連載「若し人のグルファ」最終話

 鈍色の音がかすかに、けれど玉響の輝きを帯びて耳に触れる。

 五感の覚醒とともに、音は大きく早くなる。昨日あれだけ暴れて疲れているはずなのに、今朝も丑尾は五時前から起き出して、鉋や鑿の刃を研いでいた。

 丑尾の残り香を探して枕に顔をうずめる。

 昨夜丑尾は、冷房の効きすぎた部屋を寒いと言って俺の肌かけに潜り込んできた。

 一晩中丑尾の体温を背中に感じていたため、いつもより寝汗をかいている。

 鋼と石が鳴らす規則的な摩擦音に耳を澄ませる。昨日の衝突が丑尾の中にどのような変化をもたらしたのかはわからないが、刃を磨く砥石の音がいつもより高く、澄んで聞こえる。

 ため込んでいたものを吐き出してすこしは気分がはれたのか、起き抜けに盗み見た丑尾の身体に不自然な緊張は見られなかった。

 カーテンの隙間から陽の光が差し込んでいる。午前中のうちに良く晴れてくれれば、昨日の分の洗濯物も乾くだろう。

 身体を返して、天井を見やる。洗濯物の影がうっすらとゆれていた。

 あの影の中には黄色い糸で繕った丑尾の作業着も吊るされている。なぜ紺に目立つ黄色だったのか、なんとなくいたずらなこころが働いたためかもしれないが、丑尾の努力を支えているのは俺なんだと、暗に主張したかったのかもしれない。

 目を閉じる。瞼の裏に、丑尾の真剣な横顔が浮かんだ。

 兄弟愛を騙った保護欲か。

 小糸に言われるまでもなく、薄々気づいていたことだ。俺はずっと丑尾を気にかけている。それはあいつが弟みたいな存在だからとか、世話の焼けるかわいい奴だからとかではない。それはもっと業に近いものだ。

 あの日、丑尾が不安な顔で女子用のスクール水着を取り出したときから、こいつは俺が守らなければいけないんだという、強い使命感が胸の内に芽生えた。それは歳月とともに深く根を張り、ときに丑尾本人から手折られたりしながらも、今日まで大きく枝葉を伸ばした。

 それこそ小糸の言っていた通り、あいつのような好奇心から丑尾を守りたい一心で。

 砥石の音がやんだ。

 しばらくの静寂が保たれ、丑尾の足音がリビングへと戻ってくる。

 枕のすぐ横に丑尾が膝をついたのがわかった。かすかに右側が沈む気がして、かすかな息遣いを鼻の先に感じる。

 寝顔を見られているのか、狸寝入りとはいえまじまじと見つめられるは恥ずかしい。起きてしまおうかと考えているうちに、前髪になにかが触れた。冷たくまだ水気を残すようなそれが丑尾の指だとわかるまで、さほど時間はかからなかった。しばらく梳くようにして俺の髪を撫でてから、すっとこめかみへ移動して、古傷の幅をたしかめるようにそえられる。

「ほんと、ごめんな」

 かすかだが、はっきりとそう聞こえた。

 丑尾の足音はそのまま廊下へと向かい、すぐに玄関の扉が開く音がする。
呼び止めないと、二度と戻ってこない気がした。跳び起きて、丑尾のあとを追う。

 キッチンの前を横切ったとき、流し台の中でなにかが音を立てた。

 見れば砥石が出されたままになっていて、その脇に、鑿が一本、転がっている。


―終―

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