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ボンベイ、ムンバイ

はじめに

ムンバイはかつてはボンベイであった。ボンベイでは、ボリウッドとつながったボンベイマフィアが幅をきかせていたそうだが、それらは一掃され、イメージの悪かったボンベイをムンバイと呼ぶようになったのが1995年のことである。従ってそれ以前に生まれている人たちはいまでもボンベイとよぶこともある。

フォート地区の通り

目につく貧富の差

ムンバイは人口1000万人を超える大都市である。アラビア海に面する島が基本構造であり、南北にいくつか鉄道と道路の幹線が走っている。インド人によるとこの構造が格差感を下げるもとになっているそうだ。一本道なので迂回ができないため、道路は渋滞。渋滞が始まると連続してつながってしまう。結局電車での移動がもっとも速い。金持ちも貧乏人も変わらない。いい自動車に乗ることがステイタスにはなりえないため、デリーのように見栄っ張りにならないんだそうだ。

とは言ってもである。ムンバイではスラムが目立つ。バンドラの西側はいわゆる高級住宅街でお金持が住んでいる街なのだそうだが、逆のバンドラ駅東口にはオート乗り場のわきは崩れそうな家屋が多層になっていた。西側は見ていないのだが、高級住宅街といわれている街の駅の逆側がこのようなスラムなのである。

バンドラ駅東口 Bandra

こういってはなんだが、見た感じだけだと芸術作品にも見える。地震がないからいいが、ちょっと揺れたら崩れると思う。

バンドラ駅前の道の向こうもスラムはいまにも崩れそうな微妙なバランス

バンドラは新都心BKC(Bandra Kurla Complex)の最寄り駅でもある。

マハラクシミ Mahalaxmi駅前にあるドービーガートは洗濯を職業にしてるジャーティーの洗濯場としてよく知られているが、そのすぐ隣には高層アパートが建っており、ここも貧富の差が顕著に分かる場所でもある。

ドービーガート Dhobi Ghat

インドはUKを抜き、すでに世界第5位の経済大国である。GDPはわが国と肩を並べる。そしてムンバイはインド産業の中心の街でもある。すなわち、金はある人のところにはあるのだ。インドの経済成長率とインフレーションは約6%程度。失業率は7%程度になっている。成長しているが、失業も多いというのはどういうことであろうか。短期出張者には適切な回答はできないが、ちょっと考えてみたい。インドは製造業がなく、ITや金融サービスが成長を牽引しているユニークな社会である。つまり、未成熟の脱工業化社会であるともいえるとのこと。高度サービス産業は素人ではできないため、まだ人材の育成が追いついていないのであろう。今後サービス産業はもとより製造業も成長することは容易に想像でき、わが国はより一層パートナーシップを築かねばなるまい。

ガンジーはUKの蛮行に抵抗した

ムンバイの特徴の1つがドアを開けたまま走る電車である。ムンバイの電車はドアを開けたまま走る。風が入るし、扇風機が何台もあるので、そんなに暑くはない。

走っている車内から

しかし開けたままなので、安全性は低くなる。ラッシュ時は東京の電車と同じすし詰めである。だから落ちて死ぬ人もいる。ところが2023年2月に訪れたときには、ドアを閉まった、しかもエアコンが聞いている電車がついに登場していた。もっと早くこうなるべきであろうが、インドは遅々として進むのである。

ドアを閉めて走るエアコンカー

ただ大半は従来のオープンドア電車である。それに乗ってガンジーの住んでいた家に行ってみた。

この電車はまだ走っているが、ドアが閉まらないと乗り降りはしやすい

ガンジーはムンバイに1917年から34年までの17年間、ムンバイに住んでいた。ムンバイは、ガンジーが1919年にサティヤーグラハ運動、すなわち非暴力抵抗運動を始めた場所でもある。

マニババン Mani Bhavan

ガンジーといえば糸車であるが、それも見ることができた。イギリスの綿製品を使わず、伝統的なインドの綿製品を使うように呼びかけたガンジーはここで1932年に逮捕された。

ガンジーのいた部屋

イギリスに抵抗したガンジーはもともとは弁護士であった。UCLで学んだ後、南アフリカで弁護士になったが、インド人であることで差別されたことでインド人としての認識が強まり、独立運動を進めるようになったそうだ。第一次世界大戦後に、UKに裏切られた思いに駆られたガンジーは、インド国民会議に加わり、サティヤーグラハ運動で独立運動をリードした。インド独立の父である。

ガンジーが画かれた壁

それにしてもUKは卑怯である。インドを搾取したあげく、第一次世界大戦では将来の自治を約束してインド人を戦闘に動員させたのにもかかわらず、それを反故にした。まったくふざけたジェントルマンたちである。映画RRRでもUKの野蛮な悪行が描写されている。UKは中東でも三枚舌外交を行ったため、いまのパレスチナ、イスラエル問題があることを忘れてはいけない。

チャトラパティシヴァージーマハラジ博物館 Chhatrapati Shivaji Maharaj Vastu Sangrahalaya

チャトラパティシヴァージーマハラジ博物館は以前はプリンスオブウェールズ博物館と呼ばれていた。1905年のUK皇太子がインドにきたため、わざわざ1923年までかけて作られている。ラジャバイ時計塔は1878年に作られたそうだ。インド人が強制的に動員させられて作られたのではないかと思ってしまう。

ラジャバイ時計塔

UKはわが国には重要な国である。かつては日英同盟を結んでおり、そのために日露戦争に勝利することができた。いまは支那に対抗するための重要なパートナーである。その一方でインドのみならず、全世界で蛮行と略奪を行いってきた国でもある。ちなみに大英博物館は略奪の成果を集めた博物館ともいえる。

ムンバイもしくはインドは多様である

目線をかえて海に行ってみよう。ムンバイの海岸線はきれいである。水はそんなに澄んでいないが、壮観な景色である。チャーチゲートから電車に乗ると最初の2駅くらいは海岸線沿いを走る。今度行く機会があったら途中下車してみたい。

マリンドライブ

最後にチャトラパティシヴァージー空港のお役所仕事を紹介する。チャトラパティシヴァージー空港では、空港の建物に入るだけで一時間かかる。

おそろしく遅いエアーチケットとパスポートの確認のためできた行列

入口で一人一人、航空券の内容とパスポートをチェックするのである。一回見ればよいはずなのだが、航空券の同じ部分を3回見直し、あげくには名前が書いていないといってさらに見返したうえに見つからず、名前はどこに書いてあるんだと聞いてくる。ここだと答えると、また同じ個所を3回確認し、そのうえでパスポートを確認する。以前にテロがあったためであるが、それにしても、知恵遅れの馬鹿者とも思えるくらいの無駄な慎重さと異常な遅さである。こんなことをしているために建物のなかに入るのに一時間かかった。ムンバイでは3時間まえに空港についてやっと搭乗時間に間に合うくらいだと思っていかねばなるまい。
ムンバイはこのように多様な興味魅かれる街である。
(2023年2月)

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