見出し画像

「がんばる」という言葉がキライです


大学時代までは、そんなこと思っていなかった。

「ピアノの発表会、がんばってね」
「テスト勉強、がんばってね」
「高校受験、がんばってね」
「大学受験、がんばってね」
「就職活動、がんばってね」
 
いつなんどきでも、この言葉をかけられ、その言葉通りにやってきた。

 
がんばることを覚えたのは、3歳から始めたピアノだったように思う。


ピアノ教室で開かれるオーディションにどんどん受かったり、音楽発表会や合唱コンクールでの伴奏を任せてもらえたりした。先生や友達に褒められるのが嬉しくて、「がんばる」ということに味をしめ、何事も「がんばる」ことが当たり前になった。

夏休みの宿題は、ドリルはもちろん、絵も自由研究も作文も手を抜かず、何度か賞を貰った。

運動だって負けたくなくて、地域の陸上大会への出場を果たした。家の前にバケツを並べてハードル走の自主練をした。(農作業用のバケツを何個か割りました。おばあちゃんごめん。)

中学生の頃は、第一希望の高校に絶対に入学したくて、進研ゼミだけでなく、塾もこなした。

憧れの高校に入学できた後は、すぐに大学受験の時期になって、プレッシャーからくる大量の蕁麻疹を背中にのせて、合格をもぎとった。

就職活動だってもちろんがんばった。


そんな私を無理やり頑張れなくさせたのは、社会人の世界。

「がんばる」という言葉に嫌悪感を抱くようになったのも、社会人になってからだった。

新卒時代は、同期も上司もだいすきだったのだけど、どうしても直属の上司だけは合わなかった。精神も体調もボロボロで、ごはんが食べられなくなった。婦人科系の病気になり、痛みがひどくて過呼吸になって、救急車を呼ぼうかと思ったこともある。残業が多すぎたのもストレスで、がんばり続けることができなかった。


転職しても、がんばれなかった。成果は残すよう努めていたけど、仕事の内容がしんどくて、毎日吐き気がとまらない。人間関係には恵まれていたし、残業0だったけど、仕事が合わなかった。

行きたくない 行きたくないと、朝起きた瞬間から呪文のように唱えて出社して、休みが来ても土曜の夜から憂鬱だった。こんな生活を続けられるはずがなかった


2社目は人事との退職面談があって、その時にこんな言葉をかけられた。


「がんばり屋さんだよね。」

 
おそらく、人事の方は褒めてくださっていた。
でも、傷ついた。褒め言葉なはずなのに。


がんばるってなに?
もうこれ以上がんばれないのに、そのレッテルはいつまで私にまとわりつくの?
がんばることってそんなに価値があるの?休んだらだめなの?


今までの人生で、がんばることを選択し続けてきたのは自分で、それによって得られた自信もあるし、出会えた人もいるし、過去の自分に感謝もしている。がんばってきて、良かったと思う。でも、もうがんばれなくなってしまった。社会人になって、がんばること=我慢になって、我慢は精神と体を壊した。

 

「社会人で我慢ができないなんて甘えだ」なんて言われることは百も承知だ。でも、もうがんばり続けることはやめた。やめたというかできない。もちろん人生において踏ん張り時はあるんだけど、自分と相談しながらやっていく。それでいいと、思えるようになった。


私の分析の範囲ではあるけど、今までの「がんばり」は、他人に依存した「がんばり」だったのだと思う。自分がしたいからするのではなくて、

「周りが褒めてくれるから」
「褒められたら嬉しいから」
「普通はこうだから」

周りからの目に寄りかかった努力。
そりゃ苦しくなるよな、なんて今では思う。

だから、これからは自分がやりたいことに対して、自分の軸で「がんばる」という姿勢と付き合っていく。


「がんばる」「がんばれ」という言葉は便利で、キライなのに日常的に使ってしまうときはある。例えば朝の挨拶のような感じで、「今日も1日がんばろうね~」とか、友達が好きな人と初デートとなれば、「がんばれ!!応援してる!」とか、こんなささやかながんばれなら、全然いいのだけど。

その時々の場面や置かれている状況では、言葉って安易に人を傷つける。それは「がんばれ」という言葉に限らず、どんな言葉であってもだ。


今、がんばりすぎているすべての人へ、少し休んでくださいねと言いたい。

立ち止まる自分を許してあげてください。
心と体を1番大切に、毎日過ごしてください。


この記事が参加している募集

よろしければお願いいたします!