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真実はどこまでも沈み行く(落下の解剖学感想)

『落下の解剖学』(2024年2月23日公開)ル・シネマ 渋谷宮下にて観てきました。
メモ程度の雑文ですが

冒頭、階段からボールが落ちて、それを犬が拾い上げるというカットから始まる。この時点で「落ちたものを拾い上げる」という行為が後に起きる転落事件を拾い上げて緻密に解剖していくこの映画を示唆するようなカットになってる。
作家の主人公にインタビューにきた大学生、しかし主人公の夫がスピーカーから流す音楽があまりに大きいため、インタビューは中止。主人公もそもそもインタビュー自体にあまり真面目に答えようという気がないようにも見える。大学生は去り際に外にいる息子と犬と窓から顔を出す主人公を見て立ち去ります。
この時点で、観客に提示される情報の取捨選択が非常に精巧。というのも後々の裁判で議論となるそのインタビューの間、夫は何をしていたのかという問いに対して主人公は上の階で作業をしていたと答えるが、生きている夫の姿を観客が観ることはないので主人公が嘘をついている場合、この犯罪を立証するための情報は一切提示されていないことになる。この時夫が生きていたとして、後の裁判でもこのインタビューに、大学生に夫が嫉妬していたのではないかという話が出るが、生きている夫を映さないことでその時何を考えていたのか、観客は直接心情を読み解くことはできない。また、大学生が去る際息子は外にいたが、後の裁判で息子がどこにいるか議論になった際に息子は一度家の中に戻りそこで母親と父親の話す内容を聞いたと答えます。しかし、記憶が定かではない様子であり、観客にもその情報が正確かどうか判断しようがなく、状況証拠にしかなり得ない。周りも視覚障害者の息子の情報をどこか疑いかかっている様子が見て取れる。

この映画で私たち観客は基本的に主人公視点で映画を観ることになるが、主人公にも、息子にもそのほかのキャラクターにも私たち観客が知り得ない情報を持っていて隠している、もしくは無意識下で記憶から消してしまっているため必要な情報を提示できず、私たち観客はこの出来事の真相とは完全に切り離された所にいる。映画中、何度も報道記者やテレビ番組などメディアの存在が示唆される。
私たち観客はもしかしたらこの映画を観て主人公に共感し肩入れしてし無実ではないかと、あるいは映画中にも「小説家が犯人だと面白い」とテレビ番組で言われているシーンがあるがそのように、映画の展開的に主人公が犯人の方が面白いから有罪ではないかというふうに思うかもしれない。しかし、この映画において私たち観客もこのメディアを通して見ている視聴者と同じ立場に過ぎない。映画の作り手が観客に見せる場所見せない場所を取捨選択し、私たちに完全に正解な真実を見せないことで観客の立場を始終宙に浮かせた状態にし、不透明な情報のみで感情を揺さぶる。

不透明な情報しか与えられていないのは登場人物達も同じ。主人公が嘘をついていた場合はもちろん、息子は見ることができないため他に視覚障害を持つ人が全くいない環境、裁判所において、視覚優位の彼らは疑いを持ちますし、他の人物と五感の性能が違い聴覚や嗅覚が優れていたとしてもその正確さを共有することは難しい。裁判員についてもフランスでの裁判でドイツ出身で現在は英語を生活で使用している主人公は通訳を通したとしても完璧なニュアンスを伝えられることはない。
また、ドイツ出身の主人公とフランス出身の夫が第一言語とは異なる英語で会話している時点でお互いが表現したいオリジナルのニュアンスをお互いがこぼしている可能性も否めない。息子が父親が自殺を仄めかすような発言をしたと述べますが、これも息子や裁判で息子の口から聞く裁判員や我々観客の印象でしか過ぎません。この事件に関係なく、夫が何を考えていたか実際に接触があった人物でさえままならない状態。

この映画で私たち観客は真実を見ることを意図的に避けられ、自然と状況証拠のみでこの事件を判断しようとする。しかし、同時に私たちに提示される映像には私たちの想像を疑う余地を与える。そのような意味でこの映画は大変映像の取捨選択が非常にうまくいっており、まるで大きな力、メディアによってコントロールされているような感覚に陥る。登場人物達の主観での判断の危うさを表象することはこの映画を観て、事件を憶測しようとしている私たちに繋がり、その危険性を暴き出しているような映画である。

また、ロケーションについて主人公の家は雪に囲まれ都会から隔絶されています。「シャイニング」や「ウィンドリバー」、「ファーゴ」を彷彿とさせるような地形です。あまり交通便は良さそうではなく雪により地形や痕跡が可変となる、秘匿性の高いロケーションとなっています。この秘匿性の高さはその外部にいる人物、裁判官やメディアを見る一般人、そして私たちが真実に近づくのを妨げるような印象を抱かせます。このロケーション自体が私たちが一つの真実を見通す難しさを象徴してると言えるでしょう。

この映画、息子の成長譚として捉えることもできる。それは、ラスト息子が母親を抱擁するようなカットから見受けられます。途中監視人が息子に「どちらか選ばなけれなならない」と言われ、息子はその通り母親の無罪を信じ、父親の自殺を主張しました。この世界ではこの法廷のような、どうしても妥協してでも選ばなければいけないことがあり、それをこなした息子が大人となったと同時に、釈然としない表情なのはその選択をした罪の意識がどこかにあるのではないかと考えます。それは母親が裁判の終わったと「見返りがなかった」というように、真実がどうであれ、きっともはや本人達すらも知り得ない真実を、選択してしまったことを背負って生きていくのだと。辛そうに見えながらも選択肢生きようとする姿は、この映画で主観的な意見を抱いた私たち観客への警鐘だけではない、同時にどうしても偏見を抱く私たちの存在を認めている映画でもある。
映画で真実を観客に明らかにすることは、そこまでに映像で示された素材をもとに観客が抱いた推理、主観、偏見からの解放でありそこに責任はない(例えば『ゴーンガール』は夫婦と観客にしか知り得ない事実を背負わせることに意味があったと思うが)しかし、この映画で各々観客は偏見とその責任を抱えさせたまま映画を終わらせ外の世界に送り返します。

大変厳しくも優しい映画だったと思います。とても良かったです。

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