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「対話」の先に待っていたのは両手いっぱいのハグだった

なんでわかってくれないの。

なんでうまく伝わらないの。


歯痒くて、悔しくて、ぽろりと涙が出てしまう。


そんな経験を一度や二度はしたことがあるんじゃないでしょうか?


人と人との間で交わされる「対話」。


そんな「対話」について考えるきっかけとなった「ダイアログ・イン・サイレンス」での経験を通してのお話を、ここではシェアさせてください。


そして、これを読んで下さっている方は

「対話ってなんだろう?」

ということを考えながら、読み進めてもらえると嬉しいです^^


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先日、東京港区にあるダイアログミュージアム「対話の森」の中の一つ「ダイアログ・イン・サイレンス」に足を運びました。

「対話の森」はその名の通り「対話」がテーマになった体験型ミュージアムで、視覚や聴覚に頼らずに、「見えない」や「聞こえない」非日常の空間で、人との対話を楽しみながら多様性に触れることができるといったもの。

今回私が参加した「ダイアログ・イン・サイレンス」は、音のない世界で、言葉の壁を超えた対話を楽しむエンターテイメント。

参加者複数人が1グループとなり、聴覚障害を持つスタッフがアテンドをして下さりながら、聞こえない・話せない世界で、言語を超えた対話を楽しめるというものでした。

ダイアログ・イン・サイレンスの詳細はこちら⇩


私は昨年の秋から手話を学ぶようになって、声を使わない対面のコミュニケーションをとる機会は度々ありました。でも、このミュージアム内では手話すらも禁止されていたので、果たしてどんな対話体験になるんだろう!?とドキドキの気持ちでいっぱいだったのです。


そもそも、ここに足を運ぶことになったのは、「ダイアログ・イン・サイレンス」の立ち上げに携わられた、私の言葉の師匠(勝手に言ってます笑)であるコピーライターの阿部広太郎さんから、大変光栄にも招待いただけることになり、「これはもう行かない理由がないよね!」と、直感で参加を決めたのでした。阿部さん、ありがとうございます...!!!


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さぁ、いよいよ体験!

(でもこれから体験する方もいらっしゃるので、ここでは詳細は伏せておきますね。是非ご自身の肌で体感してみてください...!)


普段コミュニケーションの手段として使っている「聞くこと」「話すこと」にさよならをして、部屋を移動しながら、いろんな角度から「対話」体験を重ねていきました。


そんな中で私が意識したことは、

とにかく丁寧に相手に意思のボールを渡すこと
丁寧に相手から意思のボールを受け取ること

これに全集中することでした...!


そうやって進めてると、

相手に受け取ってもらえるって、こんなにも嬉しいんだ!

相手から渡してもらえることや受け取れることって
こんなにも嬉しいんだ!

そんな気持ちでひたひたになったのです。


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対話とはなんだろう...?

このミュージアムを体験する前も、体験中も、そのあとも、私はずっとこれを考えていました。


ただ言葉を投げ合う「会話」とは違うものなんだよなぁ。

一方的ではないよね。相互にキャッチボールをする、そんな感じかな。

あ、矢印ってきっとお互いの方向を向いてるよね。心の矢印を向け合うことかなぁ。

そうやって心が近付き合うことなのかもしれない。


どれが正解とかどれが間違いといったものはない。

だけど自分なりの対話の定義を見つけたくて、うーんと考えたり、辞書を引いてみたり、ネット記事や他の人の定義を読んでみたりしてたんだ。


そんな時、ふと阿部さんの言葉を思い出した。


辞書を引く。
それから自分の経験という名の辞書を引く。


そうだ。そうだ。

自分の中で対話ができたと感じた時っていつだっただろう?


記憶を辿っていった時、一つの過去が顔を出してきた。
そして気づいたら、私の頬は少しだけ濡れていた。


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私には、自分の人生に大きな影響を与えた人が何人かいる。

そのうちの一人。

その人は、人生を変えるきっかけをくれ、人生で家族ほど大事なものはないってことを気づかせてくれて、見たこともない未来や世界を見せてくれた人だった。


私は少しでもその人に近付きたくて、認めてもらいたくて、我武者羅に動いた。でも自分の弱さの方が勝ってしまったり、どうしようもなく不安になったりなんかして、心と行動が一致しないことがたくさんあった。


その中で、近づけば近づくほど、一緒にいる時間が長くなればなるほど、「なんで分かってくれないんだ」「なんで欲しいと思ってる言葉をくれないんだ」とイライラの気持ちが募っていった。

そうして、その人から放たれた言葉の表面的な部分しか受け取れなくなり、その奥にある「心の種」まで想像することを怠っていった。心の余裕がなくなっていたんだと思う。


だけど、私がそっぽを向いてしまったり、心を閉ざそうとしたり、離れていこうとしても、その人は、ずっと私と向き合うことを諦めずにいてくれた。その度に私は大泣きしながら本音を話し、「梨沙だから話すけどさ」ってダメな部分も話してくれたりした。

そうやって話しあった後の別れ際には、両手いっぱいのハグをして「よし!がんばろうか!」ってまた、ニコニコの笑顔で進んでいけた。


心の扉にかけてる鍵を開けて相手を招き入れ、同じように相手も扉の向こう側に自分を入れてくれるような感覚。

心に触れるだけでもなくて、
握手をするだけでもなくて、
お互いが両手を広げて、ぎゅっと受け入れ「ハグ」をする。


これが私にとっての「対話ができた」瞬間だった。



伝えたいからこそ言葉にすべきこと

伝えたいからこそ言葉にすべきでないこと

どちらもあると思う。


だけど言語に依存することなく、その先の相手の「心の種」を想像して、丁寧に受け取ること、丁寧に渡すこと。

そして、自分も相手も許して、受け入れて、ハグをすること。

これが私にとっての対話の定義です。


あなたにとって「対話」とはなんですか?


そんなお話を、コーヒーを飲みながら、お酒を飲みながら、一緒にできたらいいなぁなんて思ってます。


そして話し終わった後は是非、両手いっぱいのハグをしませんか。

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