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01 消しゴムと恋

「あっ」

 ころんころんと消しゴムが机から落ちて転がった。テスト中。カリカリと鉛筆のこすれる音が聞こえる中で私の小さな声が混ざり合った。一瞬ピタリと音が止まった。気がした。間違えたところに気がついて慌てて消しゴムに手を伸ばしたら、指先で弾いてしまったのだった。直方体と言うには丸すぎる私の消しゴムはころころとまっすぐ遠くへ転がっていった。

 数学が苦手だった。何回勉強してもベクトルの問題がわからなかった。問題文の文字列から作図をするのが一番嫌いだった。

 やり方は何度も友達から教えて貰った。けれど、うまく作図ができない。どうしてもわからなかった。

 けれど、これは。

 テスト中のひらめき。頭に電流が走ったみたいだった。今までの勉強が全部繋がった。今までのやり方は間違っていたんだ。ようやく気がついた。ここが間違い! そうケシゴムに手を伸ばしたら勢い余って弾き飛ばしてしまったのだった。

 テスト中に席を立ってはいけないのは暗黙の了解だ。手を上げて先生に告げなきゃいけないのだけれど、ちょっと恥ずかしい。最悪なことに先生は教卓に椅子を引っ張ってきてすやすや寝ている最中だった。もしかしたら、立ち上がって消しゴムを拾ってもバレないかも。

 けれど、転がった消しゴムは私の席からでは見つけられないほど遠いところへ転がってしまったらしい。ああ、どうしよう。シャーペンの上にくっついてる小さい消しゴムで消してもいいけれど、間違った図を全部消すには、多分消しゴムの方がなくなっちゃう。

 どうしよう。

 時間は刻一刻と過ぎ去っていく。とりあえず別の問題を優先して説くことにした。まだまだ問題は続く。あと、三問。

 どれもこれも難しい。公式に当てはめて、答えを出す。さっきと似たような問題が出る。こことここが直角で、こことここが平行で。

 間違いは許されない。だって私には消しゴムがないのだから。けれど、間違えたりはしなかった。ひらめきが、降りてきていたばかりだったから。

 見直しも完璧だったけれど。やっぱりきになるのはテスト用紙の半分くらいのところにある間違った作図。ここが違うのに。消しゴムさえあればすぐに直せるのに! まっすぐに引かれた黒い線が憎らしい。答えがちゃんと出せないのが、悔しい。

 このモヤモヤも全部消しゴムのせいだ。消しゴムで全部全部消せたらいいのに。やり直せたらいいのに!

 チャイムが鳴った。キンコンカンコン。結局私の消しゴムの行方はわからずじまい。先生が慌てて顔を上げるとさっと口元のよだれを拭う。この教室の中で一番寝ていたのは先生なんだろうなぁ。

 テスト用紙が回収されていく。私のひらめきは結局書き込むことはできなかった。あーあ。

「ねえ、これ」

 机に突っ伏すやいなや、頭上から声が振ってきた。聞き慣れないかすれた男の子の声。顔を上げるとそこにはあんまり仲良くない同級生。

 じっとりと白シャツに汗をにじませた、男子。よほど暑かったのか額からもだらだらと汗を流している。窓際の席だから太陽を直接受けて暑かったのかな? それにしてもテスト終わりに何の用? 私が口を開き書けるとそれよりも先に同級生の方が話し始めた。

「これ、多分君のかなって」

 手に握られていたのは紛れもない私の消しゴム。私が弾き飛ばした、あの消しゴム。男子の席まで転がってしまったのだろう。

「声、聞こえたから」

「ありがとう」

 私は消しゴムを受け取って、それからふと考えた。この男子とは一回も話したことないはず。近くで友達と話したこともないし、授業も積極的に参加していないから発言していない。同級生の声を全く聞かないなんてことは言い切れないかも知れないけれど、しらない私の声を覚えていたの? それに、私の席と男子の席は大分離れていた。すぐ側で聞こえたわけでもないのに。

「僕も、君も似てるね」

「え?」

 ぐるぐると思考が渦巻いていると男子はへにゃ、と顔を緩ませた。情けない笑顔。

「僕だってカーテンを閉める許可を貰えばこんなに汗掻くこともなかったんだ」

 それだけ言い残すとそそくさと自分の席へ戻ってしまった。テスト中に、まぶしかったら手を上げてと先生は言っていた。タテ列で、あの男の子が丁度直射日光をもろに受けていた。男の子の丁度後ろまでカーテンが引かれていたから。男子よりも前の席は建物の影で涼しそうだった。

 似てる。確かに。

 お互い、言い出せないところが。お互い、引っ込み思案なところが。

 お互い、いざ顔を合わせても何も話せないところが。

 なんだか恥ずかしくなった。胸がどきどきしている。これも、全部消しゴムのせい?

 手のひらに置かれた消しゴムがまだ熱い。

 遠くの方でセミの鳴き声が聞こえ始めていた。


 

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