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怖くてもいい強がる必要はない

 今日は小学生から中学生の頃のことを書きます。

 その頃の記憶もあまりありません。でもその後の人生に大きな影響を与えることがありました。小学生の頃は勉強はあまり好きではありませんでしたが毎日が天国のように楽しかった記憶があります。学校が終わった放課後に友達と野球をしたり他愛のない遊びをしたり子供じみた悪いことをしたり、毎日が夢の中のようで、この楽しい毎日が永遠に続くかのようにも思っていました。とにかく遊ぶのが好きで友達から「遊びの王様」と言われたのも覚えています。

 でもそんな夢のような日々はいつまでも続きませんでした。はっきり覚えていないのですが小学校の高学年、もしかしたら中学生になってからかもしれませんが、ある時から家族以外の人の前で食事ができなくなったのです。食べようとすると茶碗や箸を持つ手が震えて周りの視線が気になり食べられないのです。緊張しているのをなんとかごまかしながら食べていました。給食の時間が苦痛で苦痛で一日中そのことに囚われていました。

 もう一つ、苦手なことがあって、それは国語の時間などの朗読と発表です。読もうとすると心拍数が三倍くらいになって声が震えるのです。もちろん周りの生徒からは笑われます。本当にそれが苦痛で苦痛で、そのことにも一日中、囚われていて心の休まる暇がありませんでした。

 その二つのことが原因で仮病を使って学校を何度も休みました。大袈裟ではなく地獄のような日々でした。それを誰にも相談できなかったのです。そんなことで悩んでいるのは自分だけだと思っていたのです。恥ずかしくて恥ずかしくて誰にも言えませんでした。

 それが病気だったということに気づいたのは三十歳を過ぎてからです。薬局で薬を待っている時に「社会不安障害(SAD)」のチラシを見つけたのです。そこに全てが書いてありました。あの頃に誰かに助けを求めて病院に行っていたらまた少し変わっていたのかなとも思います。中学校を卒業してからも過緊張の問題には悩まされました。そのことはまた改めて書きますね。

 そんな小学校、中学校時代を過ごしました。

 あの頃を振り返ってみて思うことは、とにかく地獄のような日々でどこにも逃げ場がなかったということです。誰にも助けを求めることができませんでした。よく生き延びてこれたなと思います。社会不安障害や過緊張の病気を知らない人は「そんなことで」「もっと苦しい思いをしている人はいる」と思われるかもしれませんが当事者にとっては地獄以外の何者でもないのです。

 あの頃の自分にかけてあげたい言葉があります。

「逃げてもいい。でも逃げる時は安全な場所に逃げて」
「怖くてもいい。強がる必要はない」
「どんなことでも恥ずかしがらずに助けを求めて」

 まぁ、それができずに苦しんでいたのですが…
 
 この過緊張の問題がその後の人生にも大きな影を落とします。どんどん重い話になっていきますが振り返って行こうと思います。

 読んでいただきありがとうございました。

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