琳琅 創刊号より、書評。武村賢親

  書評『鼻という名の自分像。ニコライ・ゴーゴリと芥川龍之介』

 『鼻』はもしかすると、私を「私」と印象づける重要な一端を担っているかもしれない部分である。人と話す時、誰でもまずは相手の顔を見ると思う。その際必ず目に入ってくるのが鼻である。大きい、小さい、太い、細い、高い、低い……。じつに様々な印象を受けるはずだ。それもそのはず、なんといっても『鼻』は顔面のど真ん中にあるのだから。

 ペテルブルグに住まう八等官コワリョーフ少佐(以後少佐と呼ぶ)は、ある朝、自慢の鼻が綺麗さっぱりなくなってしまっていることに気付く。剥ぎ取られたような傷があるわけでもない。ただ、のっぺりとしているのである。少佐は直ちに警視総監の元へ出かけることにした。というのも、彼は地位や身分への執着が強く、その称号を持つ自分の品位や厳格さをたいそう気にする人であった。少佐は八等官になってまだ二年目であったが、ペテルブルクで副知事に、さもなければどこか重要な省の監察官になる野望を持っていたのである。そのため、官僚仲間や上官、又は付き合いのある貴婦人方へ向けるべき顔の象徴たる鼻が無くなってしまうことが、彼にとってこれから先の人生を路頭に迷わせるほどの大事件であったことは想像に難くないだろう。

 警視総監の元へ向かう途中、少佐は奇妙な出来事に遭遇した。なんと、「鼻」と再会するのである。しかもその「鼻」は五等官の礼服を纏っていたのだ。少佐はそれとなく「鼻」に近づいて行って自らの居場所(少佐の顔)に戻るよう促したが、「鼻」は白を切るばかりで埒があかなかった。

 ここで「鼻」が少佐よりも身分の高い五等官であるという点に注目してみたい。「鼻」が擬人化した背景には強すぎる少佐の出世欲が絡んでいるように思う。少佐の自尊心が身分や地位に帰属しているならば、「鼻」がその自尊心を奪って彼の元を離れたように思えなくもない。

 再び行方をくらましてしまった「鼻」を捕まえるために、少佐は新聞の広告に「鼻」のことを掲載してもらうことにした。しかし、広告担当の男は少佐の現状を目にしても珍しがるばかりで、新聞の評判に関わるからと言って掲載を承諾してくれない。その代わりのつもりか、傷心の少佐を慰めるつもりで自分の嗅ぎ煙草を差し出したのである。煙草を嗅ぐ部分が無くなってしまっている少佐は大いに立腹し、新聞社を後にした。

 私はこの『鼻』という作品の中で一番面白いのはこの部分ではないかと思う。「鼻」に逃げられて取り乱していたとはいえ、新聞の広告に「私の鼻を捕まえてくれた方には十分なお礼を差し上げる」などと掲載してもらおうとは滑稽な話である。現代ならエイプリーリールフールでないと掲載されないような内容だ。しかし、少佐にとっては藁をも掴む思いだったのは彼の必死な交渉からも読み取ることが出来る。誰にも見せまいと心に決めていたハンカチの下(鼻のあった、今はのっぺりした部分)を広告担当の男に見せたのも苦肉の策だったに違いない。しかし、広告担当の男にとっては、少佐の身に起きた出来事は、好奇心を刺激される面白いものでしかなかった。このシーンで少佐と男(少佐以外の人物)との凄まじい温度差が浮き彫りにされていることがわかる。少佐にとってそれがどれだけ大事なものであっても、男(又は読者)からしてみれば他者に降りかかった珍しい出来事として傍観していられるのである。

 途方に暮れて自宅に帰った少佐だったが、訪ねてきた一人の巡査によって事件は解決の兆しを見せる。なんと「鼻」が捕まり、元の少佐の鼻の形になって戻ってきたのである。喜ぶ少佐だったが、更なる悩みが少佐を襲う。鼻が元の場所にくっつかなかったのである。温めてみても、湿らせてみても、ダメなのである。焦った少佐は医者をあたって鼻をくっつけてくれるように頼むが断られてしまい、またしても途方に暮れてしまう。

 しばらくしてこの奇怪な事件はペテルブルク中の話題となったが、噂話に尾鰭がつく頃になると、突然鼻は何事もなかったかのように少佐の頬と頬の間に戻ったのである。突いてみても引っ張ってみても鼻は離れる兆しを見せない。自信を取り戻した少佐はその後上機嫌で街に繰り出していき、人々の反応を見ては自分に鼻があることを実感して回った。

 以上のような話だが、ゴーゴリは、このような事件は稀にだがあることはあるのだとしながらも、この話には辻褄が合わないところが沢山あると自ら述べている。シュールな内容に意識が持っていかれがちだが、彼が伝えたかったことは別にある。それは、例え身体全体の小さな一部分である鼻でも、無くなってみれば、自分を構成するために必要な大切なものであったということだ。

 似た話が芥川龍之介の作品にもある。題名は同じく『鼻』だ。しかし、前者と違うのは鼻が主人公にとって疎ましい存在であったということである。

 池の尾(現在の京都宇治市東部辺り)の僧である禅智内供は自分の長く垂れ下がった鼻を大いに持て余していた。何をするのにも気にかかり、中童子に棒で支えてもらわなければ満足に食事もできないこの鼻は、池の尾中で知らない者がいないほど有名だった。

 ある日、弟子の僧が鼻を短くする方法を勧めてくる。それは鼻を熱湯で茹で上げて足で踏み、出てきた油を毛抜きで取っていくというものだった。内供は早速その方法を試すのだが、自分の鼻をこともなさげに踏みしめる弟子の僧の足に微かな憤りを感じるのである。

 この場面で、内供が自分の鼻に苦心させられているにも関わらず、自分以外の者に鼻が存外な扱いをされると、いくら嫌いな鼻であっても自分まで無礼な扱いをされていると感じていることが分かる。

 果たして鼻は短くなった。内供は上機嫌で法事に励むようになるのだが、どうにも会う人会う人の反応が、鼻が長かった時より奇妙なのである。最初は見慣れた長い鼻が短くなっていることへの反応だと受け取っていたが、どうも様子が違う。彼らは長年の悩みを取り払った内供の態度が物足りないようで、また元に戻らないものかと消極的な敵意(傍観者の利己主義)を向けてきているのだ。つけつけと哂ってくる周囲に悩まされるようになった内供は、とうとう短い鼻が恨めしいと思うようになってしまう。

 ほどなくして内供の鼻は元の長く垂れ下がった形に戻ってしまうのだが、内供は「もう誰も哂うものはいないにちがいない」と、鼻が短くなった時と同じようにはればれした心持ちになるのである。

 ゴーゴリの『鼻』では自慢の鼻が無くなった少佐の奔走を描いていたが、芥川の『鼻』は苦心していた鼻が無くなった(変化した)ことで生まれる新たな苦悩を描いている。鼻に対する印象の違う二人だが、二人の作品には共通している部分があった。それは、鼻の持ち主とその周囲の人々との温度差や重要度の違いが顕著に表れている、ということである。他者にとっては小さな出来事でしかないが、当事者にとってはとても重要なことであり、自らの「これまで」と「これから」を分断させるほどの大事件なのだ。

 テーブル横の鏡を引き寄せて自分の鼻を見てみた。二十二年間、私の先頭を切ってきた鼻が、太々しく顔面の中心に座っている。鼻には微塵もとれたりひとりでに歩き出したりする気配は見られないが、これが無くなったらと思うと、なかなかゾッとする話である。

 最後に、ニコライ・ゴーゴリと芥川龍之介の鼻を拝見してみる。

 なるほど、彼らの鼻も、なかなかどうして立派なものなのであった。

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