掌編「ベーシカ・プエゥ」武村賢親

 できたかな。

 できるわけないじゃない。

 うつ伏せのまま、あきこが応える。いぐさの匂いなんて初めからしなかったんじゃないかと思えるほど変色した畳の上に、安いせんべいみたいな布団を一枚だけ敷いて、裸のまま、だらしのない胸を押しつぶしている。胸はアレだが、ケツは良い。長い髪の向こうでつんと天井へ尖ってみせる脂肪と筋肉の集合体は、電球の明かりを滲ませて、白くてらてらと光っている。あついね、と言ってあきこは腕を枕に身体を傾けた。腰のくぼみに溜まっていた汗がこぼれて布団にシミをつくる。飲めそうな量だったな。あきこの胸や、尻や、股陰なんかよりも、こぼれ落ちた汗の方がずっと扇情的に思えた。きっと生臭くてしょっぱい味がする。

 一服して、くたびれた背広に腕を通す。横着してそのままにしておいたズボンは布団の下で見事に皺を刻んでいた。幸いにも皺の位置はポケットの下の部分だったので、履いてみればたいして気にならなかった。それよりも姿見の汚れの方が気になった。

「もしかすると、ってのは」

「ない。ないわよ。あなたとあたしで手一杯」

「そうかな。そうだな」

 仕事は大体九時間きっかりで終わる。実働八時間、休憩一時間、しめて九時間。どうして移動時間は含まれないかな、仕事場に向かう時間だって立派な拘束だろうに、着替えの時間だってそうだ、着替えてから出勤手続きしろなんて、違法だぜ、知ってたか。

 モップとバケツと雑巾が相棒だ。たまに研磨機とかスコップとかを握ることもあるが、大抵は床とトイレの清掃で一日が終わる。それから違法な着替え時間を経て、駅舎の喫煙所で煙草三本分の時間をつぶしてから、荒川が見下ろせるアパートへ戻るのだ。

 あ、今日もやるんだ。

 帰路の途中、発展途上とも言い難いこんな中途半端な街角で、シャッターを背にギターを抱える一人の青年。目の前に置かれたギターケースには小銭が数えられる程度に散らばっており、一枚だけ折り目のはっきりした千円札が入っていた。ケースの隣にはダンボールの切れ端に、リクエストやります、という間に合わせの看板が置かれている。

「ベーシカ・プエゥを、頼むよ」

 青年は首をかしげ、横に振って、すみません、別のなら、と言う。

 小銭入れから百円を摘み上げてケースの中に放る。訝し気に声を掛けて来る青年に背を向けて、振り返らずに歩いた。田中精肉店を通り過ぎ、骨董品店のシャッターで折れ、一としか書かれていない表札を尻目に見て顔を上げれば、荒川を越える橋に差し掛かる。

 ここでまた、煙草三本分の時間を潰す。今日は梅雨開け最初の晴天だったらしいが、見下ろす川の水量は多いように思えた。吸殻は川に捨ててしまう。しけもくを欄干に並べて、立ち去る時に指ではじいて落とすのだ。

 着替えの時間、どうにかならねぇかな、で一つ。

 さっきの百円、もったいなかったな、で一つ。

 今夜はどうかな、あきこのやつは、で一つ。

 明日もモップとバケツと雑巾かな、で痰を一つ、吐き捨てる。

 薄っぺらな扉を開くと、いつも玄関の脇に立てかけてあるギターネックの横に見慣れない段ボール箱が置かれていた。水が染みたように黒いそれは形が崩れていて台形のように歪んでいる。つぶれた面の皺なんかオレのズボンにそっくりじゃねぇか。靴を脱ぎながら上から覗く。薄いピンクのまん丸いのがいくつも並んでいるのが見てとれた。

 桃じゃねぇか。

「桃じゃねぇか」

「川の、橋の近くで、拾ったの」

 目を凝らしてみると、あまり良い状態の桃ではなかった。大きさはばらばらだし、一部分だけ潰れているものもあるし、カビが生えたように白く粉をふいているものもある。こりゃあ食えるのを選別したら半分も残らないだろうな。顔を上げてあきこを見やる。今朝と変わらず、潰れた布団の上に座して、身につけているのは妙に白い靴下と肩に掛けたバスタオルだけだ。

 腕に、なにかを抱いている。

 どうしたんだ、それ。

 川の、橋の近くで、拾ったの。

 黄ばんだボディータオルにくるまれたそれは、何かを探すように手を伸ばし、口を動かし、甲高い鳴き声を発する。その度にあきこはそれに頬ずりをして自分の舌をその小さな唇にそっと差し入れてやるのだが、それは一時しのぎにもならず、目も開いていないように思えるそいつは再び張り裂けんばかりの大きな声を響かせた。

「おまえ、乳首を吸わしてやったらどうだ」

「無理よ。乾いているから」

 できないか。

 できるけど。

 あきこは舌の代わりに乳首をそいつの唇にあてがった。

 それ、そいつ呼ばわりじゃ不便かな。

 立ち上がって部屋を見回す。目線は自然と、玄関の黒く沈んだ段ボール箱の上にとまった。

 あきこを見下ろす。そのまわりに散らばる黄色いシミ、茶色いシミ、白い輪郭だけのシミ、あきこの汗が生んだシミ。わりと上等な布団だったんだけどな。眠る前に天井のシミを数えるように、あきこを取り巻く無数のシミを数えた。

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