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わが国のなりたちを訪ねる

天地開闢

720年に完成した日本書紀は、古事記と並ぶわが国最古の書物であり、歴史書である。日本書紀の書き出しは次のようなものである。

「むかし、天と地とがまだ分かれず、陰と陽ともまだわかれていなかったとき、この世界は混沌として鶏の卵のように形も決まっていなかったし、また、それはほの暗く、広くて、物のきざしはまだその中に含まれたままであった。やがて清く明るい部分はたなびいて天となり、重く濁った部分は滞って地となった。しかし、清らかでこまかいものは群がりやすく、重く濁ったものは固まりにくいものである。だから、天がまずでき上がって、地はのちに定まった。そうしてのちに、神がその中にうまれたもうた。」

我々の祖先は天地創造のストーリーからわが国の歴史を語り始めたのである。日本人は太古の昔からすばらしい想像力と独創力をもって世の中を見ていたことが分かる。また、神は天地から生まれている。自然が先で、神はそこから発生しているのである。これは、当時の日本人はすでに、現代の自然科学と同じ目線で世界を見ていたと言える。キリスト教やユダヤ教、イスラム教のように全知全能のゴッドが自然も人間もなんでも作り出したなどという単純な思考ではない。

神生みと国生み

わが国の最初の神は神世七代であるが、その最後の伊邪那岐命(いざなきのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)のまぐわいによってできたのが、大八洲国、すなわち、淡路島、四国、隠岐諸島、九州、壱岐島、対馬、佐渡島、畿内である。その後、住居や大地、食べ物や火にかかわる神を生み出していった。そして、いろいろあったのち、伊邪那岐命が、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、月読命(つきよのみこと)、建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)の三はしらを生むのである。
伊邪那岐命は、天照大御神には高天原(たかまのはら)を、須佐之男命には海原を統治するように命じたが、須佐之男命は母のいる根之堅洲国に行きたいと泣いてばかりいるので追放されてしまう。追放される際、須佐之男命は別れを告げるために姉の天照大御神に会いに高天原に行くのだが、天照大御神は高天原を奪いに来るのだと勘違いし、完全武装して待ち構えた。そのため、須佐之男命は潔白を証明するため、誓約を提案し、その結果、天照大御神に勝利する。しかしその後、須佐之男命が高天原で暴れまくってしまったために、天照大御神は怒って天の岩戸に隠れてしまう。姉も姉だが、弟も弟である。その由来をもつのが、宮崎県高千穂町にある天岩戸神社である。
天岩戸神社西本宮は天岩戸を神体とする。天岩戸は拝殿の背後に隠れて通常は直接見ることはできないが、一日に何回か、お祓いを受けたうえ神職の案内付きで拝殿の背後にある遥拝所に通してもらい、直接拝むことができる。写真の撮影は禁止されていた。山の岩肌にしめ縄がはってあるだけであったが、それとなく感じるものがあった。気のせいだろうが。

天岩戸神社の神楽殿
駐車場の隣には、さざれ石がある

三種の神器

天照大御神が天の岩戸に隠れると世の中は闇になってしまった。困った八百万の神々が集まって相談し、八咫鏡(やたのかがみ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を付けた御幣を作り、神楽を始めて、天照大御神をおびき寄せ、岩屋から引き出すことに成功する。この相談をした場所が、天安河原(あまのやすかわら)であり、西本宮から岩戸川を500mほど遡った所にある河原がそこにあたるとされている。

天安河原

須佐之男命は、結局は地上に追放されるが、その降り立ったところが出雲である。そこで人々を飲み込んでいた八岐大蛇を酒で酔わせて退治し、大蛇の尾を切ったときにでてきたのが草薙剣(くさなぎのつるぎ)である。須佐之男命は、剣を天照大御神に献上した。ここに三種の神器がそろう。八咫鏡と八尺瓊勾玉、草薙剣である。

国造りと国譲り、そして出雲大社

その後、須佐之男命の子孫である大国主神(おおくにぬしのかみ)は、葦原中国(あしはらのなかつくに)、すなわち日本を完成させ、国造りを終える。ところが、高天原から文句がつけられる、葦原中国は天孫が治めるべきだと。もともと追放した須佐之男命の子孫が作った国を取り上げるなどふざけた話だと思うが、そこは高天原の権威が勝り、大国主神は国を譲ることになる。国譲りである。五十田狭の小汀(いささのおはま)にて、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)が、大国主神に通達している。

出雲市の稲佐の浜、ここが五十田狭間の小汀であろう

「いまおまえが言うところを聞くともっともである。だから筋道を立ててあらためて命じよう。まず、おまえがいま治めていることのうち、顕露(あらわ)のことは、わが子孫に治めさせよう。これに対しておまえは幽界の神事をつかさどれ。またおまえが今後住まうべき天日隅宮は、いま余が作ってやろう。その敷地の規模は千尋の長さの栲縄を百八十結びにしっかりと結んで設定しよう。その宮殿建築の制式は、柱を高く太く、板を広く厚くしよう。」

その宮殿が出雲大社である。

日の丸がたなびく、国宝の出雲大社本殿

大国主神を祭神とする出雲大社は、かつては唯一の大社であり、大社といえば出雲大社であった。二拝四拍手一拝という独特な作法で拝礼しなければならない。
出雲大社の古の姿は、古代出雲歴史博物館に模型が展示してある。日本書紀に書かれている姿を想像するとこのような独特な社になるのである。

古代の出雲大社

日本人は、古代から、このような壮大でユニークな建築を考え出すことができたのである。
さて、出雲大社はいつできたのであろうか。国宝の銅鐸と銅矛から想像してみよう。

圧巻の銅矛

銅鐸と銅矛は、荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)から出土している。これらの詳細はいまだに分かっていないが、弥生時代のものだそうだ。すなわち、出雲には弥生時代から高度な文化を持った日本人が住んでおり、国造り、国譲りに見られるような政治、そして出雲大社にみられる宗教がすでに存在していたのではないだろうか。

天孫降臨と高千穂

国譲りと時期を同じくして、瓊瓊杵命(ににぎのみこと)が全権を担って地上へ降り立つ。天孫降臨である。天照大御神は子孫である瓊瓊杵命に三種の神器を下賜され、わが国を治めることを命じられた。

「葦原の千五百秋の瑞穂国はわが子孫が君主となるべき国である。爾皇孫よ、これから行ってこの国を治めなさい。行きなさい。天つ日嗣が栄えるであろうことは、天地とともに永久につづき、窮まることはないであろう。」

宮崎県高千穂町の槵触山は天孫降臨の場所の一つとして知られている。

槵触神社

また、高千穂神社の主祭神は一之御殿の高千穂皇神と二之御殿の十社大明神である。

夜の高千穂神社

高千穂皇神は、日向三代と称される皇祖神とその配偶神、すなわち、瓊瓊杵命と木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)、火遠理命(ほおりのみこと)と豊玉毘売(とよたまびめ)、鵜葺草葺不合命(うかやふきあえずのみこと)と玉依毘売(たまよりびめ)の総称である。
高千穂神社では高千穂神楽を見ることもできる。

瓊瓊杵命から、火遠理命、鵜葺草葺不合命を経て神武天皇へ

瓊瓊杵命と木花之佐久夜毘売から生まれたのが、火遠理命。そして火遠理命と豊玉毘売から生まれたのが鵜葺草葺不合命である。彼らの物語は面白いので興味ある方は読んでみることをおすすめする。

宮崎市の青島神社には、火遠理命と豊玉毘売が主祭神として祭られている。

青島神社

青島神社は小さい島にある。椰子の木々に囲まれた亜熱帯の雰囲気のなかに竜宮城を彷彿とさせる本殿がある。日本ではなく東南アジアにある神社のようだ。火遠理命、すなわち山幸彦は浦島太郎伝説ともつながる。海の中の竜宮城に行ったのだ。
青島神社行く途中には地質が特徴的な鬼の洗濯板がある。青島の隆起海床と奇形波蝕痕として天然記念物になっているこのユニークな地形は、700万年前の
中新世後期に海中で出来た水成岩が隆起し、長い間波に洗われ固い砂岩層だけが板のように積み重なって見えるようになったものだ。

鬼の洗濯板

また、日南市の鵜戸神宮の主祭神は鵜葺草葺不合命である。古代以来の海洋信仰の聖地で、本殿の鎮座する岩窟は豊玉毘売が鵜葺草葺不合命を産むための産屋を建てた場所だったそうだ。

鵜戸神宮本殿まえの海

鵜戸神宮は、海岸沿いの狭い道を進み、その奥の突き当りにある神社である。その本殿は洞窟の中に建てられている。これも独特な作りだ。洞窟には本殿の他、御乳岩というおっぱい岩がある。また、海に面した広場から運玉というクレイを投げ、下の亀石に乗っかると願いがかなうとされている。
そして鵜葺草葺不合命と玉依毘売から生まれたのが、神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)、神武天皇である。
宮崎市には神武天皇由来の場所がいくつかある。宮崎神宮はその一つだ。神倭伊波礼毘古命を主祭神とし、父鵜葺草葺不合命と母玉依毘売の二はしらを配祀する。

宮崎神宮

神武天皇は平和に天下を治めるために都を置く場所を考え、東征に出発する。多くの苦難を乗り越え、ついに畝火の白檮原宮(かしはらのみや)、現在の奈良県畝傍山東南の地にてご即位になった。

宮崎の八紘一宇の塔にある神武東征のレリーフ

「そもそも聖人がある制を立てる場合には、かならず時勢に適合した道理にもとづくものである。だからかりにも人民に有利なことであるなら、どんなことでも聖人の行うわざとしてさまたげないはずである。そこでこれから山林をひきはらい、宮室を経営し、つつしんで皇位について人民を治めよう。そして上は天神の国を授けたもうた恩徳にこたえ、下は皇孫の徳治の精神をひろめよう。そうしてのちに国の中を一つにして都をひらき、八紘(あめのした)をおおって宇(いえ)とすることはよいことではないか。ここから一望すると、あの畝傍山の東南の橿原の地は、けだし国の真ん中にあたるようだ。ここに都をつくろう。」

これがわが国の建国の詔であり、八紘為宇(はっこういう)がその精神である。

宮崎市の八紘為(一)宇の塔

八紘為宇は天下を覆って家とする、すなわち、私たちは皆家族であり、日本は日本人の家であるということを意味する。そのように話すことで平和な豊かな国にすることを目指したのである。この精神は、二千年以上にわたり、万世一系の天皇によって継承されている。

以上、2022年12月の時点で、これまで訪れた建国に関わる場所を追ってみた。このノートを書いている今は円高で外国には行きにくい状況だが、みなさん、この機会にわが国の建国の地を訪れ、建国の精神を思い浮かべてほしい。そしてさらなる発展をさせていこうではないか。

なお、冒頭の写真は、天皇陛下の大嘗祭の時に使われた大嘗宮。また、文中の引用は中公文庫日本書紀より引用した。


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