見出し画像

過去への執着をシュレッダーする

 事務所スペースを確保するために大掃除をしている。うちは毎年、5月の連休は大掃除をすると決めている。どこに出かけても人が大勢いるし、いつもより出費がかさむし、エネルギーもお金も消耗するだけだ。
 その点、掃除は良い。年末の大掃除は寒くて、窓を開け放つのが嫌になるけど、5月ならさわやかで身体も動きやすい。

 今年は仕事をしていないので連休も何もないんだけど、いつもと同じように大掃除をして過ごしている。今年の大掃除は次のステップにつながるのだし、いつにも増して建設的だ。

 数年来、手をつけていなかった納戸の箱を開けてみる。過去の仕事の資料がたくさん出てきた。私はこんなにも働いてきたのか!と自分でも活躍ぶりに驚いた。かつてのイキイキとした自分がそこかしこにいた。でも、それは過去の自分だ。もう自分は別の仕事をしていくと決めたのだから、これらの資料は不要だ。そう思って、どんどん捨てていった。

 次に日記のようなノートや手帳。とくに旅日記は20代の頃の旅行のものが出てきたり、結婚する前に一人旅をした際、日本にいる夫に向けて出した絵葉書などが出てきた。捨てにくくて、つい取っておいたものだ。けれど、今回はそういったものも思い切って捨てた。
 過去との決別、というのではない。過去を捨てたというよりは、過去への執着を捨てたというほうが近いかもしれない。過去はどれだけ捨てようとしても、わが身から捨て去ることはできない。
 だから過去の物を捨てたといっても、その時の私がこの頭の中に、こころの中に必ず息づいている。その経験を持った私が今ここにいる。

 だから物は捨てても大丈夫淋しくない。

 なぜか今回はそう思えた。

 少し話が逸れるけれど、私は変態する生きものに子どもの頃から興味があった。イモムシがさなぎになり、やがて羽化するとか、おたまじゃくしに足が生えて、すっかりカエルになっているさまとか。まるっきり別物になってしまう彼らに、不思議な魅力を感じていた。

 でも、こうして考えてみると、彼らはまるっきり別物になるわけではないのだろう。連続性を持った個として生きているに過ぎない。たとえそれが他から見て同じものに見えなかったとしても。

 私も30年勤めた職場を辞め、今は違う世界に身を置こうとしている。「定年退職まで勤め人でいい」と考えてきたのに、今は起業を考えている。美容室を経営していた母の姿と、今の自分が自然と重なって見える。母が自営業でなければ、自分は起業だなんて考えなかったかもしれない。
 そう考えると、母と私はどこかでつながっているし、今の私そのものが自然な流れで生じた“変態”の最中だという気がしてくる。

 過去が自分の中で息づいていること、そのことを好ましく感じられること。それは幸せなことだ。

 夫と話をしながら、少しずつ新しい事業の方向性が見えてきたし、起業の話に前向きになってくれた夫のことを頼もしく感じている。夫婦で大掃除をしながら、私の気持ちも少しずつスッキリしてきている。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?