連載「若し人のグルファ」42

 丑尾がかすかに悲鳴を上げる。しかしすぐに口をつぐんで、再び俺の頭を殴打してくる。しかし、それも長くは続かなかった。危険な攻撃がくるたびにあごの力を強めてやって、ぎりぎりと脅すように噛み締めたら、攻撃の手は弱まった。

 やがて手のひらに蒸れた恥毛を感じ、指先がじとつくぬめりに触れた。蹴り上げようともがく両足を強引に押さえつけ、太ももの間にひざを割り込ませる。

 やめろ、やめろよ、ともらす丑尾の声はもはや震えて聞くに堪えない。あんなに殴りつけてきた拳も解かれ、いまは俺の頭にそっと触れる程度にそえられているだけだ。

「やっぱりお前は、女だったよ」

 顔を上げて、丑尾の顔を下からのぞき込む。

 その瞳に再び怒りの炎が灯った瞬間、熱く閉ざされたその陰に、俺は指を突き込んだ。

 はっ、と丑尾が息を呑んで、その動きを止める。

 指は奥の袋小路に当たり、ひきつるような痙攣を感じていた。ゆっくり引き抜くと、人差し指と中指の股に恥毛が絡まり、指の腹にはべったりと透明な体液が張りついていた。

 丑尾は全身を強張らせたまま短く息をついていて、もう抵抗しようとする気配すら見せず、喉元の腕を退かしても襲いかかってくることはなかった。

 立ち上がって、半裸になった丑尾を見下ろす。薄く割れた腹筋の上に俺の血が滴り落ちた。またどこか切れているのか、こめかみのあたりが熱かった。

「丑尾……」

 声をかけるが、返事はない。へその窪みで血と水とが交わり、あふれて脇腹へと流れていく。短い呼吸を繰り返し、その瞳はどこか遠くを見つめているようだった。

「……優香」

 呼吸が止まる。丑尾の口が、みるみるへの字に歪んでいく。

 力なく投げ出された腕が持ち上がって顔の前にかかり、その瞳を隠した。

 もしかしたら泣いているのかもしれない。だがたとえそうだったとしても、注がれ続ける流水にまぎれてその涙は判別できそうになかった。
ぬめる二本の指を親指でたしかめて、ひとつ大きな息をつく。

「風呂、入れよ」

 ようやく思い浮かんだ言葉は、なんの変哲もない、つまらないくらいに日常の余韻を引きずって風呂場の壁に反響した。

「動けるわけ、ねぇだろうが。責任もって、恭介が、入れろよ」

 息も絶え絶えな、弱弱しい声だった。けれど、その声の奥底に、なにか力強い根のようなものを感じた。

「世話の焼ける奴」

 丑尾の腕を取って引っ張り上げた。

 服をすべて剥ぎ取って、浴槽の縁に座らせる。一切の力みを放棄した丑尾の四肢は重く、立ち上がらせようとしたときにはどうしても抱きかかえるような格好になった。冷水を浴び続けた身体はひどく冷えていて、小刻みに震えていた。

 傾いたガラス戸をどうにかもとの場所にはめ込み、ガスのひねりをまわして温水が出るまでしばし待つ。こめかみに限らず、顔のあちこちが熱い。必死で丑尾を押さえつけていたので気づかなかったが、目頭も相当殴られたのか、どこよりも熱く感じた。

「なんで、お前が、泣いてんだよ」

 丑尾の声に顔を上げる。水垢で曇った鏡にぼんやりと自分の顔が映った。

 これで、泣いているのか。

 水滴が髪から滴り落ちて、額から眉間へ、眉間から鼻へ、鼻から口の端へと伝っていく。丑尾が涙だと言う雫は一切の温度を持たず、ただ滴り落ちていくばかりだった。

「お前こそ号泣じゃねぇか」

 さっきはわからなかった丑尾の涙が、今度ははっきりと見てとれた。

 次から次へと大粒の涙がこぼれ出てくる。

 お前のせいだとしゃくりあげる丑尾は、初めて女らしく、手で顔を覆って見せた。

 やっと温まった流水を、まずは丑尾の爪先にかけてやる。すね、膝、太もも、股、へそ、胸、鎖骨、肩、首、そして髪へと、すこしずつ上へと動かしながら、冷えた身体を温める。

 ときおり張りのある肌に触れて、血や涎の跡を洗い流してやる。丑尾はされるがままになって、俺の腹のあたりに視線を落としてじっとしていた。

 湯加減を確認して、湯船に浸かるよう言いつける。丑尾は大人しく従って、膝を抱えるような体勢で腰を下ろした。胸の上まで水位が上がり、これで風邪はひかないだろうと周囲を片づけて背を向ける。

「恭介も、入れよ」

 床タイルの血を流していると、丑尾のかすかな声が耳に届いた。顔を向けると、丑尾は真意の読めない、凪いだような表情をしたまま水面をじっと見つめている。

「いいのか」

「お前も身体、冷たかったじゃん」

 その肩はこころなしか上がっているように見えた。

「……わかった」

 俺はその場で服を脱ぎ、全裸になった。

 たいして広くない湯船にふたり、向かい合って浸かる。湯が浴槽からあふれて滝をつくった。俺の脚と丑尾の脚が交互に重なり、すこしでも膝の力を抜くと爪先にやわらかい重みを感じた。

 太ももに大きなあざができている。ばたつく脚を押さえたときに蹴られたのか、冷水を吸った衣服がずっと張りついていたので都合よく冷されており、押すと痛みではなく麻痺したような圧迫感があるだけだった。

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