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中学不登校で高校に行ったら留年した話。

高校生の時、僕は1度留年した。

高校生になりたかったわけではないけれど、15歳の時受験しないと生きていけないような世界や家庭の雰囲気があってとりあえず高校受験。繰り返すけど高校受験したかったわけじゃないけど、そのまま何もしないってわけにもいかずに高校受験をした。

今はどうなのかわからないけど、20年前はひとつの県に必ずひとつくらいは名前を書いただけで合格がもらえる高校というものが存在していたと思う。なにせ中学2年生から学校の授業を受けていないのだから学力があるわけではないので受験できるのは名前を書けばといわれる高校だった。

でも面接では僕の人当たりの良さが出ていて「中学では学校に行かなかったので高校では友達をたくさん作りたいです」とか言ってたのを覚えてる。自分の思いとは裏腹に人に嫌われない言葉ってどんなのだろうって考える自分の癖がよく出ているセリフだと思う。

無事、合格。今思えば、入学費用だけで150万を超える金額を学校に支払っていると思うともったいなかったなと思ってけど、その当時は学校に行きたくないとか学校に行く意味が解らないとか、なぜみんなで同じことをしなければならないのかわからないというような思いだったと思うし、家にいたほうが楽で将来は不安だけど体は心地が良かった。

自分もまじめだから入学式は出席。何とか高校の入学式に行くと「なんで俺がこんな高校に」とか「こんな高校、早くやめてやる」とかそういう声が聞こえてくる入学式でみんな学校行きたくないんだなと思った。

新学期が始まって、もしかしたら中学では自分の居場所が見つかるかもしれない。恋愛も漫画のようにときめきがあるそんな生活。自分にもできるかもしれない。そんな淡い希望を持っていたからこそ、新学期少し学校に通ったのだと思う。5月末くらいまではずっといってた。でも当たり前のことだけど、周りの人たちは同じ中学で仲間がいて自分はいつも独りぼっちだったし、努力をしないと周りと話すこともできず、居心地の悪さを感じ始めてきた。だれも自分のことなんて見ていない。そんな感じだったから、あまり好きじゃない野球部の練習中にグラウンドを横切って散歩したり、授業中に外に出てお昼寝したり、校長室に行って漫画を読んでいたりした。

何か注目してほしくて、授業中、先生が書いた文章の上から落書きをしたり、配られたビラをびりびりに破って紙吹雪のようにして投げたりしてた。最初はみんな驚いていたけど慣れてくるとみんな反応しなくなった。反応しなくなるから余計に寂しくなった。今思えば誰かに構ってほしかったんだと思う。「僕はここいいるよ!誰か認めてよ!」って叫んでいたように思う。よく夢で教室の中で机を投げたり、椅子をなげたり、窓ガラスを割ったりしても誰も反応してくれなくて無視するように教室を出ていくという夢をよく見ていた。20代の中頃までこの夢は見ることになる。最後は「なんで僕に気づいてくれないの?」と涙して終わる夢。よく見た夢だが、妻と結婚して子どもができてからはなぜか見なくなった。認めてくれる存在に自分が気付いたのかもしれない。

誰も気づいてくれない学校。授業中廊下を歩いていると先生に「授業に戻りなさい」と言われたけど、自分はここに生きているだけで価値があると思っていますと答えてた。先生は「ここにいても何の価値もない」といってそんなことはないと反論してたりしてた。何かをして認めてもらうのではなくて何もしなくても生きているだけで価値があると認めてほしかった。

結局、高校でも学校は居心地の悪い場所になり、夏休みが終わったタイミングでもう2度と学校には行かないと思うようになった。中学を知らない自分にとって高校という場所はある程度のカルチャーショックになったことがある。1学期がやっと終わって夏休みが始まる。夏休みは休むものだと思っていたら、夏休みの間も学校に言って授業を受けなければならないということを聞いてひどく反発をした。「夏休み」なのに学校に行って授業をして勉強に励むとは「夏休み」ではない。夏休みではないのになぜ夏休みと名乗って期間があるように語っているのか訳が分からなかった。

そんな不満を持った夏休みを家で過ごしていくと家で過ごす身体ができあがり、もう朝起きられなくなってくる。淡く儚い希望もどこかに押し殺して体の楽に任せて寝る。本当なら恋愛をしてデートして、自転車を二人乗りしたり青春したかった。大人になってわかるのは「青春」というイメージは現役の高校生にとっては暴力であるということである。

「青春」はこんなにきらめいてときめいて甘酸っぱくて人生の中で一番いいものであるかのようにメディアはイメージを作っているがそんな理想の青春を謳歌できないのは何も僕だけではなく8割がたグダグダの青春を送り、自分はこれでいいのかなという不安の中を生きている。大人たちが勝手に決めた理想の青春を得られないとどこかで自分はダメだとか自己否定したくなる気持ちが出てくるけれど、8割がたグダグダな青春を送っていますというアナウンスメントをすれば青春暴力による青少年へのダメージは幾何か経ることだろう。

未来への不安と現在の不安と眠りの楽さと妄想の激しさの中で2学期を過ごしながら、お昼ご飯に作るチャーハンの腕前だけが上がり続ける学生期間を過ごしていく。理解者のいない寂しさもあっただろうが、チャーハンだけは毎日作っていたので腕前は上がった。

何もなく3学期末。

学校の先生が家にきて言っていた。「学校このままだと留年だけど留年してもう一年やるかやめるかどうする?」留年には特に抵抗はなかった。なぜなら小学校のころからろくでなしブルースという漫画を読んでおり、大体の人が留年をしていて、留年しても楽しく学校生活を送っていることを知っていたからだ。かくして4月からまた高校新1年生が始まる。

一歳年下だからなんだ?同級生だ。一歳年下だから何か変わるのか?一歳くらいで偉そうにしていた先輩もいたけど全く変わらないじゃないか。また自分の新学期では気持ちも新たに生活していこう。年を気にしない自分も好きだったし、春はなぜか人をポジティブにする。桜の薄紅色は人の心を癒してむず痒いやる気を起こしてくれるのだ。

留年して新1年生になって知り合いも誰もいないけれど、やっていこう。留年したって特に自分に変わりはない。そう思っていたし、実際そんなに変わったことはなかった。ただ4月の教室移動の時に椅子をもって移動してくださいと先生に言われてみんな椅子をもって廊下にでたときほかの生徒の椅子がふいに自分の足に当たった時、同級生の女の子は「すみません!」と怖いものでも見るかのように腫物でも触るかのようにかかわってはいけない人であるかのように謝罪をしてすぐに遠ざかっていった。

留年して思ったことは、一歳年下でもなにも気にしないのは自分だけであってほかのクラスメイト30名に関して言えば落第して留年したおじさんにはかかわってはいけないそんな存在なのだろうと思った。自分の視点だけではなく常に他人の視点も持ち合わせていなければならないのだなと感じた瞬間でもある。ちょっとしたことである。ちょっとしたことがまた僕を傷つけていく。そんなことがよくあった。

不良と呼ばれる人も留年してもやはりいて、なにかちょっかいを出してきたのでなめられるのは嫌だと5限目に「授業が終わったら、椅子で殴りに行く。授業が終わったら、椅子で殴りに行く」というイメージトレーニングをして授業が終わったらちょっかいを出してきた生徒に椅子で殴りかかった。でも自分はずっと家にいたから力もなくて強く当たらなかった。強く当たらない代わりに「なんだてめぇ!」といって向こうの強いパンチが何発もこっちに入って痛かった。それで倒れて先生に呼び出されてなんでそんなことをしたんだといわれてちょっかいばかり出されていていらだったからしたといった。自分は暴力をふるったけどなめられているのも嫌だったし、結果相手の方が手数は多くてやられたの僕の方だったから喧嘩両成敗でちょっかい出してきた人とは最後握手して終わった。

高校2年目、留年して2度目の1年生のときは5月中頃までしか学校に入ってないと思う。やはり一年目より2年目のほうがつらかった。留年のハードルは自分には辛かった。

大人になってわかるけど、自分は集団行動に向いてないんだと思う。ただ一人で仕事をしたり、勉強したりする分には平均のような値を出せる。集団行動が苦手だと学生の時に気づいていればよかった。大人になってから気づくことばかりだけれど。どうしても学生の時って友達がいないととかみんなと同じじゃないととかそういう同調圧力が強いと思う。そんなプレッシャーに耐えることができなくなってそのまま、2学期、3学期と学校は行かずにまた担任の先生から同じ質問を受けることになる。

「学校このままだと留年だけど留年してもう一年やるかやめるかどうする?」担任の先生は学校に行っていなくても元気かとりあえず月に一度はいえに顔を出してくれていた。本当に顔を出すという程度で問題のある子をの様子を見に来るという程度。今思えば高校は義務教育ではないから別に登校しない人はやめてもらえばいいという気持ちだったんだろうけど、入学した生徒が一人残らずに無事卒業を迎えるという学校の成績にも傷がつくから放っておくということもできなかったのだろうと推測できる。高校は教育ではないビジネスなのだと大人になってからは感じるようになってきた。

留年してもう一度1年からやり直すか、それともやめて退学になるかどうしようかとも思ったけれど、入学した同い年の人たちが3年生で自分だけ成長していない1年生という図式もやはり嫌だったので、「辞めます」といって辞めた。親はどうしていたの?と聞かれることもあるかもしれないが親は全面的に自分のことを支援してくれていたのであなたが決めたことならそうしましょう。といって自分の意思を大事にしてくれていた。

かくして2度の留年を避けることになり一度の留年に踏みとどまったわけだ。17歳の春になるとやることも何もないからどうしようと思ったけれども学校にも所属せず自分の人生はどうなるのか不安だけが募りながら日々を過ごすことになる。

また、続きはどこかで書こうかとも思います。参考までに記録までに書きました。

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