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カミーユ・クローデル〜今宵、悪魔とワルツを〜

ぐっ、と右腕に力を込めると、作業台に乗った胸像を薙ぎ払った。アトリエの窓から放り出してやるつもりで力を込めのに、大理石の胸像はずるずると作業台を滑り、木の床に落ちて砕けた。

彫刻用のハンマーを右手に握ると、大きく振りかぶって作業台に置かれた作品を次々と打ちすえた。
ダーン!ダーン!と火薬の爆破音のような音が響き、石像にヒビが入った。それでも形を保っているものは、両手で掴んで持ち上げ、力任せに床に叩きつけた。
砕け散った細かい石片が目に入り、涙が出た。
カミーユは、顔をあげてうめいた。

あぁ!
神も照覧するか、この醜い中年女の哀れな姿を。
だが、こうなったのは誰のせいだ。
あの男だ。何もかも。
許せるものか。

あぁ、悪魔よ照覧するか、ならば行って、あの男の張り出した腹を三叉の槍で突くがいい。
そうすれば白日のもとになる。
あの男の腹から出てくるのは、私から奪い取ったものばかり。
このままぬくぬく生かしておくものか。

石のかけらは取れたのに、涙は止まらなかった。
壊しても憎んでも、消せはしない、刻まれたものは、声は、匂いは、離れない。

ロダン、私が命をかけて守ると決めたひと。
誰よりも私を愛してくれたひと。
どうして生かしておけよう、どうして、殺すことなどできよう。
カミーユは、床に転がった石像の頭部を何度も何度も床に叩きつけた。像が粉々になり、石と床にぶつかり、指の爪から血が出ても、叫びながら、叩きつけ続けた。

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1885年、フランス、イレット城。
城内の長い廊下に等間隔に嵌め込まれたガラス窓から、朝の光が斜めに差し込んでいる。

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深緑の地に、アール・ヌーヴォー様式の曲線模様が描かれた絨毯が、陽が差す部分だけ色を変えている。そこを踏んで歩く。そのたび、素早い蛇のように陽の光は私の身体へ移り、デイドレスのエレファントスリーブを舐めていく。

視界の隅に、大きな影がよぎった。
彼だ。
私は素知らぬふりで、同じ歩調で歩く。
裸足の足指が、毛足の長い絨毯に触れる瞬間のくすぐったさが心地いい。
背後の影が大きく伸びた。
見ると壁に手の影が写っている。
私は腕を伸ばして、その影に手を添える。
ほどけぬようゆっくりと、カミーユは手を挙げたまま、ワルツのステップでターンした。

スッと、その腰を背後から抱きしめられた。
カミーユは、振り返らず少し背中を反らした。
自分の背中が、腰が、彼にどう映っているか、充分意識しながら。
「いきなり掴むなんて、嫌いよ。蛇みたいな人」
「君のせいさ。君が僕を射止めたんだ、3年前にね。君に睨まれて、僕は動けなくなってしまった」
「そう。じゃあこの手は何かしら?」
カミーユはスカートの太ももあたりを撫でる彼の手を掴んだ。背後から、彼はカミーユの肩に顎を乗せると、ふふっと笑った。
「随分乱暴な朝の挨拶ね」
「じゃあこういうのがいいかね?」
そっと両頬を挟まれ、彼の方へ向き直らされた。
口づけされるその瞬間、カミーユはスッと手のひらで唇を隠した。少し驚いたようにこちらを見る彼に微笑んで言った。
「今は嫌。先にアトリエに入ってて」
苦笑いして彼、ロダンは彼女から離れると、追い越して先に歩き出した。
カミーユはスカートの皺を伸ばし、背筋を伸ばした。
それからゆっくりと、彼を追った。

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1881年、17歳の時、カミーユは一家でパリに出てきた。
女性だからという理由で、エコール・デ・ボザール(高等美術学校)への入学は認められなかったが、その頃から彼女の彫刻の技術と独自のセンスは抜きん出ていた。
生まれ故郷のエーヌからパリへ出てきたのも、彫刻家としてのチャンスを掴む為だった。
女性の芸術活動に理解を示さない母は反対したが、父は応援してくれた。そしてすぐにチャンスはやってきた。
彫刻の腕を見込まれて、当時パリの彫刻界の寵児であった、ロダンのアシスタントに抜擢されたのだ。

そのあまりの精巧さから、生きた人から型を取ったのではないかと疑われた「青銅時代」の立像をはじめ、ロダンの彫刻家としての腕は他を圧していた。

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しかし一方で、モデルと深い関係になるなど、その女性関係には色んな噂も多かった。
姉を慕い、応援していた弟のポールは、そんなロダンの弟子にカミーユがなることを危ぶんだ。カミーユ自身もそのことは分かっていた。それでも、ロダンの弟子になる道を選んだ。多少のリスクは覚悟の上だ。大人しく順番を待っていたって女の私にチャンスなど来ないのだ。

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初めは身構えて彼の工房へ入ったが、予想に反し、彼は紳士であった。
23歳も年下の彼女に対し敬語を使い、何か頼むときは必ず語尾に「すまないね」「ありがとう」をつけた。
また、彼はしばしば彼女に作品のアイデアを相談してきた。彼女も、必死にそれに応えた。
今までの彼の作風にそぐわない大胆な意見も言った。
彼に認められれば、自分も彫刻家としてやっていけるようになる。そうしたら、私を疎んじ、馬鹿にし続ける母親を見返せる、いや、母親も褒めてくれる、褒めてもらいたい、そんな気持ちもあった。

彼女のどんな突飛なアイデアでも、彼は面白がってそれを自分の作品に取り入れた。彼女自身でさえ、やり過ぎに思えたアイデアも、彼の技術にかかると、きちっと彼自身の作品のあるべきところに収まった。
そうして出来上がった作品を前にして、
「君の魂が、この作品を光らせてる。僕は手を動かしただけだ」
そう言われた時は、胸が詰まった。

そんなある日の夕方、石材の買い出しを頼まれた。
「少し重いから、他の者に行かせてもいいが」
ロダンからはそう言われたが、カミーユは引き受けた。
彫刻の材料となる石は重いものだ。
それを女だから運べないとなれば、彫刻家としてやっていけない。
「平気です。すぐ戻ります」

首尾よく頼まれた石を買い、カミーユはアトリエへの道を急いだ。彼が石を待っている。
きっと今日は夜中まで製作だろう、早く届けなくては。
石が入った袋の持ち手が手のひらに食い込んだ。その痛みに耐えながらカミーユは必死に歩いた。
「何してるのあんた」
ふいに背後から呼び止められ、振り向くと険しい顔した母がいた。突然のことに言葉が出ないカミーユに母は続けて言った。
「芸術だかなんだか知らないけど、やらされてるのは石運びじゃない。そんなこと、嫁入り前の女子がやることじゃないわ」
「放っておいて!」
母親を無視し、カミーユは再び歩き出した。
背後から足音が聞こえたと思った次の瞬間、思い切り突き飛ばされた。母親だった。バランスを崩してカミーユは前のめりに倒れた。
顎をしたたか地面に打ちつけ、思わず手をやると血がついた。しかし、そんなことに構っていられない。すぐさま起き上がると、周囲に転がった石材を集めだした。その手を、母親が踏んづけた。
「何するの!邪魔しないで!」
カミーユは怒りと痛さで叫んだ。
「今すぐ、あの男のアトリエから出なさい。けがらわしい」
「嫌よ」
「何が芸術よ、冗談じゃないわ。家族を振り回して、パリにまで引っ越させて、挙句やってるのは、いかがわしい男の元で石運び?あんた、何やってるのよ、毎晩毎晩、遅くまで。どうせあの男と一緒なんでしょ。芸術が聞いて呆れるわ」
カミーユは手を踏みつける母親の足首を、もう一方の手で掴むと、満身の力を込めてどかした。手の甲の皮が、母親のブーツのソールで削られ血が滴った。
カミーユは静かに立ち上がると言った。
「お母さん、悔しいんでしょ」
パンッ!と頬を張られた。
「いつか後悔するわ。その時、あなたに戻る場所はないと思いなさい」
去っていく母親の背中にカミーユは呟いた。
「私に戻る場所なんて、今もないじゃない」

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ロダンはアトリエの壁の時計を見た。
さっき見てから、1分も経っていない。
外はすっかり暗くなっている。
なのに、カミーユはまだ戻って来ない。
様子を見に行かせようにも、他の弟子は既に帰ってしまった。
自分が行くしかないか、そう思って、外出用のジャケットを手にしようとした時、アトリエのドアが開く音がした。
走って向かうと、顎と右手から血を流し、シャツもスカートも砂まみれのカミーユが、両手で1つ石材を抱えて立っていた。
「カミーユ、お前…」
「ごめんなさい。これ一つしか…」
考えるより先に身体が動いた。
気づいたら、ロダンはカミーユを抱きしめていた。
その身体は細く、少し力加減を誤れば、すぐにでも折れてしまいそうだった。

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頼まれたことができなかった。
何と謝ろう、それだけを考えて、アトリエまで戻ったから、彼に抱きしめられた時、一瞬パニックになった。
けれど、彼の服には大理石を削った粉がたくさんついていた。抱きしめられ、それが自分の頬にもサラサラ当たり、心地良くて落ち着いた。
「先生…」
カミーユはロダンの胸へ囁いた。
「私、ここへ戻ってきてもいいですか?」
「何言ってるんだ。お前は私の大事な弟子だ。ここはお前の場所だよ、カミーユ」
私にも、戻る場所があった。
これからは、いつだって、何があっても、懐かしくてあたたかいこの場所へ戻ってこよう、この腕の中は、安全だ。
カミーユは両手に持っていた石で、ロダンを押した。
ロダンがカミーユを抱きしめていた腕をほどく。
カミーユは、ロダンを見上げて言った。
「先生、袋を借りますね。私、戻って他の石も取ってきます」
再びアトリエを出ようとしたら、背後から、さっきより強く抱きしめられた。
「どこにも行くな」
ロダンの、切羽詰まった声が聞こえた。
「どうしたんですか?先生」
カミーユは、落ち着いて答えた。
「石なんていい。ここにいろ」
「大丈夫ですよ、私、ちゃんと戻っ…」
強引に、振り向かされて、唇を奪われた。
カミーユは、心の中でゆっくり1秒数えたあと、身を引いた。
バツの悪そうなロダンを軽く睨むと言った。
「次こんなことしたら、怒りますよ」

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この一件以来、カミーユとロダンの関係は急速に深まっていった。カミーユがロダンのアシスタントであり愛人であるのは、周囲にも公然の事実となっていった。
しかし、この時ロダンにはローズという3歳下の内縁の妻がいた。そして、ロダンとカミーユの歳の差は23もあった。そうしたことから、2人の関係を揶揄する者も少なくなかった。
特にカミーユには利用されているだけだと忠告してくる者も多かった。
それでもカミーユは怯まなかった。ロダンを信じていた。
今までの女性(ひと)は可哀想に。私がこの人との愛の正解を見せてあげる、そう思っていた。

何より、自分のアイデアや技術を、ロダンが必要とし、頼ってくれるのが嬉しかった。好きな人の、役に立てている。そのことがカミーユを高揚させ、持っている力以上のものを出させた。

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「カミーユ、君は美しいgénie(天才)だ」
ロダンにそう言われるたび、身震いした。
もっともっと、私の全ての力でこの人を守り、2人で新しい彫刻を作る。
その頃、ロダンは「地獄の門」に取り掛かっていた。しかし、何度も行き詰まり、製作は難航した。
2人は何日もアトリエに泊まり込み、アイデアを出し合い、彫刻刀を振るった。

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その日も、2人で深夜まで製作をしていた。
「ちょっと休もう」
ロダンが声をかけた。
「はい。このアールのやすりだけかけちゃいます」
「見せたいものがあるんだ、来てくれ」
言われてアトリエのテーブルに行くと、布がかけられた作品が置かれていた。両手に収まるほどの大きさだった。
「新しい作品ですか?」
「布を取ってくれ」
言われるままに、布を取ると、女性の胸像だった。
一目見て、自分だと分かった。
「像の台座を見てくれ。右の端だ」
そこだけ、石が赤みがかっていた。血の色に見えた。
「これって…」
「気づいたかい?あの日、君が血だらけの手で持ち帰ってくれた石だ。その石で、美しい君をかたどった。受け取ってもらえるかい?」
カミーユは、像の頭から、頬をそっと撫でた。
ロダンらしい荒々しさと、繊細さが指先に感じられた。
「先生」
カミーユは像に視線を落としたまま、静かに問いかけた。
「何だね?どこか、補刀が必要かい?だが、あまり無茶は言わんでくれよ、どう彫ったって、本物の君にはかなわない」
ふふっとカミーユは笑った。
「いつ、ローズと別れてくれるんですか?」
「そ、それは、彼女と今話してる」
「そうですか。先月も、そう仰ってましたよ?」
「アレもなかなか、頑固でね。だが、それもじき片がつく」
「ふーん。そうですか。楽しみです。これは、それまで大人しく待っていてくれっていう、プレゼントですか?」
「そういう意味じゃない。君への敬意と親愛を込めたものさ」
カミーユは胸像に布をかぶせた。
「気に入らなかったかね?」
その声に、少しだけ気弱な響きが含まれていることに、カミーユは気づいていた。いつも、弟子や人前では強気なロダンだが、本当は繊細で臆病なのだ。
「いいえ。とっても嬉しいです。先生、もう一つ、おねだりしてもいいですか?」
「何だ?怖いな」
そう言って顔をしかめるロダンが、本当は嬉しがっていることも、カミーユにはもう分かっていた。
「このアトリエはたくさん人が出入りするから、落ち着けません。どこか別に、アトリエを用意してくれませんか?もちろん、小さくていいんです」
「分かった。良いところを探してみよう」

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アトリエが欲しいなんて、ロダンを困らせたくて言った冗談だった。
だから、初めてロダンにこのイレット城に連れて来られた時は驚いた。
湖畔に佇む、美しい古城だった。

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「気に入ってくれたかね?」
カミーユは、しばらく城を眺めたあと、わざと冷たい声で言った。
「私、お城が欲しいなんて言いました?」
「そうだが…いや、もちろん、アトリエにも使えるさ」
予想外の反応だったのだろう。狼狽するように答えるロダンが可愛かった。
「ここに私1人住まわせる気ですか?」
「まさか。僕も一緒さ。これで、君ともっと一緒にいられる」
カミーユはその言葉に頷いた。
「他の人は、入れないでくださいね」
ロダンを残し、カミーユは城の入口へ歩き出した。

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のちにその時の彼の表情を思い出して、1番近い表情だと気づいたのが、弟子の致命的な彫り間違えを見つけた時の表情だ。
そんな表情を、彼は確かにその時した。
そして
「今は忙しい。今夜、ゆっくり話そう」
そう言った。
子供が出来た時、初めに恋人同士がすることは、手に手を取り合って喜ぶことではないのか。しかし彼は話し合おう、そう言った。ニコリともせずに。

「嬉しくないの?」
その夜、アトリエのテーブルに向かい合って座ると、カミーユは単刀直入に斬り込んだ。
「困るんだよ、今は。ローズのこともあるだろう?」
「何年、彼女のことを言ってるのよ。聞き飽きたわ」
「そうは言っても、君より彼女との方が付き合いは長い」
「だから何?別れるって言ったのはあなたよ?嘘なわけ?」
「落ち着けよ、そうじゃない。物事には順序ってものがあるんだ」
「落ち着いてるわよ。順序通りじゃない。あなたがわたしを抱いた、それで子供ができた」
「そんな言い方はやめろ」
「あなたが順序とか言い出すからでしょ。とにかく、あなたは私に子供が出来たのが嬉しくないのね?」
「そうは言ってない。時期が悪いと言ってるんだ」
「じゃあいつなら良かったのよ。秋の感謝祭まで待って、カボチャのスープと一緒に、ディナーのテーブルに出せば良かった?はいどうぞ、あなたの子供ですって」
ロダンは頭を掻いてうつむいた。
「僕の立場も分かってくれ」
「ローズに私と子供が出来たから別れて欲しいと言えば済む話でしょう?」
「そう一筋縄で行くか。君は何でも物事を直線で考え過ぎる。君が思うより世の中はずっと複雑なんだ」
「分かったわ。意気地なし。卑怯者!」
カミーユは立ち上がった。
「おい、どこへ行く!」
アトリエの入口に向かったカミーユをロダンが呼び止めた。
「言えないなら、私が言ってあげるわ、ローズに。"あなたの季節は終わったわ"って」
ロダンがカミーユの腕を掴んだ。
「離してよ」
「落ち着けよ!」
「ロダン」
カミーユはロダンの目を見つめた。
「な、何だよ」
「久しぶりじゃない?そうやってあなたが、必死に私の手を握るなんて」
「そんなことあるか。僕は君を愛してるし…」
カミーユはロダンの手を振り払うと、そのままロダンの頬を平手打ちしようとし、直前で、力を緩めた。
そして代わりにロダンの頬に手を添えると、顔を近づけ囁いた。
「哀れな人」
みるみるうちに、ロダンの顔が紅潮するのがわかった。
物も言わずに、彼は大きな音を立ててアトリエを出て行った。

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その日を境に、ロダンのカミーユへの態度はあからさまに変わった。今までカミーユ以外に手伝わせなかった作品の手伝いを、他の者にやらせるようになった。
その変化に、周りは戸惑ったが、何があったか、2人に聞ける者はいなかった。
カミーユは他の者に仕事を取られ、次第にアトリエで孤立していった。
子供も、諦めるより他はなかった。
この時の気持ちを、どう言えばいいだろう。
悲しさより、虚しさだった。
虚しさより、おかしさだった。
こんなにもあっけなく信じていたものが崩れるなんて、見事すぎて笑えた。
しかし、こんなことになるなら、周りの忠告に従っておけば良かったとは思わなかった。
愛したい人を、愛せる時、愛さなくて何が人生か。
だから、それはそれで良い。
ただ虚しくて、笑えた。
怒りはどこにもなかった。
それが救いだった。
私は、彼を憎むことなく、恨むことなく、この愛を枯らしていける、そう思えた。

ある日、早めに仕事を切り上げて部屋に戻ったカミーユは、彫刻刀を忘れたことに気づき、アトリエに戻った。
アトリエの扉は少し開いていて、中からロダンと最近工房に入った若い女のアシスタントの声がした。
どうやら、彫刻刀の使い方を指導しているようだった。
軽くノックをし、カミーユは中へ入った。
「どうした?」
ロダンが声をかけてきた。
「忘れ物を取りにきただけだから。気にしないで」
そう言って、ロダンの方を見た時、女が手にした彫刻刀が目に入った。
カミーユの彫刻刀だった。
瞬間、言いようのない、どす赤い感情が込み上げた。
「あ、すまん。もしかしてコレか?」
ロダンがカミーユの表情が変わったことに気づき、慌てて女から彫刻刀を取り上げた。
「悪く思わないでくれ。君の彫刻刀はいつも綺麗に手入れされているから、それも含めて彼女に伝えたかったんだ」
「いいのよ」
かろうじて、それだけ言葉が出た。
ロダンから彫刻刀を受け取った時、怒りで彼を突き刺さないようにするのに、必死だった。
隣りで女が済まなそうに口の中で何かモゴモゴ言っていた。
おそらく、私とロダンの関係も知っているのだろう。
「気にしないで」
何とか、うまく笑って言えた。
よろめくようにアトリエを出ると、すぐ近くのゴミ箱へ、彫刻刀を叩きつけるように投げ捨てた。
あとは、走って走って、気づいたら駅の階段に座り込んでいた。
カミーユは30歳になっていた。

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その後、さらに数年、ロダンとの関係は冷めながらも続いた。けれど結局、ローズが病気になったのを機に、ロダンははっきりローズを選んだ。

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ロダンと正式に別れると同時に、カミーユはロダンの工房を出た。
1人になり、改めて自分の作品を作り、売り込んでみたが、評判は芳しくなかった。一様に言われるのが、「ロダンの作品と似ている」だった。それは、今までなら誇らしいことだった。けれどロダンと別れた今、自分を縛る鎖でしかなかった。
ロダンと似ていると言われても、自分の作品はロダンの作品であり、その逆も然りだ、そうやって、いくつもの作品を作ってきたのだ。「地獄の門」にだって私の「刀」の跡は残っている。ロダンの「刀」として。

結局影武者で終わるのか。
私の彫刻家人生は、ロダンの影武者だったのか。
そんなわけあるか。
それで終わってたまるものか。
カミーユは、必死に彫った。
東洋の絵師HOKUSAIにインスピレーションを受け、波をモチーフにした作品を作ってみたりもした。

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しかし、新しいことに挑めば受け入れられず、正攻法でやればロダンが立ちはだかった。
ロダンの展覧会へ行き、一つずつ作品を指差して叫びたかった。これも、これも、これだって、私のアイデアだ、私が手伝ったものだ、私の魂を、返せ。

そんなカミーユを周囲は痛ましそうに遠巻きに眺めた。
女としての旬も過ぎた。
才能ももう枯れた。
カミーユは小さなアトリエで、自分で自分を抱きしめた。
寒かった。
いつか、イレット城の廊下で、ロダンに抱きしめられたことがあったっけ。あの頃の私は自信に満ちていた。
若さも、才能も、永遠に尽きることなどないと、半ば本気で思っていた。

カミーユは、いくつも作品を作り、作った先から破壊した。思った物は作れず、やっと作れた物は、過去のロダンと自分自身が既に作っていた。
過去に殺されそうだった。
こうやって、ずっと彫るたびに過去に呪われるのか。
カミーユは彫刻刀を置くとため息をついた。
どうすれば良かった?
答えなど、あるはずなかった。

あるいは全部無くせば、初めからやり直せるのか。
カミーユは、自作を置けるだけ作業台に置いた。
全て破壊するつもりだった。
しかし、それよりも前に始末するものがある。
カミーユは、台座の端が赤く染まった、小さな胸像を作業台に置くと、ぐっと手に力を込めた。

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次第に精神のバランスを崩していったカミーユは1913年、49歳の時、ついに弟のポールによって精神病院へ入院させられた。

入院の説得にきたポールに、カミーユは大人しく従った。
仕事道具は、何一つ持たなかった。
ただ一つ、十字架のネックレスだけ、身につけた。
入院してからは、院内の小さな礼拝堂で、毎朝キリスト像の前に跪き、頭を垂れた。
早く、楽にしてください。
それだけ、願った。

昔のことは、極力忘れようと努めた。
何も良いことなどなかった。
院内のスタッフは、私が彫刻家だったことを知ると、治療の一環だか知らないが、やたら何か彫らせたがった。
仕方ないので彫刻刀を受け取り、自分の喉を突き刺す真似をしてからは、誰も何も言わなくなった。

「かつてはロダンの一番弟子だったんだろ?」
「いや、ただの愛人でしょ?」
「だよな、歳取って、捨てられたんだ。それを認められないんだよ」

手も目も、彫刻をやるのに必要なものはみな、衰えたのに、耳だけは聞こえなくなってくれなかった。それが恨めしかった。

一度だけ、記者がロダンとのこと聞きにきた。
あることないこと、勝手に喋った。
年寄りの戯言と、記者も苦笑混じりに聞いていた。
それでいい。何もかも、もう忘れた。忘れたいのだ。忘れさせて欲しい。
最後に、ロダンとの一番の思い出を聞かれた。
そんなもの何もない、そう答えようとした時、ふいに胸をピアノの鍵盤のように、何かがトンッと打った。
やがてそれは1つのリズムになった。
「……ワルツ…」
言葉が、口から漏れた。
朝の木漏れ日。
イレット城の長い廊下。
彼の影。
口づけと、ターン…。
記者が、聞き返した。
カミーユは、一瞬、目を瞑った。
それから、今度こそ、はっきり言った。
「思い出なんて、ありません。帰ってください」

入院中、風の噂でロダンが亡くなったと耳にした。
わずかに、胸が痛んだ。
けれどもう、どうでもいいことだった。
冥福は祈らなかった。
その日もいつものように、ただ一日、誰も来ないベッドの上で、ぼんやり過ごした。

見舞いは、数年に一度、弟のポールが様子を見に来るだけだった。
生きているのを確認したいだけなのだろう。
いつも世間話もそこそこに、逃げるように帰っていく。
そんなポールから、父が亡くなったことを知らされた。
家族の中で、唯一、父だけが私を応援してくれていた。
ポールが帰ってから、涙がこぼれた。
葬式に、参加したかった。
ここを出て、墓参りくらいしたかった。
けれど、それは許されなかった。
ポールも病院も、決して私に退院の許可を出さなかった。
死ぬまで私をここに入れておくつもりだろう。
だから毎朝願った。
早く楽にしてくださいと。

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そして入院から実に30年後、1943年、78歳でカミーユはこの世を去った。家族の誰にも看取られぬ最期だった。

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2017年、カミーユが10代の頃を過ごしたノジャン=シュル=セーヌに彼女の名を冠した美術館が開設された。
彼女の作品の多くは、彼女自身に破壊されてしまった。
それでも、残された作品からは彼女の凛とした、それでいて艶やかな柔らかさが伝わってくる。

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中でも「ワルツ」、そう題された1組の男女が踊る作品は、彼女の傑作の1つに数えられている。

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(終)


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