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「みんなここにいるよ」

遠く北の空から、今年も白鳥がやってきた。

ネットニュースも新聞も知らないであろう鳥たちは、野生のアンテナで感知した温暖化に従って南下するのを遅めている。
しかも渡って来たはずなのに、滞在中に一度も姿を見せないという日もあったらしい。
一方で他の河川には大軍でいたという情報もあるが、どうしたことだろう。

鳥たちのざわめき。
電波の外側では、囁かれているのかもしれない、今本当はどうなっているのか。

私たちときたらそれにちゃんと耳を傾けているだろうか。
変なものにばかり取り憑かれたようになって。
ちゃんと感じているだろうか。
川岸を歩いて、空を見上げて、言葉ではなく、空気を思い切り吸い込んで思い切り吐いているだろうか。
その時、チカチカと鮮やかに光が舞って、足の裏から湧きあがる土の熱脈を感じ取れているだろうか。

とにかく、この冬も白鳥がこの川へやって来て、今日も静かに川藻を食べるためにひっくり返っている。
パンなど投げてはいけない。
大きな声で呼びかけてもいけない。
本当の共存共生に、寄り添いの振りをしたありがた迷惑は御法度だ。



痺れる冷えた風と、冬を忘れかけた暖かすぎる太陽との間を、完全装備で歩く。

暖冬とはいえ大寒の頃の外を歩くには、ある程度の準備と思い切りが必要。
えいや!と散歩に出た清々しさ、よりかは暖かい部屋でぬくぬくする心地よさが勝ってしまう日々が続いていた。
歩くのは好きだが寒いのは苦手だ。
冬に、どうしても外に出たくなってびゅーんと飛び出していく時があるが、たいていは夕暮れに呼ばれるか、月や星が冴えて綺麗な夜。つまり寒いに決まっている時間なわけで。
やるべきことに縛られず昼間に出歩ける日に、北風でも吹き荒ぼうものなら、ガタガタと震える古い家の窓を横目にそっと外への扉にかけた手を引いてしまう。

一人が好きでも、籠りすぎるのは良くない。風通しをよくするのはどこにいようとも大切な行為だ。
けれど風のよく吹くこの辺りでは、冬はより一層寒さを肌で受け止めなければいけない。撫でるように刺す、柔らかく鋭く。

そんな寒い日が続いていたのだが、それはある晴れた土曜日のこと。
お世話になっているトマト農家さんのハウスに、頼んでおいたトマトを受け取りに行く予定で支度をしていたのだが、今日はやけに暖かい。
時計を見ればまだ時間はある。
幸いにも自転車で行こうと思っていたので、コートももこもこだし耳あてもマフラーも厚手の靴下も装着された完全装備ではないか。
思い立ったが吉日。
予定より少し早めに家を出て、歩いてハウス団地へ向かった。

突き抜ける青空に、ひたすらにまっすぐ伸びる田圃道。何度見てきた景色でも、何度でも胸が高鳴り足取りも軽くなる。
連なる電線を辿る私の視線には、それらはとても懐かしい居場所のようでそしてとても新しい冒険のようだ。
導かれるように、まっすぐ進んでいく。

大きなガラスハウスが見えてきた。
長く伸びて横たわり荘厳な城壁のようだ。冬の寒さから苗を守るように張り巡らされた薄乳白色のシートがガラスを覆うと、トマトの苗たちがすっくと立ち並んでいるのが透けて見える。
天辺に近づく太陽に照らし出されるその姿は、本当に美しい絵画のようだった。

待ち侘びた春の前で、すでに甘く瑞々しいトマトたちを受け取って、久しぶりの立ち話をお世話になった先代とその奥さんとする。
大好きな二人に遅ればせながらの新年のご挨拶をして、ハウスを出ようと思ったのだが。
ふと思い出して、白鳥はまだいますかねぇ?と先代に聞いてみた。

川と共に並走する土手の、裾野いっぱいに広がる田圃中にハウス団地はある。

トマトを収穫する時に必ず行う下っ葉をかく作業で、山のようにでる枝草を軽トラの荷台に積んでハウスから少し離れた土手際の捨て場に溜める。
積み上がった葉は日光をたっぷり浴び雨風にさらされて、立派な堆肥となる。
土手を歩いていて、その臭いが風に乗ってやってくる季節には、息を止めて堆肥場の前を走り抜けたりもする。
その草を運ぶついでに、先代が軽トラを走らせ白鳥を見に行っているのを私は知っていた。

ハウスの温度を見たり、田圃の水を見たり、農家は忙しい。その中で白鳥の飛来を見に行く先代のユーモラスなところが好きなのだ。

ハウスを出て、ずしっと重いトマトの入ったエコバッグを片手に少し伸びをして、きた道と逆へ歩きだす。
迷路のようなハウス団地もまた、何時でも私をわくわくさせる。
連なるハウスを抜ける前に、遠目に見えていたが土手の登り坂あたりに何台かの車があった。
先客がたくさんいたら、今日も土手を歩いてそのまま帰ろう。
そんなことを思いながら久しぶりの散歩を楽しむ。

すぐそこにある、美しい景色に憩いの場所。近くて遠い場所。決してなくならない場所。
いくら深呼吸をしても、その冷たい空気に嫌気がささない。
新しい年が始まってから向こうずっと、ざわざわした雑音に苛まれている。均衡がどうにかこうにか保っている風だ。
外に出て、風に触れ、ようやく留まりすぎた異様な熱気から解放されて、肩の力がすっと抜けた気がした。

心が求めていたのはこれだったんだ、と気がついた。



背丈の短い草の間に古い石階段がある。
坂道ではなくその石階段の方から登り、土手へ立ち、愛する工場に挨拶をする。

川へ降りる階段は新しく長い。
夏には鬱蒼とした叢だった場所も、階段下から河岸へまっすぐ歩いていけるよう切り開かれている。だからその階段は「白鳥の径」と記されているのだ。

導きのまま径をおり、足元が枯れ草から砂利や小石に変わり河縁へ辿り着く。
冬には木々が落葉し黄金色に、夏には美しく蒼く輝く。
どこまでも長く続く大きな流れはとても穏やかに両手を広げている。風の国にも静まる日はあり、今まさに水鏡のように深冬の空を写している。
ここにずっといたい、そんなふうにここへ来るたびに思っている。それはきっと今日の私だけではないはずだ。

豊かなこの川にはたくさんの鳥たちが集う。

カルガモ、キンクロハジロ、マガモ、カモ達は蒼黒に染まる冬の川面で陽射しと戯れている。
遠くの浅瀬では白鷺が忍び足。渡り鳥の越冬中はどこかその肩身を狭くしているようにも見えるが、川にも田圃にも畦道にも、はてはコンクリート道路も素知らぬ顔をして歩いている彼らはもはやこの町の住人、ならぬ住鳥なのかもしれない。
その忍び足の上空を、立派なトンビがピーヒュルルルルと鳴きながら気持ちよさそうに旋回する。
堂々した両翼の眼下で、烏が悪戯に雑木林の枯れ枝の上をばたつく。
セキレイもいつもの場所でぱちぱちと遊んでいる。

この煌めく冬の中で、長旅の羽を休ませる美しい白鳥たちが、ぽっぽっぽっぽっと鳴く声がどこまでも響いていく。

様々な生き物と自然界とたった今同じ空間を共有している私は、息も声も潜めて静かに川面を見つめた。
空はとても高い。
全てがここにあって、寂しさの一つもないように思った。



この時期は、白鳥を見にやってくる人で河原はいつもより賑やかだ。
私は散歩がてらその小さな集いを横目に見ては、素通りする。二ヶ月くらいしたらまた人気のない静かないつもの川に戻るのを待って。

停まっていた車の割に、今日は先客が少なかった。
径の先で最初に会ったのは、立派なカメラを首に下げ幼い孫娘を連れて白鳥を見にきたおじいさん。
もう写真を撮り終えたのか、小さな彼女が飽きてしまったのか、こんにちはと挨拶してすぐに車に戻って行った。

短い冬の間、ここへ帰って来てくれる鳥たちを見守る「白鳥を守る会」のおじいさんたちがいる。
調べるとその人数はかなりのようで驚いた。毎年、余念のない準備と整備のおかげで鳥たちも安心して越冬できるのだろう。
厳しい張り紙と警告板の裏には愛情が詰まっている。
時に優しさは、溺れても気がつかないような浅瀬ではないし、痛みを伴わない温湯ではないのかもしれない。
感覚に触れないのなら、それは無意味になってしまうのではないだろうか。そんなのは悲しすぎる、と危惧するのははたして私だけなのだろうか。

鬱蒼と繁る木々が冬枯れている、その姿と気持ちが同調してじゃりじゃりという足音がやけに耳にへばりついて響いた。
静かなここはいい。
変わらないものも変わりゆくものも同時にここにあって、優しさも切なさも共存している。
静かで、だけどひとりぼっちだと感じたことはない。

こんにちはと、少し背中の曲がったおじいさんが声をかけてくれた。
白鳥の餌を積んで交代交代にやって来て、毎日飛来数をカウントする白鳥を守る会のおじいさんだ。
この川には白鳥を含め5、6種類の鳥が来ていることを教えてくれた。
渡り鳥はこれまで三月半ばくらいまでは留まっていたそうだが、やはり温暖化のためここ最近は二月末にはもういなくなってしまうそうだ。
この河川へ戻らなかった日も、その0という数を記すためにここへやってくる。短い冬の間、それを続けているそうだ。

頭も服装もなんだか派手な出立ちで、長閑な風景にきっと浮き上がっている私だ、でも心は馴染んでいてきっと声をかけてくれたのだろう。
鳥たちのこと、守る会のこと、今年の渡り時期のことなど、色々なお話をした。

白鳥の会のおじいさんは、「また会いに来てあげてくださいね。」と言っていた。
理由はそれぞれに、けれどこの場所を大切に思う人が私以外にたくさんいる、そう思うとなんだかとても幸せな気持ちだった。



自転車で白鳥の様子を見にきたおじいさんともすれ違った。この人もまた白鳥の動向に詳しく、この間はどことこに大軍でいたと教えてくれた。あっちは遠いから近場のここへ今日は見に来たそうだ。
自転車できるには風は今日も冷たい、暖かい日差しが降り注いでくれていてよかった。

トマト農家の先代も、白鳥が今日は何羽くらいきているかを当たり前に知っている。そして彼らが、いつ頃までいるのかも。
その地でハウス栽培を生業とし、長い長い時間、それを見届けてきたのだろう。
ただ続けるということは、本当はどんなことよりも大変でそしてすごいことだ。

今までより早く北の空へ帰っていく鳥たちを、おじいさんたちはどんな気持ちで見送っているのだろう。

二月の半ばは春の陽気だと天気予報が言っている。
寒の戻りがあれど、野原ではすでにホトケノザが紫の花を揺らしているのだからいよいよ冬の境目があやふやなのは確かだ。
もしかしたら今年はより一層早く旅立ってしまうのかもしれない。
幸せもまた儚く頼りないものだが、確かにあることを手触りで感じることができる。この場所はそれを証明している気がして、やはり愛おしい気持ちになった。
おじいさんたちに見守られ大切に想われている白鳥たちは、きっと幸せだ。



晴れ渡る空と冴える風、おじいさんたちにさよならをし歩く川辺、石の形、水面の曲線、美しく冬枯れる木々、影、白い雲は流れて、光の礫が揺らめく。
川辺にいなかった雀がまあるくなって木に止まっている。
土手を覆う緑は濃く鮮やかに生え、空はどこまでも突き抜ける青が映える。
新しい橋を行き交う車、遠くをゆく散歩の人、陽の差す畑の人、午後の子供たち、増築している工業地帯の残響、静かに聳える川向こうの工場。

いつも何度も歩いているこの土手道を行きながら、みんなここにいるなぁ、とふと思った。

みんなここにいる、か。
懐かしくかつ頭から離れない忘れることのないフレーズ。そう思うのはきっと、私と同じ年代の同じ小学校の卒業生だけだろう。
同じ思い出を共有している、それのとてつもなく唯一無二のものではないだろうか。

私はクラスを受け持ってもらったことはないのだが、インディーズバンドを組みライブなどをしてい先生がいたのだ。
その先生が作ったオリジナルソング、「みんなここにいるよ」。
時間が経つにつれ歌詞に朧げな部分が増えたものの、鮮明に記憶に残りメロディーを口ずさめるのは変わらない。まるで校歌のように。
さらにこれが運動会では、このオリジナルソングで全校ダンスをするのが恒例だった。かなりチープなフリだが数十年忘れずにいる。
だいぶ早い段階でダンスを授業に取り入れているし、思えばこの学校は特有のものが多く運動会でも組体操などのありがちなものは行わなかった。
表現という演目では創作ダンスをみんなで作ったり、あらうまや気球と言って、創作したもので身体を使って現すことが多かったように思う。
感覚を揺らすことが多岐に渡りあり、それが私を強く刺激していたのかもしれない。
小学校5年生の時の表現では、前年に起きた阪神淡路大震災をうけ、(マグニチュード7.5〜その時人は〜)というタイトルで、未曾有の世界を想像しながら作り上げていったことも記憶に深く刻まれている。
流され逃げ惑う人々、というフレーズもあの頃は、その後遭遇する未来の一部になるとは思っていなかったが。
想像することと創造することが、大切な記録になり、誰かを救う一つの手立てになりうるということを、ここで育んでいったように思う。

全校ダンスの「みんなここにいるよ」は、特に力を入れていたのか、おそらく楽曲を作った先生がいる間は毎年行っていたと思う。
ダンスがまだ、気恥ずかしい時代だ。
だだ広い校庭の朝礼台の上でいつも厳しい体育の先生が、笑顔で〜と言いながらフリを教えていたのも何とも言えぬ光景だった。
刷り込まれた経験は簡単には消えてなくなったりしない。
思い出や想い入れがあれば尚のこと。
この曲、このダンスを、どうして忘れずにいたのだろう。
なぜか忘れ難い記憶だった。

ふと土手の上で、いつもの場所で、いつもの景色の中で、けれど今日しかないその世界の中で。
この歌を思い出したのだ。

「みんなここにいるよ
どんな魔法なんかより強く
悲しみの時も
孤独な日々も
僕らは超えて今ここにいる
もう何もおそれずに
歩いてゆこう」

あまりにも真理を歌った曲だった。
まっすぐで、優しくて、時を超えたここにいる私にも繋がってしまうような。
飛んできて、刺さってしまうような。

その事に驚きつつもどうりでずっと心が覚えているわけだと気づいた。



たくさんのことを覚えている。
忘れてしまったこともたくさんある。
でもそれは無くなったわけではない。
忘れられないこともある。
それは忘れたいものでは本当はないんだと思う。
悲しみも喜びも怒りも痛み愛おしさも、切なさの中で微笑んでいる。
歌と私が重なった時、土手のその道はまっすぐに続いていて、自分がここに立っていることをしっかりと感じることができたのだ。

自身の均衡のために、息苦しくなったり整えたい時はこの川辺へ赴く。チューニングをするために。そこには私と、私たちの言葉以外で繋がることができる自然世界が溢れかえっていて、やっと私の心と言葉が息を吹き返す。
そこにはみんないる。
寂しくて寂しくない豊かな場所。
懐かしい歌を口ずさみながら、愛おしいものたちに小さく手を振り、坂道を降りる。

明日は風が強いかもしれない。
遠くの雑音があまりにも近くに感じたり、触れたはずのものが瞬く間に遠くへいってしまうかもしれない。
ざわめきの世界で、私は私を、あなたはあなたを、愛せる標を持っておくといいだろう。

また来るね、と、彼らに挨拶をして、私は私の道をまっすぐにまた歩きだす。

光と影が大きく掌を広げていた。