連載「若し人のグルファ」武村賢親32

 小糸がどういう風の吹きまわしで遠路遥々アフリカ大陸まで渡っていったのかなんてわからないが、あいつがなんの利益もなく見ず知らずの人間を助けるとは思えない。

 初めて出会った日、マティファは小糸に借りがあると言った。
その借りというのが、その家族から自分を引き離してくれたことなのだろうか。

 先行するダンプとの車間距離を維持しながらつまみをひねって、しっとりと聞けるクラシック音楽のチャンネルに切り替える。

 それにしても、小糸の母親か。

 考えてみれば、小糸の半生に関わる情報を、俺は一切知らされていない。ことあるごとに店に呼ばれたり、自宅に招待されたり、ふたりで一夜飲み明かすことだって何度となくあった。それなのに俺は、小糸の家族や経歴、果ては誕生日や血液型に至るまで、あくまで一個人としてのあいつの基本的な情報を、まったく思い出せなかった。

「出会った当初、小糸はとても不思議な人でした。姉のように温かく接してくれたと思ったら、あまえないでと突き放し、優しく頭を撫でてくれた次の日には、底の見えない洞のような目で私を見るのです」

「それは――」

 それは、俺も抱いたことのある印象だった。あのダーツバーからふたりで抜け出した夜、四畳半の秘密の部屋で、小糸はふたつの顔を俺に見せた。
ひとつは気紛れな猫が見せるような、あまくくすぐるような人懐っこい笑み。

 もうひとつはこだますら返ってこない青葉闇にひそむ、腹をすかせた蛇のような静寂。

 じっと見つめてくるだけなのに、伝わってくる印象はまったくの正反対。

「すっかりその妖しさに取り憑かれてしまった私は、家族にも話していなかった秘密を、ほんの弾みで打ち明けてしまいました」

 赤信号に捕まり、停止する。

 俺も、その二面性にこころを奪われた時期がある。昨夜丑尾に話したように、それは恋と呼べるようなものではなかった。禁断の果実に手を伸ばすような背徳感が、小糸との交わりにはあった。きっとマティファも、その秘密の快楽にあてられたのだろう。

 視線をバックミラーに向けると、小糸の面影を湛えたマティファの瞳が俺を捉えていた。

「あのとき、見ていましたよね」

 あのとき、というのは、屋上庭園でのキスシーンのことだろう。
目が合った覚えはないが、一時凝視してしまったことはたしかだった。

 視線を外して、アクセルを踏み込む。ダンプは右折車線に移動して、代わりに小さな三輪自動車が前についた。同じオンボロ具合が気に入り、鈍い加速だったがしばらくついていくことにした。後進の車が車線を変えて、次から次へと俺たちを追い抜いていく。

 俺が答えないでいると、マティファは言葉を探すような気配を発して、しばらくの間沈黙した。

「私は、レズビアンです」

 ひどく端的に、マティファは自らの性癖を告白した。

 丑尾とはえらい違いだなと感心する。

「イスラム教は、同性愛を禁じています。私はその教義を守りながら、自分に嘘をついて生きてきました」

 神田川の手前を左折し、オンボロ三輪車と別れる。新目白通りを直進して中井駅を目指す。

「私の住んでいた街では、同性愛者だと露呈すると脅迫文が届いたり、実際に暴行を受けたりする人もいました。だから私は、自分の性的志向を打ち明けられませんでした」

 壮麗なモスクで、敬虔なイスラム教徒に囲まれた少女がひとり、自らを偽って神に祈りを捧げている。少女は誰かに悟られるのではないかとヒジャブに包まれた顔を強張らせて、びくびくしながら地面に額をついている。

 そんな光景を想像して、胸が痛んだ、と言ったら、嘘になる。

 実際のところ、よくわからなかった。神様という見えない存在に対して祈るという感覚そのものが、自分の宗派すら詳しく知らない俺にはまるで理解できないものだった。

 お寺や神社に参拝した際、賽銭を投げて手を合わせる。この行為もなにかを祈るというよりは、願い事を伝えるという意識の方が大きくて、崇拝とは程遠い。

 キリスト教は日曜のミサに合わせて教会へ赴き、イスラム教は日に五回、メッカの方角に向かって礼拝する。熱心な仏教徒なら、近場のお寺に出向いて和尚の説法に耳を傾けたりするのかもしれない。

 しかし、俺にはそのような習慣がない。日ごろから神様とやらの存在を感じてありがたく思ったり、嘆いたりしない。先祖の霊や、悪いことをすると罰が当たるという信仰も、年齢を重ねるごとに薄れる程度のものだ。

 だからどんなに想像したところで、マティファの抱えていた苦悩を理解することはできそうにない。

 だが、丑尾ならどうだろう、と思う。あいつも神や仏を信じていなさそうだが、自分の性癖に悩みを持っているという点では一致している。トランスジェンダーの丑尾に対してマティファはシスジェンダーだが、共通する点はあるかもしれない。

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