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映画からの逃避(テルマ&ルイーズ4K 感想)

リドリースコット監督『テルマ&ルイーズ 4K』(1991)をヒューマントラストシネマ有楽町にて。
最近の『ナポレオン』や代表作『エイリアン』等、男性性批判はリドリースコットが持つ一つのテーマだと見受けていたが、この映画ではより明確に示されていた。
以下雑文

冒頭、ダリルが乗る派手な色をした車はまるで自分の地位を誇示するかのように見える。テルマが駐車場でレイプされかけるシーン。人の姿はなく画面に均一に敷き詰められる大量の自動車の後ろ姿を捉えたショットは、男性優位(この場合単純な筋力)を利用した加害行為を同調圧力的に隠蔽しているような印象を受ける。直前の大量の人が敷き詰められている女子トイレのショットと正反対である。ルイーズがテルマを見つけ止めようと声を掛けるもその瞬間にはテルマの方にはカメラは向かない。銃を突きつけて初めてテルマの顔が映る。この駐車場、力を誇示するもので固められ加害を隠匿される環境においてルイーズは敵ではない。しかし、銃を向けられることによりこの隠匿は崩される。それは銃も(後々のシーンを観て)力を誇示する象徴として使われるからである。ここでルイーズの姿が現れる。
テルマとルイーズは映画内でたびたび男性が力を誇示するために利用している車や銃を巧みに利用して世に反抗していく。同時に逆説的に男性が誇示するために利用しているものを引き剥がす、もしくはテルマとルイースが対等な関係に立つことで男性社会の見窄らしさを際立たせている。
警官のシーンは特に印象的である。最初は自信にあふれた様子でテルマとルイーズに近づく。2人は指名手配されていることもあり、無害そうな様子を演じている。公権力、武器の保有、シンプルな筋力を踏まえて自身が明らかに強いと思い込んでいる警官のことをルイーズは「ナチみたい」と言う。その後、銃を突きつけられ、2人が指名手配されていることを知り、銃を発砲されると段々弱々しく泣き始め、まるで子供のようにうずくまりトランクの中に入る。上記で述べたような有害な男性性を引き剥がすシーンである。
その他、トラックも印象的に使われる。テルマとルイーズの走っている車を威圧するかのように見えるトラックの列や2人にセクハラして最終的に爆発させられるトラック運転手。トラックといえばスピルバーグ監督『激突』を想起させる。そこからも威圧感を演出するためにトラックが流れていく様子を映すのは効果的なのかもしれない。

冒頭からこのラストシーンに行き着くまで風景は段々変化していく。最初は街中から始まり、段々風景は閑散としていく。途中、工業地帯のような所を通ったり、電柱が連続で並んでいるカットがあったり、閑散とした風景の中でもまだ人の手、社会の手が及んでいるような印象を受けるが、ラストシーン人の手が全く及んでいないような、もはや道すらないところでこの映画は終わりを迎える。大量の警官に囲まれ絶体絶命の中2人は車で崖に飛び込む。
この直前の物語の展開により観客はこの2人はどのようにこの困難を乗り越えてゆくのかという期待と同時に、犯罪行為をした2人に対してなんとなく抱く、映画内でも所々示唆されているような破滅的な終わりが見えてくる。
いざ追い詰められた時、彼女らは捕まるのかそれとも撃たれてしまうのか、つまり元の場所に戻されてしまうのかそれとも殺されるのかの窮地に立たされる。この窮地を前に2人は崖に向かって飛び込むという選択をするわけだが、映画内で流れている映像でそこに2人の「死」が決定的に映された訳ではない。しかし同時に生きているとは思えない状態の映像で幕を閉じる。物語はここまで観てきた観客に完全な2人の決着を見せない、映像と共に放り投げられた状態になる。ここに映画観客から2人が逸脱している印象を受ける。
ここまで彼女らは警察やテルマの夫の手から逃れ、法を破ることで国から逃げ出し、その間に男性達のつぎはぎの権威を引き剥がしながら社会から逃げ出し、アクセサリーを外すことで彼女ら自身が身を置いていた社会からも逃げ出し、大自然の中人の手でいじられた全てから逃げ出し、挙句のはてに崖から飛び出て「地」からも離れてしまう。そして同時に私たち観客も彼女らに放棄されているのだ。決着のつかない、宙に放り投げられたかのような終わりを文字通り宙に浮かんだまま終わる。観客はもはや彼女らについていくことができなくなる。私たち観客さえも無視し、映画や観る観られるという関係性からも逸脱した2人はもはや映画の向こうの世界でその瞬間何にも縛られていない完全な「個」として存在しているのだと観客に気づかせ、勇気を与えるそんな映画でした。

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