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心に響く演奏、響かない演奏

コンサートホール、ライヴハウス、今や日本では、沢山の音楽に実演で触れる機会に溢れている。
東京に至っては、クラシック音楽だけを例に取ってみても毎月のように一流の音楽家が海外から来日し、コンサートを行なっている。

そして毎日のようにどこかで演奏会があり、足を運べばいつでも演奏を聴く機会がある、恵まれた時代のように思う。

そんな中で、様々な演奏に触れていると、『感動した、心に響いた』と感じる事、また『イマイチ心に響かなかった』という違いを感じる事があり、その違いの根本は何処から来るのだろう?と疑問を持った。  


たとえばコンクールなどでよく使われる表現で、『技術はあるが音楽性が無い』と評される事がある。
また『冷たい音楽だ』などと評される事がしばしばあるが、勿論音楽から温度を感じとっている訳は無いだろうし、音は空気の振動であり、目には見えない実体のないものであるから、人によって感じるポイントは様々なのだと思う。
だが多くの人の胸を打つ演奏は、存在している。  

感動するとは、気持ちが高ぶりエネルギーが湧いてきたり、どこか満ち足りた気分になったりするものだ。
奏者によって表現の仕方、技術などは一定では無いにしても、そのような人の心にポジティブなエネルギーを与える演奏には、少なからずどこか共通点があるように思う。

それでは他の芸術分野である、文学、絵画の場合はどうであろう。
文学は文字そして言葉、絵画は絵の具や色彩、図形で表現する芸術だ。
そこにも、多くの人が惹きつけられてやまない表現というのは、確かにある。  

人間には表現したい、という欲求が存在する。芸術を特段意識していなくても、たとえ小説家になろうと思わなくても、私達は普段言葉を使って思いを伝えている。
それは言葉という物が共通のコミュニケーション手段として人間に根ざしているからだ。心の中に湧きでた思いがまずあり、言いたい事があり、伝える。
非常にシンプルだが、私達は時に嘘をつく。思ってもいない事を伝える能力だって備わっている。言葉と行動が一致していないと、本能的に相手に不信を覚える。言葉の奥に相手が見えないと、不安になるような気さえする。

私はその人間の本能こそ、人の胸を打つかどうかが関わってくるのだと考える。

もし人間の共通のコミュニケーション手段が言葉でなく、音楽だったら。
同じく演奏者の心が見えない音は嫌悪するだろう。
演奏者が本音でコミュニケートしているか、そしてどれだけ真っ直ぐに心の中に湧き出たものをさらけ出し、伝えているのか。それは外から作られたものではなく、心の中が語られている表現か。
きっと人は言葉よりも先に、それを感じ取る本能が備わっているのだ。  

今、私達の毎日は様々なモノや技術で溢れ返っており、たやすく心を隠して生きていける。
だが、私達はきっと本能として、相手の本心を知り、繋がったと感じる事を求めているのだろう。  

そう考えると音楽というのは、人間の本能に根ざした、非常に原始的なコミュニケーション手段であり、また言葉と同じように心や気持ちを乗せて届ける媒体であると言える。
心の中に湧き出たものがまずあり、それを偽りなく相手に伝えることが出来ているかどうか。それが心に響く、感動を伝える演奏か否かの、重要なポイントではないだろうかと思う。

技術は時に容易く心を隠す。
だが、技術が無ければ、沢山の言葉を知っていなければ、限りなく心に近い本音を伝える事だって難しい。
私も演奏する側として、いつだって心に湧き出る微妙な思いを、偽りなく、真っ直ぐ人に届ける勇気を持って、演奏していきたい。

そして本音が見えにくくなっている今の世の中が、一つでも多く、心に響く音楽が奏でられる世界になればどんなに良いだろうと感じている。



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