1.出会い

※こちらの小説は、「リクエシーブ!~receive a request~」というオリジナル小説です。この記事では第一話を掲載しています。第二話からはマガジンにまとめてありますので、よろしければそちらもお楽しみください。

※「我らシバクロ探偵社」は「リクエシーブ!~receive a request~」に改題いたしました。内容に変更はありません。


 朝倉伽音(あさくらかのん)は困り果て、とぼとぼと教室へ引き返した。
 あるはずなのに、ない。「それ」さえ見つければ確実に、自分の学園生活は輝いたものになるはずなのに。
 つい先月にあたる四月にこの、私立藤ヶ丘学園高等部の新入生になった伽音は、探し物をしていた。けれど伽音は、その「実体」を知らなかった。知らなかったが、探している。あてもない、途方もない探し物だ。それなのに、探さなければいけない理由があるのだ。
 伽音が教室へ戻り、自分の席につくと始業十分前だった。
 藤ヶ丘学園は高台にある学校で、四季折々の花が綺麗に咲き誇り、外観は西洋の建物を思わせるような煉瓦を模したタイルが使われていることから少し異国感が漂っている。更には大きな時計台も兼ね備えており、県外からも毎年入学希望者が絶えない。春は桜、夏は向日葵、秋は秋桜、冬は椿。四季の移ろいと共に、飽きることなく綺麗な花を咲かせる藤ヶ丘学園は、その外観からも想像できるように、秘密の色香さえ匂うような女子校だ。 決して歴史が古いわけではないのだが(創立者が見たこともないような金持ちで、暇つぶしに創ったとか、大富豪のご令嬢が、死後の遺産争いを起こさせないために財産を使い果たしたとか、噂は幾通りもある)、生徒に対する力の入れ様は凄まじい。制服は細かいプリーツの入ったタータンチェック柄スカートが色違いで二種類、幅の広いプリーツの巻きスカートも一種類用意されている上、リボンとネクタイは自由、更に学校指定のワイシャツも白とピンクの二種類用意されている という、制服を通り越した「ファッション性」の高さも相俟って、近隣だけではない、日本中、数多くの女の子たちのハートを鷲掴みにして止まない。
 しかし、その人気と比例して当然偏差値はべらぼうに高く、結果、「選ばれた者だけが入れる高嶺の女子校」と化しているわけではあるのだが。
 伽音はそんな藤ヶ丘学園高等部に今年、外部入学をした。しかし、教室だけでなく学校全体が中等部から持ち上がりで入学した内部生が九割を占めている。その上溜め息ばかりの伽音に、友達などできるはずがない。
 伽音が育ったのは極々普通の一般家庭だ。学費もそれほど高額ではないこの学校を、両親も手放しで喜んでくれた。特に母親は堪え切れない涙を懸命に拭いながら、嬉しい嬉しいと、伽音の頭を撫で、頬に触り、力いっぱい抱きしめてくれた。伽音の母も、そしてもちろん父も、藤ヶ丘学園合格のために、伽音がどれだけ頑張っていたかを知っている。そして、藤ヶ丘学園を見学したときに輝いていた、伽音の瞳を間近で見ている。なにより、今まで手塩にかけて育ててきた娘が、初めて自らの手で掴みとった「合格」だ。嬉しくないわけがない。母親は夕食に伽音の好物ばかりを揃え(伽音の好物のひとつに、蕪がある。しかし、母親はあまり得意ではないらしく、食卓に上ることは稀なのだが、スープにして出してくれた)、父親は、伽音が一目見ただけでも高級だとわかる日本酒の瓶を食卓に置いた。父親が缶のビール以外を飲んでいる姿を、伽音はその日初めて見た。
 嬉しそうに食事を摘まみ、日本酒を口にするふたりを目の前に、伽音は眼の淵に涙をいっぱい溜めたが、けれど決して泣かなかった。伽音が流したい涙は、絶対にふたりが望んでいる涙ではなかったからだ。
 藤ヶ丘学園の授業チャイムは、とても美しい音色を奏でる。 それは伽音が今まで聞いたチャイムの中で、一番の美しさだ。きっと生涯、これ以上美しいチャイムに出会うことはないと伽音は確信している。それは、重厚な鐘の音と、軽やかな鈴が混ざり合い、ハーモニーを奏でているような、お互いを認め合いながら一緒に歌っているような、とても美しい音色だった。機械っぽさがまったくないその音は、もしかすると毎時間、誰かがチャイムを鳴らしているのではないかと疑いたくなるほどのものだ。授業開始前はその音色にうっとりとし、壇上に立った先生の一言目ではっと我に返る。授業終わりにその音色を聞けば、授業の堅苦しさからいっぺんに解放され、肩の力がぐっと抜けるのだ。
 この美しいチャイムに、伽音が救われていると言っても過言ではない。溜息ばかりの伽音が、唯一救われる瞬間 は間違いなく、このチャイムが美しい音色を奏でるときなのだから。
 伽音は、お弁当の包みを開けるときにいつも思う。「転校生」でなくてよかったと。藤ヶ丘学園は初等部から中等部、中等部から高等部へとエスカレーター式で進学してくる内部生が九割を占め、伽音のクラスに至っては運の悪いことに、外部生は伽音ただ一人だった。どういった基準でクラス編成を決めるのだと、教師を呪いたくなったことは一度や二度では済まされない。しかし、思うのだ。転校生ではなく、外部生でよかったと。
 内部生の間にはすでに確固たる絆が結ばれており、その中に門を潜ってまだ一日二日のヨソモノが入り込めるわけがないと、内部生たちも寸分の誤差もなく正確に理解しているらしい。だから別段、伽音の存在を特別視するわけでもなく、よく言えば伽音のタイミングを全員が待っているようである。しかし、悪く言えば無関心。伽音がいてもいなくても、今まで内部生同士十分楽しく過ごしてきたのだから、とりわけ伽音と友達になる必要もない。「外部生はすぐに馴染めなくて当然」という、双方暗黙の了解が、伽音を窮屈にもしたし弛緩もさせた。
 元々、人の中に自ら積極的に入っていくのは苦手だ。だからこそ、なんとしても「探し物」を見つけ出さなければいけないのに。
 けれど、それは途方の無い探し物のようにも思えた。当てもなく、ただ「探し物」と名のついた約束でしかない。そしてそれはもしかすると、「見つけたい」という伽音ただ一人のエゴに過ぎない可能性もあるのだ。
 それでも伽音は、ある種の使命感に駆られながら、入学して一か月、ずっとそれを探し続けているのだ。
 弁当箱の中身は、チキンカツと卵焼きと、ほうれん草のソテー。プチトマトがひとつ添えられている。伽音は弁当箱とだけ向き合い、頬を膨らませて咀嚼する。周りの喧噪が伽音に押し寄せてきても、決して気にしないことが、教室でひとり昼食を摂るために最も重要なことだ。
 あちらこちらで交わされる会話は、そこかしこで膨らむ。そして狭い教室は、一瞬で膨らんだ会話でいっぱいになる。各々膨張しようとしたり放置されたりするのだが、一度膨らんだ会話が消滅することはない。色とりどりに膨らんだ会話が今日も教室いっぱいを占領し、空間を埋め尽くしていく。教室内、至る所で会話は膨らんでいくけれど、伽音の周りにそういった膨らみは存在しない。空間を持て余している伽音の周辺に、膨らみすぎて窮屈になり、居場所を求めた会話たちが押し寄せてくるのは至極当たり前のことだった。
 冷めたチキンカツは、それでも美味しい。白米と一緒に食べることで、それなりの満腹感は得られるし、さほど体を動かしていなくても、頭は存分に使っている。お昼にお肉を食べられるのは有り難かった。
 伽音は膨らんだ会話に圧迫されてぎゅうぎゅうになりながらも、気にすることなく食事する。伽音の隣は相澤(あいざわ)という女の子で、肩まである髪の毛にふわふわのパーマがかかった、「お嬢さま雰囲気」この上ない子だ。栗色の髪、甘い声、おっとりとした笑い方。彼女のグループに属する子は、皆相澤をとても可愛がっているようで、ここまでお姫さまキャラが似合ってしまい子なんて存在しないとすら、伽音は思っている。当然だが、話したことはない。
 相澤を中心にお弁当の包みや菓子パンを広げる女の子グループの隣で、伽音がいつでも修行僧のように無心でご飯を食べているのかといえば、もちろんそうではない。たまには会話を盗み聞きし、「そうなんだ」「へー」と心の中で相槌を打つ。伽音の心がたまにうずうずすることなんて、もちろん相澤は知らない。
 かち、かち、とプラスチックの箸と弁当箱がぶつかる音が、伽音の耳にはとても鮮明に聞こえる。この教室の中で一人、伽音は息を殺すようにして過ごしているわけでは決してないが、今までの義務教育課程の中で、こんな風に俗世から取り残されて過ごしたことは只の一度もなかった。小学校、中学校と、決まった地区で過ごした同級生が決まった学校に進学し、近所の子もいればそうでない子もいたけれど、そこには必ず顔を知っていて、話すことのできる存在がいたのだ。けれどそれがきっと、義務教育の強みなのだろう。ある程度知っている空間に、ある程度知っている同い年の子がたくさんいる。自分たちにとって決して小さいとは言えないが、けれど確実に小さな狭い空間が自分たちの世界すべてだった。
 しかし、高校は違う。
 突然開け放たれた扉から、全員が外の世界に飛び出す。散り散りになって駆け出すことで初めて、自分だけの世界が構築され始める。伽音も当然、その中の一人だった。もちろんそこに、期待も憧れも好奇心も、すべてあった。胸を躍らせていたし、膨らませていた。けれど違うのだ。この状況は違う。世界に馴染み、色も形も調和され始めているところに、別空間から来た別種として一人放り投げられてしまった今の形は、伽音が望んでいたものではないのだから。

 廊下を一人で歩いていると、ほんの少し雨の匂いが混じっている気がした。伽音は立ち止まり、窓の外を見遣るが、そこには綺麗な青空が広がるばかりで、雨の気配など感じ取れない。五月の終わりという季節柄、確かにこれから雨は増えるだろう。しかし、今日の空はどう考えても、雨とは一切無縁だ。それどころか、春の柔らかい雰囲気と気の早すぎる夏の気配が少しだけ混じった、とても綺麗で澄んだ青は、伽音の心を一瞬捉えた。そして、捉われてしまった伽音はつい手元の力が緩み、持っていた筆入れを落としてしまう。化学実験室からの帰りだった。
 しゃがんだ伽音が筆入れを掴もうとしたとき、肩の辺りにトン、と軽い重みが走る。ぐっと上から押さえられたようなその感触は一瞬で消えたが、誰かに触れられたことは確実で、伽音は後ろを振り向いた。
「ごっめーんっ!」
 伽音と目があったその人は、すでに伽音とかなり距離が出来ていた。振り返りながら右手を口許で立て、短いスカートを忙しなく揺らし、廊下の向こうに駆けて行く。伽音が瞬きしている間に廊下の角を曲がり、あっという間に姿が見えなくなる。高い位置で結ばれたポニーテールが、スカート以上に激しく揺れていた。
 あまりにも突然で、尚且つ一瞬の出来事に伽音はしばらく茫然とその場を動けなかった。急にはっと自分の中に意識が戻ってきて、立ち上がろうとしたそのとき、目の前に赤いペンが落ちているのに気づく。自分の持ち物ではない上に、どこにでも売っている赤いサインペンを伽音は拾うのを一瞬躊躇したが、一度目についたものは気になってしまい、そのまま拾って筆入れの中に仕舞う。持ち主が見つかるとは到底思えないが、物がサインペンだ。まさか盗みだ泥棒だと、騒ぎ立てる人もいないだろう。まあ、伽音自身赤いサインペンを使う機会というのは滅多にないけれど、なにかで必要になったときは有り難く使わせてもらおうと思う。
 伽音が教室に入ると同時に始業チャイムが鳴る。変わらない綺麗な音色に思わず笑みが零れ、何故か先程の忙しなく揺れたスカートを思い出した。

# # #

 昇降口を出ると肌寒かった。なんでこんな時期に霧が……と伽音は辟易したのだが、それは伽音の勘違いだった。細かな水が顔にあたる。滴るほどではないが、衣服を纏った状態で肌が濡れるというのは多少なりとも不快だ。
 外は、昼間見た綺麗な青からは想像もできないような霧雨が空間を覆い、地面を濡らしていた。
 放課後は探し物をするのに絶好の機会だ。時間無制限の一本勝負。予測も立てられなければ、ヒントも得られていない。そんな探し物をするのに、時間無制限というのはとても有り難いハンデだ。ただ、目星はついている。それは目星と呼べないほど広大な目星なのだが、探し物は校内には決してない。あるとすれば必ず、学園敷地内の校外だ。つまり、雨というのは捜索中止も辞さない、伽音にとって今一番厄介な自然発生物である。探し物をするのに、傘ほど邪魔なものはない。このところ晴れが続いていたのでレインコートも持参していない。けれど伽音は逡巡する。もしそれが、雨に濡れたらどうしよう。雨で流れたらどうしよう。この雨にやられてしまったら……そのカタチを変えてしまったら……。なにかもわからない「それ」に、伽音は強く想いを馳せる。その強い想いが、伽音に中止の決断を下させない。
 昼間はあんなに晴れていたのだ。少し待てば止むかもしれない。そう思うのは一瞬で、すぐに「けれど止まなかったら?」と、反対側から伽音を不安が襲う。開始か、中止か。両端から波がザブザブと伽音を濡らし、どちらの波にも安易に飛び込めない。
 楽しげな笑い声を上げた同級生が伽音の傍で立ち止まる。藤ヶ丘学園はその牧場すら経営出来そうな敷地の広さと比例して当然、校舎も大きい。昇降口は学年ごとに分けられているため、一年生が使用する昇降口はこの時期、いつだって楽しさと嬉しさが充満した、新鮮な空気が流れている。こんな、霧雨の降る日でも。
「さっきまで、あんなに晴れてたのにね」
「うん。雨が降るなんて予想外だよ、まったく。でもよかったー。里奈が置き傘持ってるなんて。さっすが、用意いーねー、リナサマ」
 傘がパンと気持ちのよい音を立てて開く。柄はピンクの水玉だ。ビニル傘に描かれたその水玉はとても可愛らしい。歩幅を合わせて同級生が肩を寄せ合いながら帰っていく。例えば今一言、「もしかして傘ない? それなら一緒に入ってく?」の一言をかけられれば、伽音はあっさり捜索中止を決断しただろう。
 名前も、顔も知らない同級生にそんなことを期待してしまうなんてどうかしている。
 伽音は踵を返し、乾いた地面の校内に入る。ローファーを脱いで簀の子に上がると、コンクリートで固められただけの床から上がってくる冷気を直に感じてしまう。足が冷たい。自分の下足箱を開けてローファーを仕舞い、上履きに履き替えた。藤ヶ丘学園の上履きは二種類あり、サンダルタイプとスニーカータイプのものだ。伽音は、脱ぎ穿きしやすいという理由でサンダルタイプを愛用 している。制服同様、上履きのデザインも当然拘って作られており、伽音はとても気に入っていた。伽音が歩くたびにペタンペタンとサンダルが奏でる音が、静かな廊下に響く。体育館の方から、バスケ部かバレー部かバドミントン部か、運動部が鳴らす笛の音と掛け声が聞こえる。伽音が曲がった反対側の廊下で、陸上用ランニングシャツを着た生徒たちが並んで声を揃えて数を数えている。腕立て伏せの真っ最中だ。合唱部が発声練習を始め、吹奏楽部が基礎練習であるロングトーンを始めている。「雨だよ、雨~」と言いながら階段を下りていく三人組の女の子とすれ違う。
 もう五月なのに、まだ五月だもんねと言えるような寒さが、伽音の身にも沁み込んできた。

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 藤ヶ丘学園は、無駄に広い。煉瓦の風合いそのものを感じ取れる校舎は、初めて来た者はもちろん、見慣れるまでは大多数を圧倒する。無理もない。初等部、中等部、高等部の校舎が並び、その奥にそびえ立つ時計台を正門から一望するのはまさに「圧巻」の一言に尽きる。
 だが、その圧巻の風景を目にするためには、ひとつの難所をクリアしなければならない。
 学園まで緩やかに続く坂道は、ゆったりとしたカーブを描いている。運動部の生徒は元気よくその坂を立ちこぎで登り切り(しかも、友達を見かけると追い越し際に挨拶をするという荒技まで披露するので、そのパワーは女子校といえども侮れない)、体力に自信のない生徒は自転車を降りて街路樹の中を歩く。緩やかな坂道故、帰りは爽快な気分を味わえるので、自転車通学の生徒はほとんどが自転車で学園までやってくる。学園に続く坂が始まる手前に駐輪場(通称、手毬。手前の駐輪場を略して、テマリ。女学生らしい略語が、やはり藤ヶ丘学園でも定着している)がある。「藤ヶ丘学園前」と名の付いたバスの停留所もある。通学にバスを利用しているはバス停から学園まで歩くか、手毬に停めた自転車で学園までの坂道を上る。言うまでもなく、後者は運動部の生徒しかいない。もちろん、自転車通学の生徒も、手毬に自転車を置いて歩くことは可能だ。
 しかし、手毬に自転車を停める生徒は探すのが難しいくらいに、まず、いない。自転車通学の生徒は学園内の駐輪場(通称、ミュー。坂道前の駐輪場、手毬から、手毬→手毬唄→歌→音楽→ミュージックの、頭文字をとって、ミュー。と、少々強引な連想ゲームが行われた結果だ)に自転車を停める。藤ヶ丘学園は自転車通学の生徒が多いため、このミューは意外に活気のある場所だ。自転車を停めるための駐輪スペースが十分あり、また雨を凌げる屋根もあるのでなにかと溜まり場になりやすい。
 そして、緩やかな坂道を上りきると(ちなみに……この坂道にも通称がある。通称、ふわふわ坂。優しいからイメージ出来るものがイコールふわふわだったという漠然とした理由なのだが、「坂は所詮坂!」という意見も根強く、あまり定着していない)まず迎えてくれるのが二本の柱で立派に構えられている正門だ。万が一、巨大生物や未知の力を操る未確認生物が地球に上陸しようとも、多少のことではびくともしなさそうなほど立派に立った門を見ると、生徒はどこか安堵に包まれる。緩やかではあるが、今日も無事坂を上り切ったという安堵も、やっと着いたという安堵も、もちろんあるだろう。
 門を潜り、藤ヶ丘学園を訪れるとまず目に入るのが当然、立派な時計台だ。位置としては一番奥であるにもかかわらず、その存在感は校舎を凌駕している。左手に行くと初等部、右手に行けば中等部があり、真っ直ぐ歩いた奥に、高等部がある。時計台は、その高等部からさらに進んだ場所にそびえ立ち、見る者を一度は必ず圧倒する。時計台には、展望台が兼ね備えられているくらいで特別面白い施設があるわけではない。そのため生徒はすぐに飽きてしまい、一瞬で興味をなくして近寄らなくなるのだが(第一、遠くて足を運ぶのだけでも面倒なのだ)、学園に初めて赴任する教諭や、年に数回しか来ない来賓などは「やはり、来たら必ず寄らなければね」と面白味もないその建物に足を運び、強者はひぃひぃと息を上がらせて展望台まで螺旋階段を上る。生徒からすれば物好き以外の何物でもない。しかし、街のシンボル的存在でもある藤ヶ丘学園の、この時計台 は、一部の人間からすればとても特別なものだった。
 時計台は、朝の九時、正午、そして夕方六時に鐘を鳴らす。ゴーン、ゴーン、と体の芯まで響いてくる鐘の音は、この街一体を包む。その音は藤ヶ丘学園で鳴る始業終業チャイム同様、心をとても穏やかにする音だった。 そして、朝昼夕と、鳴っている音は変わらないはずなのに何故か、朝に聞けば一日の始まりを予感させる、活力漲る音に聞こえるし、昼に聞けば活動空間の一時休息を知らせ、夕方に聞けば一日の終わりと同時に休息を体内に伝達し、途端に体から力が抜けるように感じてしまう。この街で生まれ、この街で育ったものは皆、藤ヶ丘学園の鐘の音と毎日を過ごしてきた。自分の生活リズムを奏でてくれると言っても過言ではない時計台は、やはり特別なものに違いなかった。

 昼休みは残り二十分を切っていた。今日もひとり、教室中から押し寄せてくる巨大な風船に頬を押し潰されながら、それでもやはり無関心に伽音は昼食を摂った。相澤は、現在放送中の恋愛ドラマに最近ハマっているらしい。主人公の恋人役の俳優がとても格好いいと話す声は、恋する乙女のそれに似ていた。
 伽音は足もとのグラウンドの渇いた土を眺めたり、そうかと思えば傍にある大木に目を凝らしたり、傍から見れば近寄りたくないほど不可思議な行動を一人、繰り返す。藤ヶ丘学園高等部は、よくわからない同好会も少数ではあるが存在しているので、そういった同好会メンバーの調査かなにかだと皆思ってくれるだろう。
 緑を眺めていると目に良いと言われることもあるが、伽音は大木から目を逸らし、目頭を押さえる。大木の向こう側から、ちらちらと姿を現しては隠れていた太陽の光にあてられたせいもあるだろう。太陽が高く登った昼間、野外という一番明るい場所にいるにも関わらず、逸らした目は一瞬明るさを奪われた。目の奥の方で、点滅しているようにちかちかと、少しの闇を連れてくる。目に力を入れた状態で、眺めるというより凝視すれば、緑を見ていても目は疲れる。伽音がこの昼休みに得た最も確かな答えだった。

 相澤は、相変わらずお嬢さま雰囲気を崩さず席に座っていた。ふわふわとした栗色の髪は、同じ女子であっても一度触りたいと思わずにはいられない。伽音はそんな邪心を隠し持ちながら自分の席に着く。相澤と仲良しグループの女子たちは、相変わらず相澤を囲むようにして立ち、柔らかな微笑みを浮かべて相澤の話に相槌を打つ。やはり、お嬢さま雰囲気も去ることながら、お姫さま雰囲気もたっぷり纏う相澤。声まで可愛いのだからもう生まれ持ったものというか、生まれついた星が違うのだとすら思ってしまう。
「梢(こずえ)くん。あたしはぜーったい、梢くんだもん」
 相澤は、伽音が席を立つ前と同じように、ハマっている恋愛ドラマについて熱弁している。梢綾(りょう)という今人気の若手俳優が、どうやら相澤の胸にメガヒットした相手らしい。グループ内でアイドルや別の俳優、更には藤ヶ丘学園高等部の先輩の名前が飛び交うも、相澤は梢綾以外眼中にはないようで、あれもこれもと目移りしているほかの女子たちを尻目に一人、梢綾を推していた。
 伽音はちらりと相澤を窺い、すぐに自分の机に視線を戻す。相澤は、肩まである栗色の髪の毛にとてもふわふわしたパーマがかかっていて、声も可愛らしくておっとりしていて、お嬢さま雰囲気この上ない女の子だ。その相澤が、頬を少し膨らませて梢綾を推している。お嬢さまはいつだって、民を思いやり、民の少し上から民を微笑ましく眺め、何人も否定せず常におっとりと笑う。そんなお嬢さま相澤が見せた子供っぽい、拗ねたような表情。伽音は一度も話したことがないはずの相澤が、一度も目があったことすらない相澤が、一度も笑いあったことがない相澤が見せてくれた初めての表情に、急に嬉しくなってしまう。勝手に距離を縮めてしまったような、少し罪悪感を持ち合わせるどきどきが伽音の胸を襲う。始業チャイムの鳴る時刻が一刻一刻近づく教室は、残された猶予が短いほど時間を惜しむように賑わう。当然風船はあちこちで膨らみ、破裂もせずにただ膨張し、数を増やしていくだけで伽音の身を一層圧迫するだけなのに、伽音はそこに、息苦しさを感じない。心臓がきゅっと縮まるような肩身の狭さも、ぎゅうぎゅうに押し潰される不快さもまったくない。
 相澤の声だけが、伽音の中で際立つ。
「大体、シバクロ探偵社って言ったって、うち女子校だから女の人でしょ? 確かに困ってる人を助けるなんて、ヒーローみたいで格好いいけど」
 シバクロ探偵社……?
 伽音は初めて耳にする単語だった。
 困っている人を助ける、シバクロ探偵社。そのワードに、今現在恐らく藤ヶ丘学園で一番困っている伽音が惹かれないわけがない。しかし、惹かれてしまっても身動きが取れない。相澤に、「ねぇ、シバクロ探偵社ってなに?」と訊くわけにはいかないのだ。しかし、「助けてくれるかもしれない存在」を伽音が知ってしまった以上、これはもうどうしても助けてほしい。「シバクロ探偵社」という学内集団(?)の手を借りられるか借りられないかによって、伽音の今後の学園生活が異なると言っても過言ではない。
 今すぐ席を立ちたい衝動に駆られる伽音を余所に、始業チャイムが鳴り響く。今の伽音にとって無情に思えてもいいはずのその音は、けれどいつもと変わらず伽音の心に沁みる。伽音は、心の中でシバクロシバクロと唱える。授業開始に伴い、教室が、学校全体が静まり返る中で、伽音の心だけはやけに騒がしい。昼食後の眠気を誘う空気が教室中に蔓延しはじめる。相澤が、シャーペンを握った右手で頬杖をつきながら、こくんとひとつ船を漕ぐ。お嬢さまはいつだって自由奔放だ。
 妙に冴えわたった伽音の頭は、教室中の誰よりも明瞭に数学の授業を聴き入っていた。

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 職員室という空間は、学校で唯一大人の安息が許される場所だ。伽音は金属でできたスライドドアのドアハンドル を握る。職員室というだけで妙な緊張感があるのに、シバクロ探偵社に繋がる情報が得られるのだと思えば、緊張とは違った胸の高鳴りがある。少しの力を加えるだけで開いた軽い扉のその奥に、伽音は滑り込むように入室した。
「シバクロ探偵社? ………………ってああ、あれか。二年の黒瀬(くろせ)がやってる」
 担任の川中(かわなか)は、随分考えてから思い出したようにそう言った。どうやら存在を知っているらしいことに伽音は安堵し、頭に人差し指を当てながらうーんと唸る川中の次の言葉を待つ。
 川中はまだ二十代の男性教諭だ。若い上に容貌も爽やかで、如何にも「頼れる男性像」そのものなので、教室内でその名を耳にすることも珍しくない。入学式当日に発せられた「困ったことがあったらなんでも相談しろ。世界の全員が敵になったって、僕はお前ら一人一人の味方だ」という台詞は、今も教室内で語り継がれる名台詞ナンバーワンだ。しかし、伽音はそういった気障というか格好つけたところに合わないものを感じ、密かに川中のことが苦手だった。けれど現状で頼れるのは川中しかいないのは明確で、この現実を打開するためにも、シバクロ探偵社を見つけることは伽音にとって最重要課題である。
「確か、美術棟に部室があるんじゃなかったっけなぁ。うん、美術棟だ美術棟」
 藤ヶ丘学園高等部は、特別教室がある棟には特別教室の名前がつけられている。すなわち、美術棟とは、美術室がある棟という意味だ。校舎が無駄に広いので、こうでもしないと教室の所在を覚えられない。
 伽音がありがとうございます、と頭を下げ、踵を返したその時だった。
「朝倉」
 川中に呼び止められ、伽音は振り返る。
「外部生は苦労も多いだろう。困ったことがあれば相談しろよ? 必ず力になる」
 恐らく、とても良い教師なのだ。若いけれど否若いからこそ責任感が強く、生徒一人一人ときちんと向き合おうとしてくれる。しかし、やはり伽音にはその熱血漢染みたところが合わない。
 伽音は了承も拒否もせず、もう一度ぺこんと頭だけを下げて、職員室を後にした。

 美術棟は、職員室のある一号棟からは少し距離があった。伽音が渡り廊下を小走りにわたっていると、遠くの方で金属音が聞こえた。カキーンという玩具のように古典的な音は、ソフトボール部が練習している証拠だ。その音と同じく遠くの方から聞こえる運動部特有の掛け声。ハイオーハイオーだとか、ナイサーという、号令のように揃った女の子たちの声。伽音はそんな声の波を泳ぐように廊下を渡り、美術棟へ急いだ。
 その部屋は、三階の一番奥、突き当たりにあった。 廊下に面した窓から、グラウンドが見える。伽音が上がる息を整えながら教室の前に立つと、心臓がどきんどきんと主張し始める。走ってきたせいばかりでは、決してない。ついに、見つけたのだ。
 特別変わった様子は、扉から見受けられない。ドアについた硝子が曇り硝子のせいで、中の様子も窺えなかった。ただ、突き当たりにある教室というのはどの棟もほかの教室より広い。よって、この教室も幾分は広いのだろうという予想だけが出来る。
 教室の扉、ちょうど目線の高さにコルクボードがかかっている。そのコルクボードに、カラフルに彩られた木材で「シバクロ探偵社」と書かれていた。 ここで、間違いない。
 伽音は控えめに、コンコンとドアをノックする。中の返事を待たずに、ゆっくりと引き戸を開ける。職員室の引き戸と同じ、軽くて流れるように開くそのスライドドア。けれど、職員室のものとは確実に違っている。ドアの動きと合せるように、シャラシャラと金属が擦れる音がした。伽音が見上げると、ドアの上にウィンドチャイムがつけられている。 綺麗な音色を奏でるウィンドチャイムに目を奪われながらも、伽音は教室に目をやった。そこは、特別彩られているわけでもない、普通の教室だった。むしろ一般教室よりも圧倒的に机が少なく、特別教室のように備品が多数置かれていない分、とてもがらんとした印象を受ける。教室は、ドアから見て奥行ではなく横方向に長く、また出入り口は伽音が開けた教室左だけのため、右方向にばかり長い。その教室の、手前側に机が四つ、グループ学習をするときのような形で向かい合わせにぴったりとくっついて並べられている。奥の掲示板には、何故か大きな見取り図が、いくつも貼られていた。
 机に収まっている椅子に座っていた生徒と目が合う。とても綺麗な、つやつやとした髪の毛の少女がおっとりとした表情で伽音を振り返っている。相澤とはまた違ったタイプの「お嬢さま」だ。城から出たこともないようなほど白く、とても物静かそうな。
「あの、黒瀬さんですか?」
「え?」
 伽音は、川中から得た情報を頼りに話しかける。話しかけられたその人は、声にまで繊細さが表れたような、絹糸に似た綺麗な声を出し、長い睫毛を見せるように一度ぱちりと瞬いた。 この触れば折れてしまいそうな人が、困っている生徒を助けるヒーロー……には、決して見えない。しかし、内部生とはいえ入学して間もない一年女子にまで存在が知られているのだから、ヒーローに間違いないのだろう。
「あたし、一年一組の朝倉伽音と言います。シバクロ探偵社さんに、用事があって来ました」
 伽音がそう自己紹介すると、目の前の彼女は納得したように
「ああ」
 とひとつ、頷いた。そして隣の椅子を引く。
「どうぞ、座って?」
 微笑んだ顔は、女神を思わせるような美しいものだった。

「黒瀬は局長の名前なの。わたしは局員の芝原(しばはら)。芝原千歩里(ちほり)です」
 よろしくね、と千歩里が微笑む。その完璧に黄金比を形容した笑顔は、当然伽音を見惚れさせたが、すぐに我に返って「よろしくお願いします」と頭を下げる。
 引かれた椅子に伽音が座ると、千歩里は席を移動して伽音の真正面に座った。改めて正面から見つめられると、硬直してしまう。そしてはっきりと自覚する。相澤とは本当に、まったく違うタイプのお姫さまだと。目の前の芝原千歩里という人が纏う空気は、この地上のものとは思えない。遥か彼方、見たこともないほど美しい世界から、きっと運命とか風とかそういう類の悪戯に運ばれて、この地に降り立ったのだ。それが嘘だというならば、意地悪な魔女とか継母とか、そういう類の嫉妬の渦で、この地に飛ばされてきてしまったのだ。そうであるに違いない。
 何故ならこの、芝原千歩里という女生徒は、「美しい」という言葉が陳腐に思えるほどの美麗さを持っている。どんなに手を伸ばしても、どんなに触れたいと願っても、絶対に触れることは叶わない。そんな、願うことすら許されない、聖域に生きている人だと思う。そんな聖域に生きた女神が、伽音を見てふふっと声を漏らして笑った。
「そのピン、可愛いね」
 千歩里が頬杖をつき、楽しそうに伽音の前髪に刺さるヘアピンを見る。
 伽音は、前髪が長い。髪型はボブなので、髪の毛自体はさほど長くないのだが、馴染みの美容室で髪の毛を切るときに、前髪もボブと同じ長さに切り揃えてもらっている。当然、そのまま前髪を垂らしていては前が見えないし邪魔だ。だから伽音は、前髪を左に流し、ピンで留めているのだ。花モチーフのヘアピンは値段も手ごろで可愛かった。一目見て気に入ったそれを、伽音は入学式の前日に購入した。
 けれど、これは近所の雑貨屋に売っていたただのヘアピンに過ぎない。姫に褒めてもらえるような代物では決してない。伽音は途端に恥ずかしくなり、ヘアピンを隠すように差し直した。だが、自分で気に入って選んだものを褒めてもらえるというのは、やはり純粋に嬉しい。
「ありがとうございます。近所に、可愛い雑貨屋さん見つけちゃったんです。そこで、一目惚れしちゃって。ほかにも可愛いピンとか、ブレスレットとかたくさんあったんですけど、手持ちのお金じゃ買えなくて」
「雑貨屋さんかぁ。いいねえ。雑貨屋さんのさ、アクセサリーコーナーってどうしてあんなにキラキラしてるんだろうね?」
「わかりますっ。こう、なんていうか、あの空間だけ、宝石箱みたいなんですよね。ひとつひとつのアクセサリーが綺麗に光ってて……手に取ると、自分だけの宝物を掬っちゃったみたいで」
 伽音の声が弾かれたように大きくなった。言葉に合わせて自然と動き出す自分の手に、伽音自身が嬉しくなっていく。そんな様子を見ていた千歩里が、また楽しそうにふふふ、と笑みを零す。笑われたのだと捉えた伽音の言葉と、動きが止まる。姫に笑われるというものは、すごく恥ずかしい。
「あ、ごめんね? さっき教室入ってきたときさ、かなり切羽詰まった感じに見えたから、伽音ちゃん。なにか悩み事の相談なのかなって思ったんだけど。今、すごく楽しそうに話すから。ちょっと安心っていうか、ね」
 千歩里が何気なく発したその言葉に、伽音は自分の現実を見た気がした。
 千歩里の言うことは尤もだ。藤ヶ丘学園に入学して、こんな風に誰かと言葉を交わしたことは初めてだ。暗いわけじゃない。一人が好きなわけじゃない。けれど、伽音の世界はこの藤ヶ丘学園ではいつだって、伽音一人で完結していた。なにを思っても、なにを感じても、それを伝える相手すら、見つけることが出来ていなかった。今日なにがあって、明日なにが起こるのか、話す相手すら見つけていなかった。そして伽音は確実に、そういう相手を欲していた。人と会話することに、人と関わり合うことに、伽音は今、とても飢えているのだ。
 突然落ち込むように俯き、静かになった伽音を見た千歩里は、慌てるわけでもなく取り繕うわけでもなかった。ただ、伽音の頭に優しく手を置いてくれた。とても、温かい。
「黒瀬も、もうじき戻ると思うわ。だから、大丈夫。伽音ちゃんは、なにも心配しなくていいのよ。なにも、不安に思うことはないの」
 伽音の事情など知るはずもない千歩里なのに、何故か伽音の事情をすべて知っているような口調で言葉を、伽音に乗せた。千歩里の手はとても温かく、とても優しい。そんな風にされると、伽音は泣きたい気持ちになる。高校に入学して一か月。伽音は一人で走り続けていた。たかが一か月。そう鼻で笑う人もいるだろう。しかし、伽音はこれまでの人生でそれほど長い間、全力で走り続けていたことはなかった。まだ十五歳の伽音は、早くも息切れし、倒れ込む寸前だった。千歩里に言葉をかけられたことで、奇しくも伽音はそのことに気づいてしまったのだ。ずっと、誰かに助けてほしかった。ずっと、誰かに声をかけてほしかった。ずっと、誰かに大丈夫だよ、と、そう言ってほしかった。一瞬でいい。誰かに目を止めてほしかった。自分の存在を、誰かに認識してほしかった。伽音にとって千歩里が、藤ヶ丘学園で初めて出会った、そんな存在だったのだ。
 伽音がぐすっと洟を啜ると、千歩里は伽音の頭を優しく撫でて手を離した。俯いたまま顔を上げない伽音に、千歩里はなにも言わない。千歩里の優しさに包まれた、とても静かな空気が教室に停滞する。
「はー、ただいまぁ」
 そんな風に漂っていただけ、留まっていただけの安穏を好む空気に突然、槍が突き立てられた。教室の扉がなんの前触れもなく突然開き、入って来た一人の侵入者。その声は決してうるさいわけでも大きいわけでもなかったが、穏やかだった教室を突如切り裂いたその声は、教室を漂っていた空気にとっては間違いなく「攻撃」でしかなかった。
「咲紀(さき)。おかえり」
「うん。ただいま。あれ、お客さん?」
 空気が一変したことは、伽音にももちろんわかっていた。先程まで感傷的だった気分が、今は陰に隠れてこちらを覗くように様子を窺い始める。少しだけ濡れた目元を、掌で拭う。顔を上げた伽音は、入って来たその人と目が合った。
 頭の高い位置でポニーテールを結ったその髪からは、後れ毛など見て取れない。ポニーテールの結び目から細い棒が飛び出ている。見慣れないそれが何なのか、伽音は一瞬わからなかった。しかし、見覚えがある。そして、暫く眺めて漸く合致した。
 簪だ。
 玉飾りのついた、金色の簪が結び目に刺さっているのだ。 簪、というものの存在はもちろん伽音も知っていた。しかし、それは和装小物に過ぎず、伽音の中では決して身近な存在ではない。恐らく、実物を目にするのも初めてだろう。それなのに伽音は、一瞬で彼女の簪に目を奪われた。きらりと輝く金に、可愛らしい玉飾り。これほどまでに美しいヘア小物を、伽音は今までみたことがない。そうして暫く見惚れてしまい、はたと我に返ると、伽音は一度瞬きをして思案する。
 どこかで、会ったような気がしたからだ。
 どこで会ったのだろう。思い出せないが、会話がなかったことは確実だ。伽音が藤ヶ丘学園に入学して初めて会話を交わした人物は、目の前にいる芝原千歩里で間違いない。その事実は、伽音が一番よく承知している。否、伽音のほかに、知る人間などいるはずもない。
 しかし、胸の中に出来てしまった消化できない靄が伽音はとても気持ち悪く、なんとか咀嚼して飲み込もうと努力する。もしかすると実際、ただ廊下ですれ違った、見覚えのある顔程度の印象で会ったことなどないのかもしれない。同じ学校に所属していれば、決してすれ違ったことはないと言い切ることの方が難しい。けれど、見覚えがあるのだ。何よりその、ポニーテールに。
 揺れるポニーテール。靡くスカート。廊下の角を曲がったうしろ姿……。
「あ」
 あの時の、彼女だ。あの時、と言っても実際、あの時なにが起こっていたのか伽音は今でも理解していない。ただ、しゃがんだと同時に、肩のあたりに重みが走った。一瞬でそれは消えたけれど、振り向くと彼女が廊下の向こうへ駆けて行くところだった。振り返りながら、何故か伽音に謝る。そして一瞬にして、その姿を消してしまったあの時の。
 彼女だ。
「伽音ちゃん?」
 声を発して固まる伽音に、千歩里が不思議に思ったらしい。伽音の名を呼ぶけれど、伽音はなんと説明してよいものかわからない。そもそも、伽音の中であの時のことは、衝撃が走った……とまではいかないが、日常のなかにあった一瞬の非日常というか、とにかく驚いた出来事ではあった。なにが起きていたのかは今でもわからないが、説明できなくとも、確実に風が舞い上がった瞬間だった。ずっと静かに吹いていた風が突然、あの一瞬だけ音を立てて舞い上がったのだ。だから鮮明に覚えていたわけだけれど、目の前のこの人が同じように覚えているとは限らない。
「あ、すみません。えっと……」
「ああ、ごめんね伽音ちゃん。紹介する。この子が、黒瀬咲紀。シバクロ探偵社の局長よ」
「えっ……」
 伽音の逡巡を勘違いした千歩里が、間に入って伽音に紹介する。そう、侵入者ではない。目の前の女生徒は、このシバクロ探偵社の局長なのだ。
「えーっと、伽音、ちゃん? よろしくね。局長の黒瀬咲紀です」
「あっ……朝倉伽音です。よ、よろしくお願いします」
 伽音は勢いよく立ち上がり、そのまま椅子を倒した。それでも伽音は気に留めず、咲紀に向かって頭を下げる。その様子を見て咲紀が口を大きく開けて笑い始めた。
「んははっ。伽音ちゃん、緊張してるの? 大丈夫、大丈夫」
 咲紀は伽音のうしろに回ると、椅子を起こして伽音の肩をぽんぽんと叩く。千歩里とはまた違う、力強さの中に強靭な優しさがあるその手に、伽音は再び入っていた肩の力がまた抜けた。
 伽音が咲紀を振り返ると、優しい瞳と目が合った。顔まではっきりと思い出せないけれど、確かにあの時の彼女だと確信する。けれどやはり伽音はその時のことをどう説明すればいいのか、今、伽音の中にある感情をどう説明すればいいのか言葉が見つからず、静かに座った。
 風が舞い上がったあの一瞬の出来事が、伽音を変えたわけでは決してない。むしろ、こうして再会しなければ、忘れていた出来事だろう。印象的ではあったが、鮮明に焼き付けられた出会いではなかった。
 ただ、確かに伽音にとっては、人と交わった瞬間だった。藤ヶ丘学園に入学以降、伽音から伸びる線は常にまっすぐで、他とは反発し合っているのではないかと思えるほど、他の線に近づかず、他の線も近づいてこなかった。伽音が人と会話し、その楽しさを思い出したのはつい先程、千歩里との会話があったからだ。実際、咲紀と出会ったあの一瞬は、会話を交わしたわけでも笑顔を見せあったわけでもない。ただ、咲紀の一瞬と伽音の一瞬が交わった瞬間であったに過ぎない。だが、藤ヶ丘学園内の伽音に措いては、その一瞬はとても貴重なものだった。今まで他と触れ合ったことのなかった自分の線を、確実に他者が触ってくれた瞬間だった。
「で、えーっと。今来たから話が見えてなくて申し訳ないんだけど、伽音ちゃんは依頼しにきたってことでいいのかな?」
 咲紀が、教室後ろに並んでいるスクールロッカーの上に座り、そう訊いてくる。普通教室では、このロッカーに生徒が各自荷物を入れたり私物入れにしたりしてすべて埋まっているのだが、この教室のものは所々使用されているだけで、ほとんどが空の状態のままだ。咲紀が、ちょうど自分の足の高さにぽっかり空いた穴で遊ぶように足をぶらつかせる。
 咲紀の言葉に、千歩里も思い出したように伽音を見る。視線を集めた伽音は決意を体内に伝えるように息を呑み、右手で固い拳を作った。
「はい」

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