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琳琅 創刊号より、「かんう」武村賢親

井塚義明の視点3

 佐久間の営む日本料理の居酒屋には喫煙席がない。カウンター席に座る客の正面で料理をする手前、食材に匂いがつくといけないと言って、自分は超のつく愛煙家のくせに店の中では絶対に煙草を吹かさなかった。そのかわり、店の裏手を通る細い路地には逆さにしたビール瓶のケースと円柱型の吸殻入れを並べただけの小さな喫煙場が設けてあり、どうしても吸いたいという客にはそのスペースを提供している。オレンジがかった弱々しい光を放つ電灯でしか照らされていないこの一角では、細い闇路の向こうで輝く忙しない新宿の街を時間軸の違う別の空間から眺めているような感覚に浸ることができた。

「ははっ、やっぱり来た」

「やっぱり、ってなんだい。ここは俺の店だぜ」

 ときたまこうやって佐久間自身もニコチン切れを我慢できなくなっておもてに出てくることがあるのだが、そのときの格好がいかにも変質者のようでおもしろい。袷の割烹着の上に羽織ったオーバーコートを首元までぴっちりと閉じ、ニット帽を被って、指に直接ヤニの匂いがつかないようにと革製の手袋をしているそのスタイルは、仕事着に喫煙中の煙が触れないようにという彼なりの配慮だった。

 そこまで気を遣うならやめちゃえばいいのに、と言うと、人を顎で使うような仕草と共に、ばかぬかせ、とお決まりの、ば、に強いアクセントが利いた返事が返ってきた。人生を楽しむコツは、どれだけバカなことを考えられるかなんだぜ、煙草吸っているやつが繊細な日本料理なんてありえないだろ? でも俺はちゃんとものにしたんだ。

 次いで聞こえた、ヂパッ、という味わい深い音が彼の口元を浮かび上がらせ、色の薄い唇に挟まれた煙草へ命を吹き込む。たかだかマッチ一本の光源だが、間に合わせの百円ライターのそれよりはよっぽど温かみがあった。手首を振って火が消されると、再び元の暗がりが数ミリにじり寄って来る。肺に迎え入れた紫煙を中空に向かって吐き出して、扉横の壁に背中をつけてもたれかかった。右手の中指と薬指の間に煙草を挟み、左手は大ももの付け根の辺りにそえられている。同じ大学を出て十年目に入ろうとしているが、変化したのは体形と年収くらいで、この関係はモヒカンとパンチパーマで原付に跨り、夜な夜な遊びまわっていた学生時代からまるで変わっていなかった。

 煙草を吸い始めて間もない頃、ルパン三世の大ファンである佐久間は作中のルパンを真似て、青いパッケージが特徴のジタン・カポラルを吸っていた。対するおれはルパンよりも相棒である次元大介のハードボイルドかつクラシックなスタイルが大好きだったので、今も昔も、もっぱらポールモールを愛煙し続けている。両者とも燃焼時間が短くて、二人で談笑しながら吹かしているとあっという間に一箱吸いきってしまうことが何度もあった。就職してからというもの、職場の厳しさを紛らわせるようにおれの喫煙量は増していったが、佐久間は料理修行のために三年間禁煙して腕を磨いた期間があるので、健康という点では彼の方が圧倒的に良好である。煙草一本が寿命を十分縮めているのだとしたら、確実におれが先に死ぬだろう、そういう話になると彼は決まって、棺桶にはポールモールをダースで入れてやる、と真顔で応える。その度に、おれは副流煙じゃなくて主流煙が吸いたいんだけどね、と内心で思いながら、ダースじゃ足りないよ、と冗談めかしてお茶を濁すのが常だった。

 二本目の煙草に火を灯したときだった。そういえば彼、最近よく来てくれているよ、と鼻から煙を噴出させた佐久間が扉の方を親指で示す。

「鴇田か」

 あいつに佐久間の店を紹介したのは吉祥寺のライヴハウスで知り合った日の夜だった。お互い全く違う趣味について熱弁しあっているのも関わらず、好きなことに掛ける熱量が妙に一致していて、佐久間を交えて朝まで語り合ったことがあった。

「毎回一人で来てはカウンターで二、三杯引っ掛けて帰るんだけどな。うちの味を気に入ってくれたようでさ。食っているときの一心不乱さが見ていて嬉しいんだよ」

 鴇田は食事中、口の中にものが入っている間は何があっても言葉を発しないという、恵方巻の心得のような習慣を持っている。初めてここで一緒に食事をしたときも会話と会話の間にその沈黙が挟まることがあって気まずい思いをしたが、慣れてみるとむしろ扱いやすく、矢継ぎ早にぺらぺらと下品に話し続ける人間よりはずっと好感が持てた。良い方に外している佐久間の勘違いはそのまま放置しておいてやることにして、指先まで迫っていた吸殻を水の張られた円柱の吸殻入れに落とした。

 三本目を口に咥えたところで佐久間も一本目を吸い終わり、二本目を取り出すためにコートのポケットに手をつっこむ。驚いたことに取り出されたのはジタンブルーに女ジプシーが踊っているあのパッケージではなく、黄緑色の、化学薬品を使っていない百パーセント無添加をうたっている、インディアンの横顔が描かれたアメリカンスピリットだった。

「おい、おい、どうした?」

 手元を凝視して呟いたおれの言葉に、自らの失態を目撃されたときのような表情をしながらアメスピに火をつけた佐久間は、ろくに漂いもしない薄い煙を吐き出して視線を地面に落とした。左手が太ももを離れて、掌が首筋を撫でる。これからあまり気持ちの良くない話が始まるだろうということは、その仕草で予想がついた。彼は隠し事や嘘をつくことができない。自分の感情がそのまま手の動きに表れてしまうからだ。じつはな、と切り出す声がいやに重たい。

「奈緒美の肺にさ。癌が見つかってよ……」

 そうか、女将さんに、と応える自分の眉間に皺が寄っていくのがわかった。咥えた煙草を摘まんで口から放す。もしかすると、と考えたおれの思考はそのまま隣に伝わったようで、佐久間も指に挟まっている煙草をじっと見詰めながら続けた。

 こいつのせいかな、とは思ったよ、付き合っていた頃からずっとアイツの隣でもお構いなしに吹かしていたからな、と言って、彼はなかなか短くならないアメスピを軽く振って見せた。子どもが腹にいたときは多少控えていたけど、やっぱりベランダとか玄関先で吸ってたよ。それでもアイツ、俺にやめてほしいだなんて一言も言わなかったんだぜ。ありがたい嫁を貰った、なんて思ったけどよ。こうして見つかってみると、自分の振る舞いが間違ってたのかなって感じることもあるさ。

 佐久間の独白を黙って聞きながら、巻紙に印字されている赤いPALLMALLの文字を親指の腹でなぞった。煙草は万病の元、なんていう標語をよく喫煙者ではない同僚に説かれたりするが、喫煙している自分自身の身体に異常が見つかっても、まぁ、自業自得だな、と納得できる。しかし、佐久間のジタンは彼でなく、彼の愛する家族に魔手を伸ばしたのだ。

 発覚した瞬間の佐久間は一体どれだけの衝撃を受けたのだろう。きっと両手をだらりと垂らして顔を伏せ、事態がのみこめてくると、今度は掌を血がにじむほどきつく握りしめたに違いない。再び、やめないの? と問いかける。問いかけておいて、おれは自分の煙草に火をつけた。だいたい四分ほどのポールモールを、惜しみなく肺いっぱいに吸い込んで吐き出す。煙は僅かな空気の流れにのって、ほんの少し先の闇まで届いた。

「やめないよ」

 気をつけていなければ聞き逃してしまいそうな返答だったが、その声色は強く、揺るぎない固い意志が感じられた。そう、とだけ応えて灰を落とす。
ただしばらくは、アイツの周りで煙草は出さないし、隠れて吸うとしてもアメスピだけだ。ジタンは、今の箱が空になったら、もう買わなくなるだろうな。

 学生時代から一途に貫いて来た銘柄を変えるという感覚は想像できなかったが、佐久間がジタンをやめないうちはおれもポールモールをやめないつもりでいたため、しかたがないことだとしても、おれたち二人の時間軸がほんの少しだけ左右にズレて、俺一人だけが紫煙の中にとり残されたような気持ちになった。

 そろそろ戻るよ、と吸殻を円柱の吸殻入れに押し付けて捨てる。痛くなるほど冷たくなった指を摩りながら立ち上がると、暗い話聞かせて悪かったな、ビール一本つけるから、鴇田くんらと飲んでくれ、と気を利かせてくれる佐久間に、ほんと? 悪いね、ありがたく頂くよ、と普段通りの声音で応えて、おれだけが扉をくぐった。彼のアメスピはまだ半分も減っていなかった。

 女将さんからビール瓶とグラスを受け取って座敷に戻ると、あらかた空になった食器が片付けられたテーブルの横で、難しい顔をしている鴇田とその膝に頭を預けて眠っている小羽が待っていた。あぁ、そうだ、こいつがいた。思わずため息をついてしまう。

「君たち、いつになったら結婚するんだろうね」

 戯れのつもりで発した言葉だったが、いきなりなんですか? と返してきた鴇田の様子がそわそわしているように感じた。座布団に腰を下ろしながら、こいつ、まんざらでもないな、と内心でほくそ笑む。結構長い間付き合っているらしい二人だ。どちらかがそういう考えを持っていても何ら不思議ではない。

 だからこそ、小羽について伝えなきゃならないことがあった。もしこいつが本気で小羽のパートナーになろうと考えているのだとしたら、俺はこいつに教えてやらなければならないことを、一つだけ知っていた。

 三日前、たまたま件のスポーツ用品店を訪れた時間が小羽の退勤時間と重なって、一緒に帰路に着いたことがあった。鴇田の写真の話やおれのDJ活動の話をしながら駅に向かい、彼女が意外にも芸術に造詣があることを知ったのもその日である。

 駅前の広場で煙草を数本灰にしてから、小羽と合流する。ごみごみした人の波を避けて改札を抜けると、彼女のスマートフォンに着信が入った。すみません、とスマホを耳に宛がいながらも歩度は緩めず、一緒に階段を登っていく。受け答えする彼女の声音が深刻になっていくことに気がついて振り向くと、彼女の顔色は青くなるを通り越して蒼白になっていた。良い知らせじゃないな、と思っていると、通話を終了するなり口元を押さえ走り出し、通行人にぶつかるのも構わず階段を駆け下りて行ってしまう。尋常ではない反応に唖然としながらも後を追いかけるが、小羽は階段の中腹ぐらいの所で立ち止まって、膝を抱えるように蹲っていた。遠目にでもわかるほど身体を小刻みに震わせて、真下を向いて何度かぐっと身体を縮めている。どうやら吐き戻してしまったようで、近寄ると鼻にむっとくる酸っぱい匂いがした。取り出したハンカチで小羽の口元を拭き、まったく動けない様子の彼女が落ち着くまで背中をさすってやる。同僚が悪酔いして嘔吐したときの対処法だったが、なんだかんだこれが一番安心する。呼吸が安定しはじめたことを確認して、半ば強引に立たせて階段を下りた。幸い階段を下りてすぐの所に、こういう緊急時には勝手の良い障がい者用のトイレがあったため、小羽をその中に残し、おれは扉の前で待つことにした。

 三十分ほど経っただろうか。幸いにもその間に利用者は現れず、若い駅員が事情を聴きに来たこと以外は困ったことは起こらなかった。鴇田に連絡した方が良いか、とスマホを取り出したところでトイレの扉が開き、ふらふらとした足取りで小羽が出て来る。

 顔面蒼白のまま俺の手元に視線を落とすと、トッキーには言わないでください、と懇願するような声音で呟く。おれが躊躇している素振りを見せると、いっそう必死になって、お願いします、と頭を下げた。ここまでされると連絡する気も折られてしまい、スマホをポケットにしまい、これ飲みなよ、と言って購入しておいたペットボトル入りの水を手渡す。

「ありがとう、ございます……。ハンカチ、洗って、返しますから……」

 こんなに細かっただろうか、と思ってしまうほど痩せた手を伸ばして受け取る小羽があまりにも頼りなく心配になり、無理を言って彼女を最寄り駅まで送ることにした。その電車の中で、彼女は自分のこれまでをぽつり、ぽつりと聞かせてくれた。父親が千葉の刑務所にいることだとか、PTSDという精神疾患を患っているだとか、もちろんその節々に鴇田が必ず絡んでおり、彼女にとって鴇田が大きな支えになっていることも知ることができた。
いつぞやのテレビで見たニュース速報が脳裏をかすめていく。他人事だと楽観してラーメンを啜っていた自分が恥ずかしくなった。他人事であることには変わりないが、それなりに仲良くなった手前、おれにも何かしてやれることはないかとずっと思案し続けている。

 なにかあるなら言ってください、という鴇田の声に顔を上げた。俺の煮え切らない言動に違和感を覚えたのか、まっすぐに俺の目を見据えている。
なぁ、鴇田、気づいているか? お前は小羽を一番近くで支えてきたけどさ。お前自身、そいつの不幸を自分の背骨に組み込んじまっているかもしれないんだぜ。

「小羽の親父さんが亡くなった」

 もったいぶったおれの告白に、鴇田の瞳が震えた。

「四日前だ。心筋梗塞による心不全だそうで、小羽が面会に行った日の翌日だったらしい」

 鴇田は一度だけ小羽を見下ろし、もう一度おれの顔を見た。まだ、信じられないという表情をしている。事件の起きた日、血だらけの小羽にずっと寄り添っていたのが鴇田であることは既に彼女から聞いていた。もしかすると、親父さんが獄中死した責任の一端は自分にあるのではないか、ということまで考えてしまうかもしれない。

「小羽は、知っているんですか」

 絞り出すように問いかけられ、三日前の駅での経緯を話した。彼は視線をテーブルに落としたまま、耐えるような表情で聞いていた。

「君にはおれから伝えて欲しいと言われた」

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