見出し画像

世にも禍々しい「タイの死体博物館」に行って、仏教の死生観について考えた話

※今回の記事はかなりショッキングな描写を含みます。写真や動画は掲載していませんが、苦手な方はご遠慮ください。


こんにちは。りおです。
今回はタイの死体博物館に行ったときの話をしようと思います。前半は旅行記ですが、後半はタイの死生観と上座部仏教の考え方について、僕なりの考えを話しています。
最後まで読んでいただけたら幸いです。

シリラート医学博物館


タイのバンコクにある死体博物館は、本物の死体を多く展示している世界でも珍しい博物館です。
ワット・ポーやワット・プラケオなど観光地として有名な寺院が並ぶ旧市街からボートでチャオプラヤ川を渡ったすぐ先にあります。
「シリラート医学博物館」という正式名称を持つ死体博物館は、東南アジア最大の敷地面積を誇るシリラート病院の敷地内にあります。
日本では知る人ぞ知るB級スポットのような扱いをされていますが、れっきとした医学博物館であり、医師を目指すタイ人学生やバンコク市内の中高生が課外学習で訪れるようです。
入場料は外国人料金で200THB(約800円 ※2023年9月時点)で、日本人もよく訪れるのか日本語の案内看板を見かけます。

目を引くのがホルマリン漬けの死体の数です。それほど広くない博物館の中にはこれでもかというくらい死体が展示されていて、思い出すだけで身の毛がよだちます。
ホルマリン漬けの死体は、完全体のものもあれば、各臓器に分けられたり、輪切りにされているものも多く展示されています。真剣に医学を学ぶ者にとっては貴重な学習資源であることは間違いないはずです。
死体のほとんどが凶悪犯罪者らしいです。犯した罪の大きさのせいで、死後も大衆に死体を曝け出されています。

また、奇形児のホルマリン漬けも多く展示されています。胎内で身体が分化されずにくっついたまま生まれてきた双生児が多く、ただただ気味の悪さを感じます。
事件や事故で亡くなった人の写真もありました。なかでも自殺者の写真を見るのは本当に辛かったです。
リストカットや首吊り、焼身自殺などで亡くなった人たちの写真は、自殺者の苦悩だけでなく「生と死の間」をありありと感じさせます。僕にとっては、ホルマリン漬けの死体よりショッキングでした。

また衝撃的だったのは、骨格や肉を取り除き、脳神経のみを取り出したホルマリン漬けの展示です。
脳神経のみとなった死体は、脳から神経がケーブルのように繋がっていて、まるでタコのような風貌をしていました。
眼球は神経の一部であるため残されていて、一昔前のSFに出てくる火星人のようにも見えて、なんだか間抜けに見えました。
こうやって見てみると、僕らの思考や感情も身体のほんの一部を占める脳神経が作り出した単なる電気信号に過ぎないということを実感させられます。複雑な気持ちにさせられます。

ちなみに、2019年までは、7人の子どもを殺害し臓器を食べていた変態カニバリズム殺人鬼「シーウィーおじさん」のミイラも展示されていたそうです。シーウィーおじさんは精神障害を患っていたとのことですが、その罪の大きさから、1959年に銃殺により死刑になった後も、単に弔われるミイラにされて半永久的に保存されることになりました。
(殺害した子どもの数については諸説あり)
しかし、その後冤罪の可能性があることがわかったのと、非人道的だという批判を受けて、2020年にバンコク市内の寺院で火葬されたとのことです。

僕は1時間ほど博物館内を見て回りましたが、やはり気味の悪さに圧倒されてしまいました。
博物館を出て南国の強い日差しを浴びているのに悪寒が止まらず、大好きなタイ料理も食べられないほど気持ちが悪くなりました。

ただただ人道的でない死体博物館は、世界からバッシングを受けながらもずっと存在し続けています。
たしかに、死体博物館が医学や解剖学の発展に貢献し、医学を目指す学生たちにとって貴重な資料であることは間違いないはずです。
しかし、本当にいくら生前に罪を犯しただからといって、ホルマリン漬けやミイラとなっていつまでも大衆に晒され続けていいのでしょうか。
日本人にはとうてい理解できない、倫理を大きく外れたこの死体博物館が、なぜタイに存在するのか。その理由を考えてみると、上座部仏教国であるタイの死生観が見えてきます。
タイの死生観や仏教が目指すものを考えてみると、これが私たちの苦しみの理由を解き明かすヒントになるかもしれません。

お釈迦様の仏教は何を目指したのか


仏教は、約2,500年前に現在のネパールとインドの国境に位置するルンビニーで生まれた釈迦族の王子、ゴータマ・シッダールが創始しました。
仏教は日本に入ってきたのは6世紀頃(奈良時代)ですが、中国を通って日本に伝来するまでの間に仏教は大きく様変わりしました。さらに、「鎌倉仏教」と呼ばれるように鎌倉時代には日本国内で独自の進化を遂げました。
お釈迦様の時代の仏教は、日本人の私たちが「仏教」と聞いて思い浮かべるもの(檀家制度やお葬式など)とは大きく異なります。法然が開いた浄土宗のように、念仏を唱えることで救われるという「専修念仏」とも異なります。

原始仏教では、お釈迦様はひたすら瞑想修行をすることで苦しみから解放されることを説きました。
お釈迦様は、この世での苦しみを「四苦」と名づけ、「生・老・病・死」の4種に分類しました。(意外に思うかもしれませんが、「生きること」も苦しみの一つです)
そして、この苦しみの原因は私たちの「執着」であるといいます。「執着」とは、ある物事に心が囚われていることを指します。例えば、永遠でないものを不変のものと捉えてそれに固執することは執着の一つです。「煩悩」と言い換えれば、私たちにとっても馴染みが深く、理解しやすいかもしれません。
そして、執着が集まることで私たちの苦しみが生まれます。

さらに、この「執着」の発生は、「私たちが物事を正しく見ていない」ことに起因する、とお釈迦様は説きます。
私たちは自分の生きていく中で身につけた経験や知識、私たちが育つ文化的・社会的背景をもって世界を見ています。
フィルターを通じて物事を見て、そこで起こっていることに反応しているのです。
例えば、上司に嫌なことを言われて悲しんだとき。過去の経験を照らし合わせて「上司が自分を攻撃している」「自分は攻撃されている」と、自分でレッテルを貼ることで「悲しい」という不快な感情を作り出しています。そこでは、上司は単なる音の羅列で構成された言葉を自分に投げかけているだけに過ぎません。しかし、社会的背景や自分の経験のような様々なフィルターで自分で意味を作り出し、勝手に反応しています。
このように、私たちは朝に目が覚めたときから、夜に眠りに入るまで、常に身の周りの世界に対して自分なりの意味付けを行いながら暮らしています。
しかし、極端に言ってしまえば、量子レベルの微細な物質の変化に私たちは干渉され、逆に私たちが干渉しているに過ぎないのです(私たち自身も細胞レベルで刻一刻と変化しています)。このようにありのままに見ようとすれば、物事を極限まで微細化して見ることができます。

お釈迦様は、物事を「ありのまま」に見れていない状態(物事を自分のバイアスを通じて見ている状態)を「無明」と名づけました。
この無明が執着を生み出し、それが苦しみにつながります。
人の一生は永遠のものではないのに、勝手にそれを不変のものであると捉えることで、老いることに苦しむようになります。

人の苦しみは自分の思い通りにならないで苦しむこと。すなわち、自分の度を越えた欲望が苦しみを生み出していると、仏教では説いています。
この度を越えた欲望とは、人が生活していく上で必要な欲求が度を越えていることであり、煩悩を意味しています。

無明=苦しみの根源?無明の意味・無明を用いた四字熟語についても紹介 https://ikikata.nishinippon.co.jp/term/3627/

先ほども述べたように、原始仏教の世界では修行者はひたすら瞑想を行います。
瞑想では、呼吸や身体の感覚に注意を向けて集中することで、私たちの心の反応を観察するのです。
瞑想を続けることで集中力が養われると、感覚が鋭くなり、自分の心の反応や動きに気づけるようになります(この状態をパーリ語で「サティ」、英語で「マインドフルネス」と呼びます)。
そして、世界を歪めている自分のフィルターに気づくことが容易になります。瞑想を通じて、物事をジャッジせずにありのままに見る能力を養います。
こうして、仏教では世界をありのままに見ることで執着を失くし苦しみから逃れることを説きました。

おそらく仏教に対する見方が変わったかと思います。私たちにとっての仏教のイメージは、「お釈迦様のありがたい言葉」だったり、「念仏を唱えることでみんなで極楽浄土へ行こう」のようなマジカルなものだったりしたかもしれません。しかし、原来の仏教は「修行を通じた自己変容」という極めてストイックな宗教でした。
上座部仏教はタイやミャンマー、スリランカなど東南アジア・南アジア一帯で栄えていますが、インド・ネパールあたりで生まれた原始仏教の形をある程度残しています。
この辺りの話は、仏教僧の草薙龍瞬さんが書かれた名著『反応しない練習』で非常に易しく解説されています。


タイの仏教は「死」をどう見るか


さて、「死」の話に戻りましょう。
「四苦」の中には「死」が含まれています。お釈迦様は「死ぬこと」も私たちの苦しみの1つだと説きました。
しかし、これまでお話した原始仏教の話に照らし合わせれば、「死」を苦しみとすることも、私たちの心が作り出した”幻想”の結果と言えます。
実際は、全ての身体機能が停止し物質が朽ち果てる、単なる物質的変化に過ぎないのです。
死は避けられず誰にでも平等に起こること。物質的な変化に過ぎないのに、それを社会的・文化的背景のなかで「避けたい」「恐ろしいものだ」と考える私たちの心によって苦しみが作り出されています。

お釈迦様の時代の仏教には「死体を観察する瞑想」というものがありました。
修行僧が森の中で何週間もの間、死体と一緒に過ごすというものです。
最初は綺麗だった死体も、時間が経つにつれて朽ち果てていきます。
身体が腐乱し、ウジが湧き、いずれは骨になります。この間、修行僧はこの死体をひたすら観察し続けます。
そして、「気持ち悪い」「グロテスクだ」と感じる無意識の心の動きを観察し続け、心を鍛錬するのです。
また、現代の上座部仏教の寺院では、死体の写真集が置かれているところもあるそうです。焼死体や腐乱死体、轢死体など、様々な死体の様子が収められています。これを眺めることが修行です。

「死」をありのままに見る上座部仏教が深く根付いたタイでは、死はより身近なものです。死は誰にでも平等に訪れるもので、忌避すべき対象ではありません。
日本では葬式の際に死化粧を行います。死人を生きている人のように見せます。また、火葬場は住宅地から離れた場所にあります。死は日常から切り離され、隠されるべき対象なのです。一方で、タイのお葬式はみなさん普段着で参加して、首都のバンコクであれば火葬も繁華街にある寺院で行います。埋葬方法に関しても、お墓も持たず、寺院の壁などに収納し、何年か経ったら河や海へ散骨します。

長くなりましたが、前半の問いに対する結論を話します。
僕は、死体博物館がタイに存在する理由は、「『死』が一般的なもの」と考える上座部仏教がベースにある、と考えました。死を特別扱いしないからこそ、死んだあとの肉体も重視せず、博物館の資料として展示することができるのです。他国の人からは「不謹慎だ」「猟奇趣味だ」と思われることができるのは、こうした宗教的思想が土台にあるからです。

お釈迦様の仏教や上座部仏教は、死に限らず、世の中の全ての事象をありのままな姿で見ることを目指します。
フィルターを外して見ることで、心の苦悩を軽減しようとします。
今回は「四苦」や「執着」だけを紹介しましたが、仏教の世界には「諸行無常」や「諸法無我」など大事なワードがたくさん出てきます。
仏教は、「心の病院」であり、私たちの人生を楽にしてくれる宗教です。
このような言葉を学び、お釈迦様の教えを知り、瞑想を実践してみることで、世界をニュートラルに見れるようになり生きづらさの軽減に役立つはずです。
今回の記事で、お釈迦様の仏教に少しでも興味が湧いた方は「100分de名著 ブッダ 真理の言葉」を読んでみることをおすすめします。有名な仏教学者が書かれた、初学者向けのとてもわかりやすい本です。
少しでも多くの方が僕の記事を読んで仏教に興味を抱き、みなさんの心を支える一助を手に入れてくだされば幸いです。


最後に、旅行記らしく、僕がタイの寺院で出会った猫ちゃんの写真と、美味しかったパッタイの写真を貼っておきます。

ワット・ポーにいた人懐っこい猫ちゃん


日本人駐在員が住むBTSアソーク駅の近くの屋台で食べたパッタイ(80THB 約320円)

タイは、人が温かくご飯が美味しい素晴らしい国です。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?