連載「若し人のグルファ」武村賢親9

 鈍色の音がかすかに、けれど玉響の輝きを帯びて耳に触れる。

 起き抜けはいつもこうだ。五感の覚醒とともに音は大きく早くなり、注がれる水流の音まではっきりと聞こえはじめる。
鑿だろうか、鉋の刃だろうか。冷たい鋼が規則的なリズムで研石を鳴らしている。

 丑尾は居候初日から、工房で使っている道具の手入れを欠かしたことがない。特に刃研ぎには最も長い時間を割いていて、砥石を水に浸けるところからはじまる一連の作業は、もはや儀式めいた毎朝の日課となっていた。

 丑尾が道具の手入れをしている間、俺はこうして横になったまま聴覚だけを働かせて、一心不乱に手を動かしているだろう弟の息遣いに耳を澄ませる。

 鋼と石。似て非なるもの同士が奏でる摩擦音。

 ふたつは火花を散らすこともなく、受け入れあうこともない。

 対立の中に生まれる調和のとれた律動が絶えず時を刻んでいる。

 ときにはゆめうつつに、ときには廊下の先に見える丑尾の横顔を盗み見ながら過ごすこの時間が、俺はなにより好きだった。

 こころゆくまで弟の鳴らす情熱の片鱗を堪能する。

 今日も、刃は立たないか。

 鑿にしろ、鉋の刃にしろ、まんべんなく研がれた刃というものは砥石の上で立つのだと、いつだったか丑尾は興奮気味に語っていた。

「砥石と刃との間に真空ができてさ。刃がこう、斜めに立つんだよ」

 当面はそこを目指して鍛錬だってさぁ、でなきゃ棟梁、どんなに仕事覚えても新人としか呼んでくれないんだよ、と言っていた丑尾の、冷水にさらされて赤くなった指先と、それをじっと見つめる眼差しの強さが思い出される。

 きっといまも、あのときと同じような目で砥石を滑る冷たい刃を見つめているのだろう。

 ふいに、砥石の音がやんだ。

 後片づけの気配を感じて、寝返りを打つ。これからもうひと寝入りして、八時ごろに起き出して朝食を取る。それから身支度をして、桑原に連絡を取れば良い。

 丑尾の足音が背中側を通過して、着替えはじめたのか衣擦れの音が聞こえる。

 俺を起こさないよう慎重に動いているのだろうが、そこまで気を使われるとつい大声で驚かせたくなるのが人の性というものだ。しかし以前、一度それをやって丑尾の手から滑り落ちた鑿の刃が足の指から数センチのところに突き刺さったことがあった。それ以来、道具を持つ丑尾を驚かすというバカな真似はしていない。

 同居しはじめて一年以上経つが、丑尾はいまだに俺の前で着替えをすることを避けている。裸は平気で見せるのに、下着姿は見せたくないらしい。

 下は問題なくても、上半身は嫌なのか。以前そう聞いたことがあった。機嫌を悪くするばかりだったのであまり深くは聞けなかったが、想像するに、不本意ながらも胸の突起を隠す下着を身につけなければいけない窮屈さに、不満を抱えているのだろう。

 外向き、という意味では、女性の上半身は下半身よりも性の主張が強く、なにかと視線を向けられることが多い。そのためいくら丑尾が窮屈に思おうと、自衛のためにはシャツ一枚でというわけにはいかないのだ。

 いくら髪を短く刈り上げようと、筋肉をつけて化粧の一切を放棄しようと、はたから見た丑尾はボーイッシュな容姿をしている女性という程度の見た目でしかない。本人は不服だろうが、それが現実だった。

「いってくる」

 小さくそうつぶやく声が聞こえて、薄く目を開いた。壁に映った丑尾の淡い影が廊下へと向かう。すこしして靴底の砂利がこすれるような音が鳴り、扉が開いて、部屋の中が明るくなった。

「いってらっしゃい」

 扉が閉まりきる直前に返した俺の声は、丑尾に届いていたのかいなかったのか。廊下を遠ざかっていく足音はそのリズムを変えず、とうとう聞こえなくなった。

 隣の部屋から目覚まし時計のアラームがうっすら耳に届く。

 すこし早いが、起き出すことにした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?