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Memory Train「食堂車」
本州の西の端の町に住む人にとって、長距離列車は都会の空気を乗せてやってくる「文化」だった。特に食堂車は田舎の町にはない「匂い」が魅力的だった。牛脂の匂いと冷房で冷やされた空気が混じった、少し重く感じる匂い。都会の匂いだ。下関にはそのような匂いのするレストランはない。時刻表をみれば列車食堂の運営欄には「都ホテル」「帝国ホテル」の名が見える。どちらもどんなホテルなのか当時はもちろん知らない。しかし子ど
もっとみるMemory Train「寝台特急あかつき」
東海道線下り寝台特急は尼崎駅を過ぎると、急に右カーブを描き始めた。後になってそれが福知山線と知る。福知山線の存在は知ってはいたが、その始点の一方が尼崎とは知らなかった。図らずも私をそのルートに導いたのは阪神淡路大震災だった。
大震災が起こったのは1995年1月17日午前5時過ぎ。東京にいた私は連休明けに提出する仕事をまとめるために前夜から起きていた。まとめが一服してTVをつけたところ、真っ暗闇の
Memory Train「準急ひかり」
昭和30年代というのはなぜあんなにも混んでいたのだろう。休みになれば映画館は場内のドアが閉まらないほど客が詰めかけたし、例えば別府温泉などいまでは考えられないほどの人々が押し寄せた。家族旅行と言えば別府、会社の慰安旅行といえば別府。山口県の西の端、下関はそういうところだった。また、会社の慰安旅行といえば家族同伴が通例だった。だから社員5人の会社でも総勢30人近くなることもあった。
こうして多くの
Memory Train「特急かもめ」
山陽本線で一本だけの昼間特急「かもめ」に乗ったのは、何歳の頃だったのか?5歳?6歳?学齢に達した夏休みか、春休みか、冬休みか。暑かった記憶も寒かった記憶もないから春休みだったかもしれない。
下りの「かもめ」に乗った駅は覚えている。降りた駅は覚えていない。乗った駅は岩国だ。岩国には母の妹が帝国人絹(テイジン)に勤めるサラリーマンと結婚しており、母と私たちは、おそらく徳山に出かけた折に、岩国まで足を
夏休みが終わる。自由研究が終わらない。
小学生のころ毎夏これに悩まされ続けた。8月20日あたりからソワソワし始め、テーマを何にするか考え始める。ぐずぐず迷っているうちに25日になり、26日になる。そして29日。2学期の始業式まであと3日でやっとテーマが決まる。そうだ、貝を集めよう。
海も近いし、貝ならなんとかなるだろう。29日、夏の終わりの冷たい小雨の中で採集決行。うつむいて砂浜を歩く。こんな少年を誰かが見ていたらなんと思うだろう。