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【死海文書】バルセロナの定義。美しい勝利への必要十分条件。

勝利を収めても内容が伴わなければ評価されない点は、バルセロナに限った話ではない。強豪は特にそうだろう。

しかしクレというのは、内容を前段に置きながら美しいかどうかを見極めんとする生物である。

最上級の内容や濃いオリジナリティを求める様を指して、芸術評論家か原理主義研究家、果てに「もうお前が監督やれ(笑)」と揶揄される。
そういう意味でほとんどのクレは変態と言っていい。

オランダからの輸入品「美しく勝利する」考え方は、信念を持った人を通じて脈々と繋がり、哲学として昇華し、いつの日か沼になった。
自ら沼にハマった変態達は、いつも美しさに飢えている。

具体的に何か、という話ではない。
自分の中のバルセロナの定義が以下である以上、
答えを出すのは一生無理だろうと思う。

バルセロナは「美しい」を追究する存在である。

では何をもってバルセロナたる状態とし、
何をもって変態たちは満足するのか。

①「勝利すれば美しい」のか

この命題は一般論であり、十分条件である。
バルセロナでさえ哲学は美しく「勝つ」ことだ。
「美しいサッカーをする」ことではない。

極論を言えば、MSNで主要リーグ全王者を軒並み粉砕する途中でグアルディオラまで倒して獲ったビッグイヤーも、そのグアルディオラが戦術的転換点をもたらしながら獲った3冠も、ロナウジーニョ旋風で蹂躙したクラシコも、全て同格に美しかった。なぜか。

勝ったからだ。

MSNが、グアルディオラが居て無冠だったら?ロナウジーニョが結果を出していなかったら?「美しい」などという評価の土俵にすら上がれない。

「結果が伴わないクオリティは無意味である」
そう言ったのはクライフ自身。

幾多の戦術家や監督、アナライザーが「どうすれば勝てるのか」を徹底的に究めようとする潮流の下、サッカーは効率化され、高速化した。
「美しさ」などという要素は結果論か副次的要素でしかない。

しかし、ここにこそバルセロナの存在価値がある。

この屹立する対偶に挑戦し続け、
新たな命題「美しければ勝利する」を真とすべく存在する。

明らかに論理的ではなく、明らかにメインストリームでもないが、目指すべき方向である哲学が、DNAが、クラブを自ずと導いていく。
もはや「そうありたい」と強く願う人間くさい非論理性とロマンに満ちた命題への追究に邁進する姿が、バルセロナというクラブの理想形である。

②「組織力」の前に「個の力」は無価値なのか

ロマン、もとい理想体現には何が正解なのか。

幸いバルセロナは、今日までに両極端な過程で同一レベルの結果をもたらしたノウハウを持っている。曰く、凡そ「組織力の全盛期はペップバルサ、個の力の全盛期はMSN」

これは戦術哲学の有無という軸では合っているが、組織力と個の力の優位性比較の考え方としては間違っている。ペップ全盛期も強力な「個の力」が確かにあった。

それは議論されつくしたメッシ、シャビ、イニエスタが持つ戦術上の質的優位だけを意味しない。

2010年、岡田武史元日本代表監督は、我が国が欧州・南米代表の強豪に敗戦する一因としての個の力を、戦術やテクニック以前の「強固な意志」と表現した。

「局面局面における1対1の競り合いで負けてしまっては、ボールをキープすることもパスをつなぐこともできない。
相手がシュートを放つ直前に体を投げ出して止める覚悟があるかどうか。
そういうことを抜きにして、4バックと3バックの違いを論じたり、パスサッカーかカウンターかを議論しても机上の空論にすぎない。」


※引用元:TEAM心の言葉編著,「個」の力, 心のゴールネットをゆらした 日本代表監督8人の言葉, 学研図書, 2012

「絶対相手にゴールを決めさせない、1対1では死んでも負けないという強固な意志。何が何でも相手ボールを奪うことへの執念。」

※引用元:TEAM心の言葉編著,「個」の力, 心のゴールネットをゆらした 日本代表監督8人の言葉, 学研図書, 2012

ペップバルサは幾何学的戦術モデルの究極形だと考える裏で、即時奪回に上記の「個の力」は必要不可欠だった。

運動量もさることながら、判断力を90分間維持するためのモチベーターとしてプジョルやシャビ、ひいてはグアルディオラがいた。

ルチョバルサでは、攻撃面でほぼすべての構築とフィニッシュを任された前線3人が、各局面の守備に対し確実に勝ち、最後には決定的な仕事をする無双感と不撓不屈ぶりでチームのボルテージを担保した。
スアレス曰く「『お互いのために』己が倒れようが転がろうが、誰かに繋いで絶対に得点すべく連動した」

局面・試合・大会に勝つことへの「強固な意志」の上に結果が成立した事実が、見た目が綺麗なものの前に混濁・希釈されていくと、時間経過と伴にディテールが疎かになる。結果勝てなくなる。

能力的・精神的な個の力が無ければ、戦術的に高度な組織力構築はあり得ない。かといって組織力だけでは、相手エリア深部での局面打開はできない。

インタラクティブな関係に対する理解が深いほど、
体現できる戦術とプレーの幅が広がる。

③「美しい」とは何なのか。

暗黒期からこの20年で、バルセロナは3つのパターンを成功へ導いた。

圧倒的な能力を持つファンタジスタを戦術上の核に置き、自由なプレースタイルで楽しませながら互角以上の相手と渡り合っていくサッカー。

幾何学的・連続的なボール回しで相手ピッチを縦横無尽に切り裂き、圧倒的ボール支配率で主導権を握りながら、俯瞰によるアイデアで強襲するサッカー。

縦への速さと圧倒的な破壊力で守備を崩壊させ、理不尽なまでの決定力でゴールを量産し派手な試合を演出する華のあるサッカー。

いずれも国内で覇権を握り、欧州の頂点を獲った。
明確に哲学を示し、体現したのは間違いなくペップだ。下部組織登用でイニエスタとメッシを使い続けた点ではライカールトもそうかもしれない。

では、哲学の無かったMSNは間違っていたのか。
今後もバルセロナは哲学に沿って行くことが正義なのか。
それについていくしかないのか。


万が一仮に、来季から3年契約で「前代未聞のカウンター法で勝つ」マニフェストの監督が来たとしよう。
初めは非難轟々だろう。それには一旦加わりたい。

しかし時間が経って30年後、この監督が遺した「美しさ」がクラブ内で標準化していたら。
クライフやペップのサッカーは半世紀前の遺物と化していたら。

その可能性も無いわけではない。
創立1899年から現在まで、全く同じ完成度のプレースタイル、戦術で通してきたならいざ知らず。

何をもって「バルセロナ」らしいとするか。

それはクレが「美しい」をどう定義しているかに依る。

自分の場合、まず「美しい」=「ワクワクする」と言い換える。
非常に定性的だが、これが一番腹落ちするし、バルセロナを知るきっかけになった試合を観返し、好きになった初期衝動をリアルに思い出すと「ワクワクした」自分が間違いなくそこに居る。

「ワクワクするとき、未体験を感じている」

体感上・経験上はこれが必要十分条件だ。未知なるものを体験させてくれるのではないか、そのきっかけを離すまいとファンになったり、趣味になったり、クレになったりクセになったりしてきた。
自分にとってのバルセロナは完全にその末路、もとい沼にハマっているケースである。

クラブ戦略の観点から見ればMSNは劇薬だったが、ワクワクしたかと言われると「もう、興奮した」
美しいかどうかは、そういった感情があるかどうかで良いと思う。

自分のバルセロナの定義は、
「心躍るワクワクを追究し続ける存在。」

あなたの好きなバルセロナは今、
あなたにとって美しいか。

バルサを知って20年。6才のころからの一方的で勝手な付き合いだ。幼馴染の次に長い。

今のバルセロナが「美しいか」を個人的に語るとき、20年前のワクワクがあるかどうかを思い出し、常に心躍らせていたいと、心の底から願う。






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