見出し画像

短編小説 | 明るい台所、あるいは幸福な朝食

 この家のキッチンは本当に燦々と陽が当たるわね。まるでサンルームみたい。ここで料理をしていると植物になったような気になるの。
 私達が家を建てる時、あなたが「一番良いところをキッチンにしよう」と言ったのを覚えている? 私はその時あまり料理が上手ではなかったけれど、こんな素敵なキッチンなら、きっと何でも作れるようになるって思ったの。

§

「最後の晩餐は何が食べたい?」

 突然、夫がそう聞いた。
 その時、私達はアメリカのドキュメンタリーを観ていた。死刑囚に密着した作品で、ちょうど囚人のインタビューに差し掛かったところだった。

「死刑囚って、刑の執行前に好きな食事を用意してもらえるんだって。ほら、観て」

 映像の中で。死刑囚達の最期のリクエストが写真で紹介されていた。豆、ステーキ、フライドチキン。ワッフル、ピザ。チョコミントアイス2パイントに巨大なファッジ。何も希望しない囚人もいた。

「死ぬ前なのに意味があるのかしら」

 私が呟くと、きっとあると思うよと夫は言った。

「僕は君の料理が食べたい。できるなら日曜の朝食のメニューを」

 そう言うと夫は私を抱きすくめた。シャワーを浴びたばかりの彼からは、石鹸の清潔な香りがした。鼻腔を揺らす香りに包まれながら、私は目を閉じて彼の腕に手を重ねた。

§

 その時私が噛み締めた幸福の大きさを、あなたはちゃんとわかっていたかしら。私ね、幸福と孤独って似ているものなんじゃないかって思うの。孤独って、ある意味で満ち足りているでしょう? 一人で、静かで、他に何もなくて。
 …ああ、言ってみて気づいたけれど、「何も無い」って「満ち足りている」って言葉と矛盾するわよね。嫌ね、最近なんだか頭がうまく働かなくて。でも私、今とても幸せよ。
 ねえ、あなたはどう?

§

 コーヒーメーカーのスイッチを入れると、小気味良い音をたてながら豆が挽かれ始めた。
 昨夜は散々な大仕事になってしまった。業務用のミンチ機を用意したのに、牛や豚と脂身の質が違うのだろうか、何度も刃を停めては油分を洗い流す羽目になった。結局、3キロちょっとの肉を挽くのに数時間掛かってしまった。急に処理しなくてはいけなかったとはいえ、慣れない作業はひどく疲れる。今でも風呂場には、解体や血抜きに使った道具や、残りの肉が置きっぱなしになっている。
 良い匂いでトマトと煮込まれている肉の様子を覗いて、私はやれやれと肩をすくめた。

§

 二人で暮らしていく中で、私が咀嚼して飲み込んだ塊の数を、あなたはどのくらい知っているのかしら。
 どんなものでもね、細かく切ってしまえばいいんだって気付いたの。悲しい時には玉ねぎを刻んで、苦しい時にはセロリを微塵切りにして。気付いたのは、あなたのスーツから知らない香りがした日かしら。Mという女の人から電話が掛かって来た時だったかしら。あんなに苦手だった微塵切りだけど、あなたが週末帰ってこなくなった頃にはとっても上手になっていたのよ。

§

 鍋の火を弱めると、私は冷蔵庫から卵を三つ取り出した。ボウルに割り入れ、塩胡椒を振る。ミルクも少し垂らして菜箸でかき混ぜる。フライパンが温まったのを見計らって一気に流し込むと、綺麗な黄色が広がった。今日の卵料理はスクランブルエッグだ。熱で固まった端から、箸でこそげるようにして大きくかき混ぜると上手に出来る。全体が七割ほど固まったところで火を止め、少しだけ余熱を通す。焦げたバターが絡んだ卵の香りが部屋中に広がっていた。キッチンのドアは開け放していたから、きっと二階の寝室にも届いただろう。そろそろ起きて来てもおかしくない時間だった。

§

 私達の日曜日の朝食は、いつも同じメニューね。卵とトースト、温野菜に温かいトマトスープ。淹れたてのコーヒー。時々フルーツを剥いたりして。昔旅行に行った国の中で一番美味しかった朝食のメニューなんだって、あなたは教えてくれた。いつか一緒に行こうって言い合って、私はその時―――本当に幸福に殺されるかと思った。そう言うとあなたは呆れて笑うから、その時は黙っていたけれど。
 ねえ、今日は久しぶりにその話をしない? 私達の幸福について。それから私達のこれからと、お風呂場にあるものについて。Mさんたら急に来るんだもの。少し困っちゃった。その話、あなたも聞きたいでしょう? ああ、本当に、昨日は帰って来てくれてよかった。
 私、あなたの言ったこと、ちゃんと覚えていたのよ。

§

 予め温野菜を添えておいた皿をオーブンから取り出し、卵を盛り付ける。トマトスープは深い器に装い、刻んだパセリを散らして仕上げた。コーヒーは淹れたての良い香りを漂わせ、トーストはトースターの中で香ばしく焼かれている。
 階段が軋む音がした。夫が起きて来たのだ。私はテーブルに料理を並べると、急いで向かった。階段の上でパジャマ姿の夫がこちらを見下ろしていた。

「おはよう。朝食が出来ているわ」

 私はにこやかに笑いかけた。そして思った。

「降りて来て召し上がれ」

 さあ、幸福な朝食を。今日があなたの最期の食事でよかった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?