Memory Train「特急かもめ」

山陽本線で一本だけの昼間特急「かもめ」に乗ったのは、何歳の頃だったのか?5歳?6歳?学齢に達した夏休みか、春休みか、冬休みか。暑かった記憶も寒かった記憶もないから春休みだったかもしれない。

下りの「かもめ」に乗った駅は覚えている。降りた駅は覚えていない。乗った駅は岩国だ。岩国には母の妹が帝国人絹(テイジン)に勤めるサラリーマンと結婚しており、母と私たちは、おそらく徳山に出かけた折に、岩国まで足を伸ばしたのではないか。あるいは姉妹の父親の実家が徳山と岩国の中間、岩徳線の高水にあったから、そこを訪ねたのかもしれない。

蒸気機関車に牽引された特急「かもめ」には、いい印象がない。とにかく、こわいほど速かった。速さは振動の強さとして伝わってきた。車輪がレールと合っていないのか、レールが車輪と合っていないのか、車輪とレールの不仲に車内はきしんでいた。しかも、なぜか片側のブラインド(下から押し上げる木製)が閉められていた。激しく震動する車体。揺れるブラインドから午後のオレンジ色の鋭い光が不規則に飛び込んできた。

薄暗い車内には外国人が何人かいた。それも恐怖の原因だった。いまなら当時岩国は重要な進駐軍の基地であり、列車で軍人に出会うのは当然だろうと思えるし、しかも「かもめ」が戦後の一定期間「進駐軍の軍用列車」だったと知れば、京都始発の列車とはいえ、岩国基地と板付(博多)基地を結ぶ役割があったとわかる。ブラインドを下ろしていたのは軍人が睡眠をとるためだったのかもしれない。その頃の私にそんな知識はない。「不安をいっぱい乗せて突っ走る列車」それが「かもめ」だった。

「かもめ」の切符を手配したのは妹の夫にちがいない。彼は今でいう「鉄ちゃん」で、列車マニア・時刻表マニアだった。きちっと旅程を立て、切符を手配することに喜びを感じるタイプの人だった。「かもめ」にしたのも、私たちに喜んでほしいという以上に、その切符を手配する喜びのほうが大きかったに違いない。その人は後年、東京に転勤になり、子どもたちの夏休みに親子4人、東京始発の寝台特急で遠路下関にやってきた。駅のホームで迎えた私に、乗車券・特急券・寝台券をうれしそうに見せてくれた。

その「かもめ」にもう一度乗ろうと思った。昭和47年のことだ。その頃私は京都の大学に通っており、下関への帰省に利用しようと考えた。「かもめ」の始発は相変わらず京都だったが、行く先は長崎・佐世保になっていた。山陽新幹線はもう岡山まで延伸され、「かもめ」は蒸気機関からディーゼル特急に変わっていた。おそらく長崎本線の電化が遅れていたためだろう。しかし、結局乗らなかった。いや乗り遅れたというのが正しい。学生時代の不規則な暮らしは、午前8時発にも乗せてくれなかった。

あの時乗れていたら「かもめ」についてはもうひとつの感想が持てたかもしれない。それはすこぶるいい評価だったかもしれない。しかし、結局そうはならなかった。相性が悪いのだろう。私の中で、特急「かもめ」は得体のしれない外国人を乗せ、車体をきしませながら常軌を逸したスピードでいまも走りつづけている。

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