見下す憧景

   浴室で自殺があったから、家賃は半額だった。インターネットのサイトによると、亡くなったのは若い女性らしい。どうやって月三十万の家賃を払っていたのだろう。  

    もしも死ぬのなら、狭い浴室より、バルコニーから飛び降りる。時間は朝がいい。二十三階から、灰色の東京が橙色に染められる様子を見ながら死にたい。
   

   この部屋に決めたのだって、景色良いからだった。1LDKだが、一人では持て余すほど広い。正直事故がなければ到底住めないが、今のところこれといって問題もない。成仏したのだろう。結婚も諦め、歳と貯金だけを増やした四十路男にだって、このくらいご褒美があってもいいだろう。
   

   引っ越して、人生で初めて趣味ができた。窓から景色を見ることだ。そのためにバードウォッチング用の双眼鏡も買った。夜勤を終えて帰宅し、カーテンを開け、朝日に照らされた東京をくまなく観察する。空を泳ぐカラス。東京タワーを支える細い針金。オレンジ色のグラデーションを作るビル群。この瞬間だけ、私は東京の帝王になる。店長と呼ばないバイトも、タバコを番号で言わないオヤジも、コンドームを買っていくカップルも、廃棄処分の弁当を盗むホームレスも、本社の偉そうな年下の上司も、全てを支配する。もちろん、彼女も。
   

   彼女は斜め前のマンションに住んでいて、いつも朝に帰ってくる。私より階数が低い場所に住んでいるので、見つめる時は首が痛くなる。彼女は毎朝、カーテンを開けるとため息をつき、ソファに寝転がりながら右足をピンと伸ばしてストッキングを脱ぐ。それからジッパーを下ろしてドレスを脱ぎ、被っていた金髪のカツラを投げ飛ばす。彼女の青みがかった黒髪を知っているのは、きっと私だけだ。それから窓際へと歩く。黒色のスリップと、白い肌と、朝日のオレンジだけが彼女を包み込む。そして彼女は何かを呟くと、ソファに戻り、そのまま眠る。

   私は彼女が眠ったのを見届けると、おやすみ、と挨拶をして寝室へ向かう。そして机の引き出しから給与明細を取り出し、羊の代わりに一枚一枚数えていく。新卒時代からずっと残しているそれは既に擦り切れているが、しなびた感触が気持ち良かった。自分が社会の一部として存在しているのだと、この色あせた青色の紙が教えてくれる。
   

   こんな生活が一年ほど続いていた。犯罪だとわかっている。それでいい。ただ、私という人間がここにいると気づいてくれたら。明日こそ、私を捕まえてくれないか。まぶたに入り込む朝日を感じながら、今日も夢へと落ちる。
  

    朝の気配が紫色の空を地球の裏側へ追いやっていく。双眼鏡を彼女の部屋へ向けると、彼女はベランダに立っていた。サテンのスリップと長い黒髪が冬の風に吹かれている。細い腕を手すりにかけると、彼女は足を浮かせた。
   

   落ちる。警察に電話しても、今からでは間に合わない。彼女のマンションへ走ったところで、何号室にいるかわからない。ここから叫んでも、彼女には届かない。私の方が先に死ななきゃならない。綺麗で、若くて、私にないものを全て持っている彼女は、死んじゃいけない。私を存在させてくれるのは、給与明細と、あなたしかいないのに。
   

   私は寝室へ走り、痙攣する指で机の引き出しを開けるとバルコニーへ飛び出した。

   
「お願いだ」
   

   私は両手に持った給与明細を投げ捨てた。その瞬間、一面を光が貫いた。二百五枚の紙たちがゆらゆらと揺れて、色づき始めた東京に踊る。双眼鏡を手に取り、彼女へ向けた。彼女はただ、落ちていく紙たちを、潤んだ瞳で見つめていた。全てが地上に降りると、彼女は腕の力を緩め、ゆっくりと床に足をつけた。それから口の両端を上げて、部屋の中へと消えていった。
 

   双眼鏡を離して手すりを掴むと、手のひらが痛くなった。彼女は、ここへ手をかけた。こんなに冷たい手すりにしか、すがれなかったのか。
  

   この部屋で死んだ女性も、彼女も、私も、きっと同じだ。ただ、私には彼女がいて、彼女には紙切れがあった。そしてもう一人の彼女には、何もなかった。それだけだ。
  

   私は深呼吸をし、東京タワーを眺めた。先ほどより一層強い光を放つ朝日のせいか、輪郭がぼやけている。それが涙せいだとわかったとき、私は窓を閉め、双眼鏡をゴミ箱へ捨てた。


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