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バスキア〜永遠のブルー、いつもの曇天〜

マンハッタン、イーストビレッジはいつだって曇ってる。
この街に、一度だって太陽が照ったことなどあるものか。

1979年、春。
イーストビレッジ。
いつ、どうやって戻ったかは分からない。
目が覚めるとアパートのベッドだった。
18歳のジャン=ミシェル・バスキアは仰向けのまましばらく天井を見つめていた。
いつもの天井だ。
SAMO※1 …結局いつもここに戻って来ちまう。振り出しなんだ。心の中で呟く。視線を右へずらすと窓から、向かいのビルで斜めに切り取られた空が見える。いつもの曇り空。
※1 10代の終わりまでバスキアが友人と組んでいた、路上グラフィティユニット。いつもと同じ、という意味。

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バスキアは首筋に乗った女の白い腕を乱暴に払った。
隣りで女は小さく唸って寝返りをうった。シーツを身体に巻きつけ、こちらに背中を向けて再び丸くなる。
バスキアはそれを剥ぎ取ると、紺色のシミーズからのぞいた女の背中を叩いた。
「誰だ、あんた」
女はなおも唸りながら、眩しそうに薄目を開けてこちらを見るとうっすら笑った。
化粧で誤魔化しているが、自分より10くらい上だろう。
口の大きな女だ、ぼんやりそんなことを思う。
「挨拶ね。昨日の夜したこと、忘れたの?」
「出てけよ、野良猫」
バスキアは床に落ちていた女のバッグをベッドへ放り投げた。
「アンタそれ、マジで言ってる?」
女は笑みを引っ込めると憮然とした表情でベッドから半身を起こした。
バスキアは女を見ると、軽く頷いて親指で玄関を指した。
「昨日の夜、『マッド・クラブ』※2で声かけてきたのはアンタじゃない」
※2 バスキアなど、様々なアーティストの溜まり場になっていたクラブ

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「暗くてよく見えなかったからな、間違えたわ」
「サイテー」
バスキアはシャツを脱ぐと部屋の隅のボックスに投げ入れ、チェストから赤のチェックのシャツを取り出した。女はそれを黙って見ていたが、はんっ!と高い声で笑った。
「綺麗に畳んだシャツ、箪笥から出して着てんじゃねーよ。ストリートアートが聞いて呆れるわ。一生ママにやってもらってな。わたし、帰る」
女はベッドの上に立ち上がると、反動をつけて床に飛び降りた。バスキアが脱いだシャツをボックスから拾い上げて羽織ると、金色の長い髪を跳ね上げた。

そこへ、玄関の扉が開き、両手にスーパーの紙袋を抱えたアレクシス※3が入ってきた。玄関で、女と鉢合わせになる。
※3 アレクシス・アドラー 当時のバスキアの彼女
アレクシスは驚いたように女を一瞬見つめたあと、部屋の奥のバスキアに声をかけた。
「ジャン、お友達?」
「さぁね。迷い込んだ野良猫さ」
女が振り返ってバスキアを睨む。
「誰が酔い潰れたアンタをこの部屋まで運んでやったんだよ!」
「キース※4だろ」
※4 キース・ヘリング 画家。バスキアと親交があった。

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「わたしもだよ!」
「頼んでないね」
アレクシスは女の腕を掴むと言った。
「ジャンが面倒かけたのね。ね、コーヒー、飲んでかない?」
勢いに押されたように、女が頷く。
「良かった。ブラックでいい?すぐ淹れるわ」
アレクシスに押し戻されるように部屋に戻ると、女はソファに腰掛けた。
「それ、ジャンのでしょ?似合ってるわ」
キッチンからアレクシスが女に声をかける。
「あー、コレ…間違えちゃって。返した方がいいかしら」
「ふふっ。服を間違えるなんて、"どんな夜"だったの?」
アレクシスが笑う。
「サイテーよ」
「あら?ベニーロズ※5のチーズケーキじゃなかった?」

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「最初はね。でも朝になったらマクソリーズ※6のオーナーの駄洒落並みに笑えないオチよ」

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※5 イーストビレッジにある老舗の洋菓子店。甘いチーズケーキが有名。
※6 イーストビレッジにある老舗のバー
「勝手言ってやがる」
バスキアは棚に並んだスプレー缶を振って残量を確かめると、布のバッグに入れた。
アレクシスが肩をすくめる。それを見て女が言う。
「ねぇ、あなた、彼のガールフレンド?だったらコレって…」
「あぁ、気にしないで。私たち、そういう感じじゃないから」
女はバスキアの方を振り返り、またアレクシスの方へ視線を戻した。アレクシスは女ににっこり微笑んだ。女が感心したように言う。
「へぇ…なんかいいわね。そういう関係」
「そ?はい、お待たせ!」
アレクシスはビーカーに入ったコーヒーをローテーブルに置いた。
「わっ!すごっ!」
「ふふ。驚いた?うち、まともなマグがなくて。ジャンが何にでも描いちゃうから。でもわたしの仕事道具だけは触るなって言ってあるの」
女がそっとビーカーに手を伸ばす。
「熱いから気をつけてね」
「ありがと。仕事って、あなた何してるの?」
「研究員よ。昨日は泊まり込みだったの」
シャツの袖を引っ張り、手を隠してビーカーを両手で挟むと、女はコーヒーをひと口飲んだ。小さく、息をつく。
「おいし…」
「ただのインスタントよ。あなた、名前は?」
「マドンナよ※7」
「へぇ。いい名前ね。何してるの?」
「マッド・クラブでダンサーやってるわ。でも1年後にはブラウン管の向こうで歌ってるわ」
「そう、楽しみだわ」
バスキアは準備を整えると、バッグを背負い、スプレー缶を片手に立ち上がった。
「今日もノーホー?※8」
※7 マドンナ 言わずと知れたクイーン・オブ・ポップ。デビュー前、ダンサーなど色々な仕事をしており、バスキアと付き合ってたこともある
※8 この頃、バスキアはノーホー界隈の壁にグラフィックを描いていた

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「さぁな。壁に聞いてくれ」
「へぇ。彼女の前では一丁前にカッコつけるんだ?」
マドンナが茶化すように笑う。
バスキアはスプレー缶の蓋を指で弾き飛ばすと、ノズルを押して、素早く腕を動かした。
シンナーの臭いと、黒い飛沫が辺りに飛び散り、マドンナが悲鳴をあげる。
「雌犬みたいにキャンキャン吠えんなよ。あんたがグラミー賞獲るまで、そいつは預けとくぜ、ポップスター」
バスキアは片手をあげると玄関の扉を開け、外に出た。
マドンナが着たシャツの背中には、大きな王冠※9が描かれていた。
※9 王冠のマークはバスキアのシンボルの1つ

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テーブルの横に立ったバスキアを男はチラッと見ると蝿でも追い払うように手を振った。
「とっとと消えな。これ以上、後ろの彼女に恥をかかせたくなければな」
バスキアは男の手からフォークを取り上げると、皿の上のベネディクトエッグに突き刺した。
「お前には聞いてない。黙って食ってろ。それとも"こうなりたいか"?」
後ろからアレクシスがバスキアの腕を抑える。
「ちょ、もうやめよ」
「大丈夫さ。これはただの交渉だ。なぁ、アンディ※10?」
※10 アンディ・ウォーホル 当時のアートシーンを席巻していた画家

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男の向かいに座った、痩身の眼鏡をかけた男は白髪を掻き上げると苦笑した。
「交渉と言うには穏やかじゃないね。君が"豚"扱いしたヘンリー※11はキュレーターだ。メトロポリタン美術館のね。さて、そのヘンリーと、今会ったばかりの君、僕はどっちを信じると思う?」
※11 ヘンリー・ゲルツァーラー
バスキアはポケットからポストカードの束を取り出すと、バサッとテーブルへ落とした。
「見る義務はない」
散らばったカードを無言で整えると、アンディはバスキアへ突き返した。レストランの照明をはね返し、光った眼鏡の奥の表情まではわからない。
「ストリートでグラフィックをやってるんだろ?SAMO、名前くらいは聞いたことがある。しかし、若さゆえの思い切りの良さを履き違え、ただの無礼な男に興味はない」
バスキアは再びポストカードをテーブルへ置くと、しばらく黙ってアンディを見下ろしていた。
その視線に構わず、アンディはアールグレイの紅茶を飲み、フレンチトーストを切り分けた。
「俺が、黒人だからか?」
一瞬、アンディの動きが止まった。そしてもう一度バスキアを見ると、ゆっくりテーブルの上のポストカードを背広の内ポケットにしまった。
「今のままでは、君は成功しない」
「何でだっ」
バスキアは両手をぐっと握りしめた。その腕を、アレクシスが掴む。
「話は終わりだ」
「ね、もう行こ?」
アレクシスの腕を振り払うと、バスキアは店の外へ飛び出した。それを追おうとしたアレクシスをヘンリーが呼び止めた。
「あの坊主が、もう少し礼儀ってもんを身につけたら、ココに来るように言ってくれ。それまで、"子守り"は任せたよ」
そう言って、名刺を差し出した。
アレクシスは、名刺受け取り、2人に頭を下げるとバスキアを追って駆け出した。

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アレクシスが店を出た時には、もうバスキアの姿はなかった。仕方なく、バスキアがよくいるスクール・オブ・ヴィジュアル・アーツ(SVA)※12の方へ歩いて行くと、道の向こうからアル※13がやってきた。
※12 マンハッタンにある商業アートやデザインの芸術大学
※13 アル・ディアス バスキアと共にSAMOの活動をしていた友人

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「ねぇ、ジャン、見なかった?」
「いや。君と食事に行ったんじゃなかったのかい?」
「それが食べる前に終わっちゃったのよ」
アレクシスはレストランでの出来事をアルに話した。
話を聞き終わるとアルは笑って言った。
「それぁ、芝居じゃないかな」
「芝居?」
「相手はアンディ・ウォーホルだぜ?1日、何人の人間と会うと思う?中には今日のジャンみたいな奴もいるだろう。そうした中で、記憶に残るには"いい子"じゃいられないってことさ」
「じゃあ、ジャンのあの態度はわざとってこと?彼、そんな器用だったかしら」
「分からないけどね。彼はいつだって誰よりもこっから這い上がることを目指してる」
そう言ってアルはビルに挟まれた曇天を指さした。

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結局朝から何も食べてない。誰か捕まえて、ベーグルでも奢ってもらおう。バスキアは上機嫌だった。アンディの機嫌は多少、損ねたかもしれないが、きっと奴は俺を無視できなくなる。自然と、鼻歌が漏れた。そこへ、後ろから肩を叩かれた。
「B BOYがチャーリー・パーカー?ちょっと上品過ぎない?」
振り向くと、マドンナだった。
「誰がB BOYだ。あんたの取り巻きと一緒にすんな」
マドンナは、黙って何かを見定めるように上目遣いでバスキアを見た。
「へぇ…そう。あなたってやっぱり、ブルックリン育ちのボンボンね」
「どういう意味だよ」
バスキアはマドンナに向き直った。
「そのまんまの意味よ。自分じゃ肌の色がどうとか言ってるけど、毎日食べれて、夜はベッドで寝れたんでしょ?朝起きたら薬でキマッた母親にヘロイン買う金せびられて、父親に殴られながら売春宿に蹴り込まれる生活、想像できて?父親の暴力が嫌になって逃げだしたなんてストーリー、ストリートじゃありふれてんのよ」
バスキアは俯くとふっと笑った。
「随分、俺に詳しいじゃねぇか。5ドルでサインやるから消えな」
マドンナはバスキアを見つめると手を取った。
「可哀想。お腹空いてイライラしてるのね。いい店知ってるわ」
バスキアはその手を振り払った。
「奢るんじゃないわ」
マドンナは着ていたシャツの背中を指した。
「プレミアムつくんでしょ、これ」
バスキアは苦笑した。
「あんた名前、何つったっけ?」
「昨日から100回聞かれてるわ。マドンナよ、よろしく」
そう言って、もう一度マドンナはバスキアの手を取った。

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バスキアとマドンナが店に入ると、奥の席に一際目立つ大柄な男がいた。派手なプリント柄のレザージャケットを着て犬のようにサーモンソテーにかぶりついている。
「キース!」
バスキアは男に駆け寄ると、男が被っていたキャップのツバをぐるりと後ろへ回した。
「昨日は、面倒かけたみたいだな」
「気にすんな。それより後ろは昨日の子かい?」
キースはニヤッと笑ってバスキアの胸を突いた。
「想像するようことは何もねーよ。つーか覚えてねーんだ」
「はん。まぁいいや。座れよ」
マドンナがバスキアに同じのでいいでしょと言うと、答えを待たずにホットソースのローストチキンを2つ頼んだ。
「そういや、トニー※14がお前に会いたがってたぜ。今度ギャラリーに遊びに来いってさ」
※14トニー・シャフラジ キース・ヘリングやバスキアなど様々なアーティストの展覧会を手がけたギャラリスト

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「それってチャンスじゃない」
「そこで描かせてもらえるのか?」
「どうだろうな。興味を持ってるのは間違いない。あとはお前次第さ」
キースはサーモンの最後の一切れを口に放り込むと、ジンジャエールで流し込んだ。
「なるほどな…そいつもいいが…『ザ・ヴィレッジ・ボイス』(地元誌)でSAMOのことを話そうかと思うんだ」

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「ほーう。しかしSAMOは匿名なんだろ?アルはそう言ってたぞ」
「あいつは頭が硬いんだよ。カッコつけ過ぎる。アートなんだから知られなきゃ意味がない」
「まぁなぁ…」
キースが考えるように、頭の後ろで手を組み、のけぞった。木の椅子の背もたれがギイと鳴る。
「有名になるのもいいけど、仲間を裏切るわけにいかないでしょ。ちゃんと話し合ったら?」
「分かってるよ。でもな、俺はこんなところで、いつまでも"散歩してる"わけにいかねーんだよ」
バスキアは続けて言った。
「俺にはキースや他の奴らみたいにスクールで勉強する金もない。黙っててもコネなんてできねぇ。野良犬みたいにスクールの周りをうろついて、目ぼしいのを手当たり次第に捕まえて、踏み台にして、のし上がってくしかねーんだ」
ふーんとキースが笑った。
「それがお前のやり方か。じゃあ俺に近づいたのも、"踏み台"のつもりか?」
「そういうことじゃない。俺が言ってるのは、ギャラリストやメディアの連中さ。青田買いに来てる連中に、俺はこっちから押し売りするしかねーんだ」
キースは軽く笑って頷いた。
「焦んなよ。まぁ、チキン食えよ」
バスキアは目の前に置かれた皿を見つめた。
腹は減っていた。それこそ野良犬のように。
しかし、こんなところでチキンなど食べてる場合なのか。こうしてる間にも、こうしてる間にも…考えても言葉は出てこない。一体何に追われてるというのか。
「良かったら食ってくれ」
バスキアはチキンの皿をキースの方へ押しやると、席を立った。

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虚しかった。
息苦しかった。
どこに行ったって、何をしたところで同じに思えた。
バスキアは、気づくとトンプキンズ・スクエア・パークのベンチにぼんやり座っていた。

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この公園は15歳で初めて家出をした時、野宿した場所だった。あれから3年、マンハッタン界隈じゃ少しは名前も知られたが、所詮井の中の蛙だ。でかい空を見ることなく、この曇天の下で死ぬのか。バカらしかった。

突然、背後から目を塞がれた。柔らかな感触で手のひらだと分かる。
バスキアは声を出さず、じっとしていた。
「そこから何が見えますか?」
アレクシスの声だった。
「……」
「わたしはね、真っ暗でも歩けるよ」
パッと視界が開けた。
「探したよ」
声が震えていた。振り向くと、アレクシスは目を擦って笑った。
「帰ろ」
そう言って伸ばされた手をバスキアは掴んだ。
さっき目を覆ったのと同じ、柔らかで、小さな感触だった。
それから2人でセントマークプレイスをゆっくり歩いた。
「なんもさ、なーんも上手くいかないって思うことあるよね。本当はそうじゃないのかもしれないけど、そうとしか思えなくて、バカらしくて、嫌になる」
「……」
「毎日ちょっとずつ昨日の自分より成長しようって思っても、全然ダメで、いつもと同じ、"SAMO"なの。これって何だろうね」
「俺とお前は違うよ」
「それはそうだよ。でもわたしが暗闇を歩けるのは、隣りにあなたがいるからだよ。わたしとは違う光で世界を照らしてくれる」
「……」
「俺とお前は全然違うんだよ。お前は落ちても死ぬことはない。下にクッションが敷いてあんだ。でも俺は違う。奈落なんだよ」
ふふっ。アレクシスは楽しそうに笑った。
「一体ここからこれ以上、どう落ちるっていうの?ねぇ、見てよ」
アレクシスは指を上に向けた。
薄暮に溶けそうな月が浮かび、空は昼間よりブルーだった。
「皮肉だね」
「わたしたちのことだよ」
バスキアはズボンのポケットに手を突っ込んだ。
「いつまで描くの?」
「スターになるまで」
「いつスターになるの?」
バスキアはふっと空へ息を吐いた。
「明日起きたらな」
「そう、じゃあわたしは、ここから見てるね。寂しくなったら帰っておいで」

風に、木の葉が揺れる音で、目が覚めた。
バスキアは1つ大きく伸びをするとベンチから立ち上がった。歩き出したその背中を生まれたばかりの月が照らしていた。見上げなくても空の色はわかっていた。

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アレクシスはフォークを逆手に持つとチキンにぶすりと突き立てた。
「まさに、こんな感じよ」
「クレイジーだな」
キースが肩をすくめる。
「でも確かに、印象には残るかもしれない」
「名刺ももらったんでしょ?悪くないってことよ」
マドンナが続けて言う。
「それに彼、わたしと会った時、鼻歌歌ってたわよ。案外アルの言う通り芝居なんじゃない?」
「で、本人はいないのね」
「一足違いだな。さっきまで居たんだが、急にふらふらーっと出て行っちまった。まぁそういう奴だよ、ジャンは。良い奴だが、捉えどころがない」
キースは帽子のツバを元の位置に戻した。
「そういやあいつ、ヴィレッジ・ボイスにタレ込むとか言ってたぞ。アルに伝えた方がいいんじゃねぇか」
「タレ込むって…?」
「自分とアルがSAMOの正体だってバラすってことだよ。最近、"犯人探し"が加熱してるからな。このタイミングで明かせば確かに話題にはなる。でも、それはアルの望むSAMOの在り方じゃない。アルはあくまで匿名のミスターXとして世の中を撃ちたいんだ」
アレクシスがキースを見つめて言う。
「それ…どっちが正しいのかしら」
「正しさなんてアートにゃねぇよ。あるのはいつだって方法論と美学の衝突さ」
「わたしは、ジャンの味方よ」
アレクシスは言い切った。
「それはそれでいい」
「有名になりたいって願うこと、そんないけない?あなた達だってそうでしょ」
「悪くはないわ。筋を通せってことよ。アルと話し合うのが先でしょ」
マドンナは飲んでいたコーヒーのカップをソーサーに戻した。
「貴女の家の"ビーカーブラック"の方が美味しいわね」
「ジャンだっていきなり、雑誌社に言ったりしないわよ」
2人に宣言するように言って、アレクシスは立ち上がった。
ジャンを探さなくては。会って、話さなくては、そう思った。
出口に向かうアレクシスの背中にキースが声をかける。
「チキン食って待ってろよ。追ってもロミオとはまた擦れ違うだけだぜ」

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部屋に戻ってもアレクシスはいなかった。明かりの消えた部屋に窓から月の光が差し込み、全てのものが巨大な影となって横たわっていた。
バスキアは壁にピン留めした自作のポストカードを剥がした。ポストカードにはコラージュのようにチラシ、メモ、包装紙など様々なものが貼り付けられていた。その中の1つ、名刺を剥ぎ取ると、表面に塗られた絵の具を水で落とし、記された番号へ電話をかけた。
「『ザ・ヴィレッジ・ボイス』の編集部へ回してくれ。SAMOの件と言えば分かる」
そう伝えると、電話はすぐに編集部へ繋がった。
「SAMOのことを知りたいんだろ?これから『マッド・クラブ』へ来い。ん?違うさ。助手はいるが、ユニットなんかじゃない。俺1人だ。俺が、SAMOだ。名前、名前か。バスキアだ」
それだけ言って、電話を切った。
ふと、暗がりに気配を感じて玄関の方を見ると、アレクシスが立っていた。
「誰と話してたの」
「アルさ」
「嘘」
バスキアはふふっと笑った。
「バレちゃ、しょうがない。そこをどいてくれ。行かなきゃいけないとこがある」
バスキアが近づくと、アレクシスはスッと体を避けてバスキアを通した。
「警戒しなくても平気よ。わたしは止めないから」
バスキアは玄関のノブを回しかけて、振り返った。
「お前、今日、トンプキンズ・スクエア・パークにいたか?」
アレクシスは首を振った。
頷くとバスキアは外へ出た。
さっきまで出ていた月は、どこにも見えなかった。
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この後、すぐにSAMOは解散し、バスキアとアルは袂を分つことになる。

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そしてバスキアはストリートからキャンバスへ表現を移し、スターダムの階段を駆け上っていった。レストランで強引にポストカードを売りつけたアンディ・ウォーホルとも親交を結び、作品を共同制作している。

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しかし、自らが忌み嫌ったブルジョワ階級に自身が取り込まれていく自己矛盾からか、もしくは人気者ゆえのプレッシャーからか、次第にヘロインに溺れ、27歳でその生涯を閉じた。晩年の数年は、アート界の潮流からも取り残され、その死は新聞の片隅でひっそりと報じられただけだったという。(終)


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