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というわけで301連続目はホモソーシャルについてなのだ

ホモソな世界でずっと我慢してきた。

いやそれでもまだ良い方だとずっと思っていた。今の職場を除いては。

最初の会社は9割が男性社員で、それでも私が所属した広報部門は女性が男性と同じように働いていたからホモソーシャルをあまり感じなかった。
むしろ他の部署から異動してきた男性が、驚くような部署だった。
しかしそれは、女子社員(今もそんな言い方するんかいな)が自分から企画を立てて稟議書を回す立場になることに驚かれるような、今思えば低いレベル。

うんそれは何十年も前の話だから、今はきっと変わってるだろう、と信じたいけど、
女活推進本部みたいなのができたって以前聞いたから、きっとまだまだなんだろうな。

それはさておき、それではホモソーシャルな世界とはなんなのか論じてみたい。

男性同士の結びつきや男の絆を意味する言葉、ホモソーシャル。ここでは男性同士は友情で深く結び合っている。その関係性は同性愛は否定されていて、その合わせ鏡のようにミソジニー(女性蔑視)が彼らの意識の底に流れているのだ。

女性だから能力が低いだろう。
女性だから、公の場では補助的な役割についてもらおう。
同じ社会の一員として認めていない。

そしてそれは男性たちの間では公然の共有意識なので、例えば私のような一匹狼的にポンと入ってきた存在を、傍目には受け入れつつ低く見ることで自分たちの気持ちの優位性を保っている。ちっちゃいねー。

それでいて男性同士でもどっちが上とか、あいつはどうだとか、もっとなんとかだとかさまざまなことを、さも自分が真っ当であるかのような顔をして陰で言ったりしている。
ヒエラルキーを作りたいようなのだ。
それでいて同類愛憐れむ横の繋がりに、温かさを感じている。

キモっ。

連れションならぬ、連れタバコとか。
日常的に絆を確かめ合う。

そしてその
男だろ!お前!な感覚を、子どもたちにも植え付けるのはいかがなものかと真面目に思う。

ホモソーシャルは、ミニホモソーシャルな世界を生み出すことを良しとしているのだ。

多様性を謳いながら、その実、単一な組織から多様性ば絵に描いた餅でしかなく、理念としても伝わらない。
だから組織としての頭打ち感に、繋がってしまう。

さて、以前いた職場は、人数構成は女性の方が多かったが、上司達は全て男性でミソジニーが酷かった。あなた達(女性)にはどうせ言っても伝わらないだろうけど、が、まかり通っていて、更に生き方、理念、信念などの指導までしてくださった。それがひいては企業の利益になるからだ。大きなお世話だ。
なんとかしてホモソーシャルを通そうという、ある意味信念が強い会社だった。
おばさん達、こうしておけばいうこと聞くでしょ感が強くて、ミソジニーの強さから出る杭を完膚なきまでに打ちのめす。

まぁ、どっちも塾業界で、人様のお子様をお預かりして育てる場なのに、中はこんなで色々終わってる。
でも、勉強を教えるという面ではミソジニーだろうがホモソーシャルだろうが、関係ないはず(なのだろうか。)

そんなことを日々考えている。
ま、そうやって自分たちがまともって幻想に浸って生きてれば良いんじゃない?という冷たい視線も秘めながら。

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