Memory Train「寝台特急あかつき」

東海道線下り寝台特急は尼崎駅を過ぎると、急に右カーブを描き始めた。後になってそれが福知山線と知る。福知山線の存在は知ってはいたが、その始点の一方が尼崎とは知らなかった。図らずも私をそのルートに導いたのは阪神淡路大震災だった。

大震災が起こったのは1995年1月17日午前5時過ぎ。東京にいた私は連休明けに提出する仕事をまとめるために前夜から起きていた。まとめが一服してTVをつけたところ、真っ暗闇の映像にNHK記者のうわずった声がかぶった。
「先ほど大きな揺れがありました。私は連休を利用して神戸の実家に戻っていたのですが、先ほどすごい揺れがありました。鷹取・長田方面が赤く染まっています。見えるでしょうか」
TVは暗闇の中に街の光らしい点がところどころにみえる。神戸で1月の午前5時と言えばまだ夜明けまでは1時間以上ある。

その前の年、1994年12月5日に父が死んだ。父の死を期に母の調子も悪くなり、私は東京―下関間を時間の許す限り新幹線で通った。そこに大震災。交通は寸断され、新幹線はもちろん不通。JRで芦屋駅まで行き、そこから明石方面行のバス停まで無残に破壊された住宅街の中を歩いた。明石からJRで姫路まで行き、そこから西下する新幹線に乗った。東京への帰りはその逆の経路を辿った。

そんなある日、在来線が九州までつながったというニュースが入った。運行開始になったのは夜行の寝台特急。一本で行けるならと私はその寝台特急に乗った。京都まで新幹線。京都発の寝台特急が大阪を通過するのは夜の11時頃か。寝台の上段だった私は目を覚ましていた。列車は冷え冷えと明るい無人の尼崎駅を通過した。そしてまもなく、急に右カーブを切った。私は見慣れない外の光景に目を凝らした。三田という駅があった。牧野という駅もあった。無論だれもいない。列車はゆっくりと通過していく。空を見上げれば満天の星。街全体が生産活動を収縮しているせいなのか、星だけがきれいだった。列車はその後、谷川で加古川線に入り、姫路に向かった。

福知山線に乗ったのはその一回の往復だけで、しばらくしてJR在来線が回復し、つづいて新幹線も復旧した。それ以降また新幹線ばかり利用し、福知山線のことはすっかり忘れていた。あの惨事が起こるまでは。高速でカーブに差し掛かった朝の通勤通学が曲がり切れずに脱線し、線路脇のマンションに叩きつけられた。その路線が福知山線だった。もちろんそのカーブは私が感じた同じ場所ではない。私を乗せて注意深くゆっくりすすんだ福知山線も、私が通過した数年ののちに沿線人口が増え、いつの間にか高速化していたわけだ。

星がきれいだった福知山線。とっくに寝台特急は廃止され、東海道線も山陽線も一本も走っていない。もちろん福知山線にも。もう寝台の上段から冷え冷えとした夜空を見上げることもない。

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