありません。たまたまラッキーが続いて今まで生きてこられたようなもので、これからこのラッキーが続く保証もありません。

しかしちょっとだけ真面目に人生設計に取り組んだおかげで、今までの過去とこれからの未来に関してかなり楽観的です。根っからのOptimistです。

過去を語るのはあまり意味のないことだけれど、ここで少し振り返ってみて読んでいる方の参考にでもなれば幸いです。

未来の人生設計に関しては自分でも感心するくらい面白そうです。もしかするとあと30年くらい生きるのではちょっと時間が足りないかもしれません。

1970年8月23日 愛知県蒲郡市(がまごおりし)にて誕生

愛知県蒲郡市という街で生まれたことにとても感謝しています。両親というより静岡県から移住してきた祖父母に感謝しなければいけません。

なぜなら今までの半生で夢中になった海遊び(ヨットレースや釣り)をする広大なフィールドが最も身近にあった街だったからです。

人口8万人、観光地温泉とみかんだけが特産の小さな街が変貌を遂げ、1980年代からsailing city(ヨットの街)を謳いだした頃に多感な青春時代を過ごせたことが今の原点になりました。

保育園、小学校、中学校、高校までこんな田舎町で育ったことは昔コンプレックスでしかなかったんですが、今東京に住んでみてわかったのは都会もいいけど田舎最高!もっと言うと海辺の最高な環境が小さい頃にあったという事実です。

幼少期、青年期の環境は非常に大事なことだなと感じています。ヨット歴は約40年、昨年から始めた船釣りでしたが小さい頃から陸っぱりで海釣りをやっていたので全く抵抗なく始められ、しかも海遊びの幅が一気に拡がりました。

勉強熱心でもなく、本が好きだったわけでもなく、インターネットもなかった10代の田舎暮らしでは入ってくる情報も些細なものでしたから、今思うと情報をシャットダウンし続ける人生も選択できたのかもしれません。海という自然に身を任せるがままの人生も、もしかすると良かったのかもしれません。

ところが人間というのは不思議なもので、自分が得た情報や体験がその後の人生観を大きく変えることになります。人付き合いもそうですし旅行や購買などで価値観が一変することはよくある話です。

そういう意味では田舎で海遊びに没頭できたことや、既存の学校教育にいささか疑問を持った学生時代は僕にとっての人間形成に一役買ってくれたことになります。

高校まで蒲郡を出たことがない人間が東京の大学受験に失敗し、浪人を経て東京という都会に向かえず中途半端な中規模都市名古屋で学生時代を始めるにあたって一流のサラリーマンになることを諦め、起業を考えると共に大学体育会ヨット部に籍を置くことになるのが、今までの人生の価値観の大部分を占めることになったのですから。

いや、学生時代のヨットも中途半端なものであったかもしれません。今でも付き合いがある川瀬くんという後輩スキッパーに恵まれ、レース好きだった(当時は自動車レースでしたが)性分も幸いしてヨットレースに夢中になれました。しかも出るレース出るレース全てトップフィニッシュできたわけですから、練習嫌いだった僕でさえ否が応でも勝ちたい意欲が湧きました。

しかし大学の授業は退屈でした。自分にとって必要なものなのか、社会に出てから使える知識なのかを考えたときに選んだ選択肢は

「ヨット部は卒業するけど大学は要らない」

という選択肢でした。当然その後の人生が茨の道になることは理解していましたし、普通の人生は歩めないだろうなと想像できました。ただ大学時代にたくさんの本に出会えたこと、インターネット勃興期だったことが今思うと救いだったかもしれません。村上龍を読み耽っていたのがビジネス本を読み漁ることに変わり、Windows3.1が入ったパソコンにモデムをつけてインターネットブラウザから見えた世界は僕にとっての価値観が変わる出来事でした。

26歳、初めての海外旅行がアメリカ東海岸、ニューヨークとボストンの間に位置するロードアイランド州ニューポートで行われた

「Block island international yacht race」でした。写真は以下の通りです。26歳で初めて訪れた海外がアメリカ東海岸屈指の超高級避暑地ニューポート、まあヨットらしいといえばヨットらしいですがここで価値観が一変しました。

どうやったらこんな世界観でヨットレースを続けられるだろう?

そもそもアメリカ人の富裕層ってどんな人たちなんだろう?

少しでもこういう生活に近づくためには自分で起業するしか方法がない!

お金のことを学ぶためにも昔憧れだった金融業界に足を踏み入れよう!

こんな下心丸出しの甘い考えから起業に至ってます。ハイ、改めて自分勝手で趣味でしか生きられない人生を送っているんだなと再確認出来ました。

17歳の時に付き合っていた20歳の女性と見た映画がオリバーストーン監督の「Wall street」でした。不思議と金融マンに憧れました。その思いが日に日に増した頃、大学を中退してヨット遊びに夢中になりながら必死に生きていた僕に若干の光が当たりました。外資系生命保険会社への転職です。

証券と保険の違いはあったものの、金融知識を学ぶのには絶好の機会でした。フルコミッション営業も将来起業するにあたり必ず必要なスキルだと思えました。会計の知識は学生時代に税理士事務所で2ヶ月だけアルバイトして簿記3級の知識は持ってました。(税理士から向いてないと言われクビになりましたが笑)

唯一残念だなと思ったのは保険業界は業法に守られすぎていて、インターネットの知識があまり活かせなかったことです。未だに対面募集を原則にしてます。時代遅れの業界です。まあこれを変えてみようと今頑張っているのですが..

保険会社にはサラリーマンとして4年間在籍しました。ヨットレースで鍛えられた負けず嫌いの性分とお客様に恵まれ、小さな会社ではありましたがトップを取ることもできました。金融知識も十分すぎるほど得ることができました。営業力は抜群に身につきました。その頃結婚もし、子供もできたのですが正直サラリーマンという立場に辟易していました。自分ならできる、会社を作ればあのニューポートで見た富裕層に近づける、それだけの思いで19歳の時に掲げた起業の道へ進むことになります。

2002年3月(31歳) 起業へ

起業してからの直後、正直やることがありませんでした。保険業界からの独立は保険代理店しか選択肢が無く、そうしないと今まで頂いていた手数料売上が保険会社のものになってしまうからです。全く別業界の独立も考えましたが現実的ではありませんでした。それくらい当時の起業はハードルが高いものでした。

有限会社であれば300万、株式会社にするためには1,000万円もの資本金が必要でした。ハードルが高いため安易な起業ができない分、当時は個人事業主として独立する保険マンがほとんどでした。

乗合募集代理店として各社の保険比較をしながら募集をかける代理店が出始めた頃でしたが、僕の元いた会社はそれを許しませんでした。代理店というのはどこまでも弱い立場だと言うことをこの時悟りました。(これに懲りず事業売却の際にも保険会社との戦いは続きました)

わずかな売上を維持するために専業代理店という非常に弱い立場を続けなければならない保険会社の仕組みに翻弄され、今のような代理店の発言力を持てるだけの力もなかった僕の会社は、会社の看板もなくジリ貧になりました。

「次の手を打つために借入を起こして新規事業を模索しよう」

この時点で経営者としての考え方が間違っているのですが、当時は生き残るために必死でした。しかも金融知識が豊富で口が達者、自分で経営計画書を作って財務的に説明するくらいお手のものでした。

初めての借入、国民生活金融公庫から500万円

昨今流行ったエクイティファイナンスは当時まだ非常にレアで、一般的ではありませんでした。今であれば事業計画書と流ちょうなプレゼンでエンジェルやVC廻りをしていたかもしれません。当時できたのは銀行借入の前に一般的とされていた国金で、創業支援融資ではなく生活関連融資でした。国金独自のフォーマットで作成する事業計画書と、個人事業主としてどれくらいのボリュームで資金管理をしているか、現金をいくら持っているかなど通帳のコピーが必要でした。このあたりは今でも変わりませんし創業支援融資でなければ売上ゼロで融資してもらえることはなかったと思います。ただ、今現在の国金融資と1点だけ違うことがありました。それは...

「第三者保証として身内以外の連帯保証人を立てること」でした。

無担保で融資を受けるのは有難い事ですが、この第三者連帯保証が後々僕の首を絞める非情な展開になっていくことは想像もつきませんでした。それくらい当時の第三者保証が当たり前の世界だったのです。

知り合いに連帯保証人になってもらう厳しさ

ごくごく普通の人生を歩んでいる知人友人にいきなり「経営に必要な資金を借り入れるのに連帯保証人になってくれないか?」と頼むことがどれだけハードルが高いことかわかっていただけますよね?普通断りますよね。この手の話は。でも当時はこれが普通だったんです。国金だけでなく銀行借入と呼ばれるものほとんどにこの第三者保証が必要でした。身内でも連帯保証のハンコは押すなと言われて久しい昨今、身内以外の連帯保証人を連れてきてハンコ押させないと借入ができないなんて凄い時代だったと思いませんか?

でも当時は必死で、自分勝手でしたがどうしても借入をしないことには次の事業構築がないと思っていたので、頼みました。拝み倒しました。保険会社時代に取引のあった某百貨店の外商担当者のDさんに。Dさんは少しヤンチャで某百貨店の外商担当の中でも驚異的な売上を上げる営業担当者でした。僕が保険会社サラリーマン時代、彼とはバーター取引的なお付き合いもしました。彼の顧客を紹介してもらう代わりに、彼の外商売上を上げるためのお付き合いもいっぱいしました。高価なペルシャ絨毯も買いました。高級スーツも買いました。彼の取引があった自動車販売会社の社長から新車のベンツも買いました。危険な香りのする街金社長を紹介してもらった代わりに必要のない高金利の借入も50万円だけしました。(これには参りました)でもそういう時代だったんです。お互いの売上を伸ばすためにできることは何でもやりました。だからこそ僕が独立して国金から事業融資を受ける際の第三者保証も、Dさんは若干のためらいはあったものの快諾してくれました。

「これで新事業を立ち上げることができる」そう思いました。自己資金と個人事業主としての借入500万円を原資に、有限会社を立ち上げることができました。法人格になる、というのが夢だった僕は浅はかでしたが必ず成功できると思っていました。保険ビジネスは続けるつもりでいたものの、個人事業主から法人格へ変更する際、個人事業主以外では継続を認めないという保険会社の方針から泣く泣く個人代理店を廃業せざるをえませんでした。

借金人生のはじまり

借入をする事に抵抗はありませんでした。自分なら返せる、営業力もある、金融知識もある、新規顧客開拓さえできればどんな事業でも成功できる、と。今思えば全くもって過信しかありません。自分を過信する、自信満々の経営者(のふり)でした。経営理念もなければ事業モデルを選定するビジネス戦略も知りませんでした。もちろんMBAなど取る気もありませんでしたし(いや大学中退ですから修士は取れません笑)そもそも学歴社会からドロップアウトした人間が自分の能力だけで社会を生き抜いていこうというのですから相当無理がありました。自分のまわりで経営のことを教えてくれる人もいませんでしたし、唯一亡くなった祖父から聞いていた実家がやっていたプロパンガスビジネスが上手くいった話くらいで、保険会社時代に取引のあった経営者も何故それが上手くいっているのかわかりませんでした。(続く)



P.S.

続きはゆっくり書いていきます。日々更新できるかわかりませんができるだけ頑張ってみようかと。

SNS嫌いですがTwitterだけは毎日チェックしてるのでそちらも良ければ是非ご覧ください。(現在メイン垢は永久凍結BAN真っ最中泣)
サブ垢は生きてますのでそちらへどうぞ。



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